まえに、ここに文章を寄せるのはどうもアウェイな気がして……と言ったら怒られた。すみません。

 でも、ミステリーあんまり訳してないし、みなさんほど読んでないし、ミステリーについて語ることもないし……やっぱりアウェイかも。

 そんなヤツがなぜここでエッセイを書くかって? ま、苦情はすべて依頼者の加賀山さんにお願いします。

 ということで、ミステリーについては何も語れないけど、ちょっとでも翻訳に関係することが含まれていたら、何を書いてもいいとのことだったので、自由に書かせてもらいます。

 翻訳をはじめてまもないころはエッセイなどのノンフィクションを訳すことが多かった。そのなかで思い出すのがビル・ブライソンという愉快なおじさんが書いたコラム集。イギリスで長年暮らしたアメリカ人のブライソン氏が母国に戻ってきて感じた両者の文化のちがいをおもしろおかしく論じた本だ。イギリスとアメリカじゃ、文化や生活習慣もそんなに変わらなくて書くこともないんじゃないの、と思うかもしれないが、これがどうでもいいようなちっちゃな点に着目し、それを3割増しぐらいに誇張したおもしろいコラムになっていた。

 日々ことばに接し、ことば探しにあくせくしている翻訳者としておもしろいなと思ったのが、「ことば遊び」というコラム。ことばのなかには事物をうまく言い表しているものもあれば、そうでないものもあるという。たとえば、食べ物の名前はたいていまちがっているそうだ。木工細工したあとのおがくずをミックスナッツといっしょに袋に入れ、それに小鳥の餌をまぜて健康的な朝食を装わせたものはミューズリーと呼ばれるが、ミューズリーと聞いてまず思い浮かぶのは吹き出物につける軟膏ぐらいだそうだ。

 しみをつけたくない白いシャツに必ず垂らしてしまうどろどろのトマトソースはケチャップではけっしてない。ケチャップと聞いて思い浮かぶのは、独身の叔母がハンカチで口を覆いながらする小さなクシャミの音である……等々。

 たしかに、英語を読んでいて、このことばちがうなと思うことはたまにある。

 わたしは今、ヒストリカル・ロマンスを訳すことが多いのだが、そのなかでもエロティックな小説でよくお目にかかることばにnipple(ニップル)いう単語がある(あ、意味わからない人は自分で辞書引いてね)。体のこの部分、ロマンス小説では官能スポットとして重要な役割をはたすのだが、その部分をニップルと呼ぶのはまちがっている。ニップルと聞いて思い浮かぶのは、森のなかで遠い親戚のコロボックルと戯れるおしゃまな森の住人である。もちろん、ニップルちゃんの妹はapple(アップル)ちゃんで、一番の仲良しはfreckle(フレックル=そばかす)ちゃんというわけだ。

 こんなメルヘンなことばがエロティックな小説に登場することにはどうしても違和感があるが、たまに役に立ってくれることもある。

 二日酔いで頭も胃もどんよりしている朝(ごくふつうの朝)、仕事をはじめようと原書を開いたら、ヒーローとヒロインがいちゃいちゃとその気満々で待ちかまえていることがときどきある。しかもそれが何ページもつづいたりする。そんなときは胸焼けをおさえながら、「ごちそうさま、勝手にどうぞ」と原書を閉じたくなるのだが、ニップルちゃんが登場して(出番はわりと早い)そこに森の空気を運んでくれると、ほんの少しさわやかな気分になって、そこにニップルちゃんがいてくれるなら、延々とつづくどろりとした官能の世界にも耐えられるかもしれないと思うのである。ありがとう、ニップルちゃん。

 エロティックな世界でひとりメルヘンな存在のニップルちゃんについてはもっとあれこれ語りたいのだが、こんなおおやけのサイトでこれ以上このことばを連呼しているとまたお叱りを受けることになりそうなので、今回はこの辺で。

高橋佳奈子(たかはし かなこ)。東京外国語大学ロシア語学科卒業。訳書に、ブライソン『ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー』、フェネル『犬のことばがきこえる』、コールター『夜の嵐』、クイック『オーロラ・ストーンに誘われて』など。東京都在住。

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