■規格外の「奇書」が誕生

 中国ミステリー小説にはこれまで、物語の設定や着眼点などに驚かされることはしばしばありました。しかしそれらはどれも小説への評価であり、紙媒体か電子媒体の形式の違いこそあれ、読者として大切なのは物語の中身だけであり、小説は結局小説の枠組み内でしか評価してきませんでした。
 しかし今年11月、内容、大きさ、価格ともに「奇書」と呼べるミステリー小説が発売され、業界の注目を集めました。それは、上海生まれで復旦大学出身のミステリー小説家・呉非(ウー・フェイ)が「制作」した、『勝者出局』(仮訳:勝者は退場)です。

『勝者出局』

 上の画像を見れば一目瞭然ですが、本作は書籍という形式から逸脱した黒く大きなボックスです。
 蓋を開けると、バインダーやペーパークラフトの展開図などが出てきて、それらを取っていった最後に鉛筆や定規などと一緒に真っ黒い表紙の書籍が見えます。

定規、テープ、鉛筆などと一緒に収納されている本

 

箱の裏蓋にも書類のような何かが隠されている

  この作品は、全章袋とじの小説に100点以上のグッズ(証拠品や現場のイラスト)を詰め込み、本作の主な事件現場である上海旧フランス租界の武康大楼を再現したペーパークラフト、証拠品を並べるバインダーなどを収めた、疑似体験型のミステリー小説です。

武康大楼のペーパークラフトの一部

 

 実際に出版社から発行されている書籍ですが、もともとは作者の呉非がクラウドファンディングで資金を募るところから始めた企画です。10万元(1元=約15円。約150万円)の目標金額を設定したところ、最終的に3000人以上から支持を得て、97万元(約1450万円)近く集まりました。
 気になる本作の販売価格は198元(約3000円)。本書と同様の300ページ未満の小説が40元前後(約600円)であることから、この作品がどれだけ規格外なのかが分かります。

 

■あらすじ

 2019年7月24日朝、副業として大家業を営む顧芳は、昨夜住人から連絡を受け、武康大楼に向かっていた。しかし部屋には誰もいないどころか、何者かが方智和という人物に書いた誘拐の脅迫状のようなメモが残されていた。犯罪の疑いを持った顧芳は、以前知り合った警察官の賀霊運に連絡する。事件と確定できない賀霊運は、単独で捜査をすることに決め、部屋に残された証拠品などの写真を顧芳に送信してもらいながら、方智和の足跡をたどる。一方、方智和は昨夜娘を誘拐したと名乗る人物からの指示を受け、身代金100万元(1元=約15円。約1500万円)の現金を持ち運んでいた。上海に実在する住所や建築物を奔走し、地下鉄、バス、船などの交通網を駆使した誘拐劇に隠された真相とは?

 中国の他都市と比較すると、上海は歴史が浅い土地です。歴史的建造物として挙げられるものは、1800年代に建てられた西洋風の建物ばかり。歴史的というよりもレトロという表現が似合う都市で、東京の下町を思わせる町並みも多いです。
 一方で大きく経済的発展を遂げた都市でもあるので、中心部には百貨店やショッピングモールがいくらでもありますし、交通網も整備されています。市内を流れる黄浦江という大きな川には渡し船が行き来し、観光客だけではなく地元の人間も利用します。

 簡単に上海の紹介を書いてみましたが、私自身上海には数回しか行ったことないし、まともな上海観光なんか一回もしたことがないので、見てきたかのような紹介文は書けません。しかし本作を楽しむ上で上海に関する知識が最低限必要なので、行ったことはなくてもどういう場所なのかは知っておいた方が良いです。

付録の一つである上海地図

 

■本作の楽しみ方

 一人で……
 普通の読書と同じく、一人で楽しむのが最も多いパターンでしょう。袋とじを開けてその中に入っているグッズを確認しながら読み進めるのがベストです。もちろん、推理せずにページをめくり続けるだけでも読み終わりますが、それはもったいないです。

各章の最後には、袋とじの中身を使った謎解き方法が書かれている

 

 二人で……
 袋とじのほとんどは、警察官の賀霊運と情報提供者の顧芳、誘拐被害者の方智和に分かれています。読者は賀霊運と顧芳パートのどちらかを担当し、彼らになりきりながらそれぞれの袋とじを開き、事件の真相に近付けます(方智和パートは二人で開く)。

各グッズには対応するページ数がマークされているので、整理が楽だ

 三人以上で……
 三人がそれぞれ賀霊運と顧芳と方智和の袋とじを開きます。方智和パートは誘拐犯に指示されているだけなので謎解きがほとんどありませんが、方智和だけが知る情報もあるので、他の二人にヒントを出すことが可能です。そしてそれぞれの情報が集まったら、三人で推理を開始します。

 上海で……
 本を片手に実際に上海の街を駆け回ることもできます。各種交通機関を利用しながら、作品に登場する通りや建築物を回ることで、読書しただけでは分からなかった真実に気付くかもしれません。

 

■作者紹介

 作者の呉非は、推理小説の翻訳者と版権マネージャーとして有名であり、これまでジョン・ディクスン・カー、エドワード・D・ホック、ポール・アルテら数十人の有名作家の代表作を中国に輸入してきました。その中で島田荘司ら日本人作家とも知り合い、今年11月15日から17日に上海で開かれた米斯特瑞国際推理遊戯展(International Mystery Game Expo)ではゲストとして招かれた島田荘司やポール・アルテらと交流し、本書に関する感想をもらっています。 一方で短編の推理小説も書き続けており、アメリカのミステリー専門誌『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』(EQMM)に何度も作品を投稿していました。その努力が実を結び、来年に中国大陸出身の作家としては初めて『EQMM』に短編作品が掲載されることになりました。

 今回、本稿を書くにあたって呉非に書面でインタビューをし、本作品にかける思いや、『EQMM』に掲載される作品の情報などを語ってもらいました。

阿井:『勝者出局』の出版に当たって、クラウドファンディングを行い、100点近いグッズやペーパークラフトまでデザインし、作中では読者にさまざまな読み方を提示しています。これらは普通の小説家がやることではありません。きっと多くの苦労があったと思いますが、なぜボックス形式で出そうと思ったのですか?

呉非:中国では本格ミステリー小説の読者はまだ少ないですが、ゲームは広く受け入れられるエンターテインメントの形式です。グッズやペーパークラフトを同封したのは、本格ミステリーをゲームのようなエンターテインメントにすれば、より多くの人に読まれて、より大きな市場を獲得できると思ったからです。またそうすることで、専業のミステリー小説家になるという夢を叶え、小説の執筆に長期的に打ち込めるようになれます。
 友人たちの中には、何年もミステリー小説を書いたのに、結局専業作家になれなかった人もいます。自分の夢に全力で打ち込めないということは残念なことです。今年5月に日本でイベントに参加した時、麻耶雄嵩先生と専業と兼業の作家活動に関する問題を話しましたが、日本ではこういう状況は若干マシのようですね。

 本作の創作過程では三つの難問がありました。
 一つ目は小説部分です。中でも最も難しかったのがロジックの設定です。本書には「読者への挑戦」を三回設け、異なる結末を用意しています。そのため、ロジックの厳密性や手がかりの公平性を確保する難易度が高かったです。トリックを考えるより難しかったと思います。
 二つ目はゲーム部分です。ゲームの謎を設定するだけではなく、グッズのサイズやデザインを決め、最適な業者を探し、材料の調達まで全て一人でやらなければなりませんでした。これがとても大変で、最終的に部屋まで売り払いました。
 三つ目は小説とゲームの融合です。言い換えれば、物語要素とゲーム要素のインタラクティブな構造を完璧に融合させられるかどうかで、両者を孤立させるわけにはいけませんでした。この作品が単なる面白い小説という評価で終わらせたくなく、ゲーム好きな読者にゲーム性も高かったなと思ってほしいです。
 この分野では巧船さんや打越鋼太郎さんらが傑作を生み出しており、とても尊敬しています。

阿井:国内外の小説家や読者の評価は今のところどうですか?もし本作を日本などの海外で出版する場合、日本の読者に日本限定の読み方を設定するつもりはありますか?

呉非:海外の小説家はまだ私の作品を読むルートがないので、大体の評価は作品の形態に対するものです。イギリスのディテクション・クラブ現会長のマーティン・エドワーズ先生は、読者がストーリーの結末を決めるというインタラクティブ性がとても珍しいと仰ってくれました。島田荘司先生は事件現場となった武康大楼のペーパークラフトにとても興味を示し、日本ではこういうのを見たことがなく、とても面白いと仰ってくれました。綾辻行人先生は、ペーパークラフトの展開図がとてもキレイで、この展開図をしおりにできないかと聞いてくれました。大山誠一郎先生は、本作がご自身の『Yの誘拐』と同じく誘拐を扱った話である点に興味を示していました。フランスのポール・アルテ先生だけは本書の冒頭部分を読んでおり、サスペンス性に溢れた話だと仰ってくれました。

International Mystery Game Expo後、上海の空港で本作を紹介する島田荘司氏(動画提供・呉非氏)

 国内の読者は、ストーリーがよどみなく、サスペンス性があり、映画化に向いていて、推理のロジック性も高いと評価してくれています。豆瓣(中国の有名なレビューサイト)でも9点(10点満点中)の評価が付いていて、読者に気に入ってもらえているようでとても嬉しいです。

 もし日本で出版するとなれば、一番重要なのは最初に『勝者出局』関係の短編作品を雑誌や短編集などで発表することだと思います。そうすることで、本書の「トリック」がようやく完成します。同時に、小説の一部キャラクターの設定を修正して、このトリックを日本に完璧に融合させる必要もあります。そうすれば、日本の読者もこのトリックの衝撃を完全に体験できるでしょう。
 また、必ずしもボックス形式で売る必要はないと思います。完全に小説に改変して、グッズ全部を平面化して、小説の中にイラストとして印刷するのもありです。普通の小説を作るか、より目立つゲーム性の高い本を作るか、ここは日本の出版社に市場を見て判断してもらいます。
 それに日本では、泡坂妻夫先生の『生者と死者』が出版されているので、袋とじ小説を作るのは難しくないと思います。

阿井:袋とじとグッズ、そしてペーパークラフトが一緒になったミステリー小説は聞いたことがありません。本作はこれまでの中国ミステリー小説と全く異なっています。現在、日本の読者も中国ミステリーに興味を示していますが、あなたにとって中国ミステリーの特色と強みはなんですか?

呉非:中国の本格ミステリーの創作レベルは他国と比べても遜色がないと思いますし、トリックもとても優秀な作品があります。しかし小説という形態で考えると、作家にはまだ大きな成長の余地があります。特にキャラクターの設定、ストーリーの構成、作品テーマのアイディアなどはまだまだ足りないところがあります。それというのも、中国のミステリー小説家の多くは2006年頃から小説を書き始めたばかりで、その成長期間がまだ短く、大部分が35歳前後です。小説家とは優れた作品を模倣するだけではなく、生活の周囲からネタを集めることを学ぶ必要があります。これには一定の時間が必要で、焦りは禁物です。もし中国で短編小説を探すのなら、ミステリー専門誌が長年刊行されていることもあり、良い作品も少なくないです。しかし長編小説でいうと、毎年出る面白い作品の数は限られています。
 もちろん、これは私個人の価値観に過ぎません。個人的に、純粋な知的ゲームや謎解きをテーマにしたミステリー小説に対する興味が薄れていて、推理によって社会に対する観察や思考を描いた作品をもっと読みたいと思っています。最近読んだ作品だと、呼延雲氏の『凶宅』がそれに当てはまります。(本コラム第56回「事故物件と迷信に挑む中国社会派ミステリー」を参照)
 しかし私はゲーム性のある作品を作りたかったので、『勝者出局』はロジックやトリックに頼って意外な真相を提示する純粋な本格ミステリー小説になりました。

阿井:来年『EQMM』で短編作品が掲載されると聞きましたが、そのあらすじや特徴を教えていただけますか?

呉非:『EQQM』に作品が掲載される中国大陸初のミステリー小説家となれたことは非常に光栄です。作品タイトルは『Beijingle all the Way』(仮訳:ベイジングル・オール・ザ・ウェイ。ベイジンとは北京の中国語読み)といい、北京を舞台にしたサスペンスと本格要素が融合した作品です。雪が降るクリスマスイブに偶然久しぶりの再会を果たした二人が、深夜に串焼きを食べながら交通情報を提供するラジオを聞いていたところ、タクシードライバーからラジオDJに宛てた電話が流れてきます。その内容を聞いた二人は、ドライバーが危機的状況にあることに気付き、ドライバーを救うために行動に出ます。しかし最後にとても意外な真相にぶつかるという内容です。
 北京でしか起こりえない物語であるため、中国的特色が濃厚です。また、雪が降るイブの夜を舞台にしていることも『EQMM』から評価され、2020年第1号に掲載されることが決まりました。アメリカではちょうど今年のイブの前後に発行されるようです。
 この短編の中国語版は、実は『勝者出局』のトリックの一部でもあります。先程もし日本で出版されることがあればと言いましたが、そうなったら『勝者出局』のコアとなるトリックは日本で成立するようにします。

 

■最後に

 本作の内容を初めて聞いた時は、アナログなVRゲームみたいな小説だなと矛盾した感想を持ちました。2009年に第1回島田荘司推理小説賞を受賞し、2010年に日本語版が出版された寵物先生(ミスターペッツ)の『虚疑街頭漂流記』は、バーチャルリアリティを駆使してネット上に構築された台北市の仮想都市の中で起きた殺人事件の謎を追うというSF的なミステリー小説でした。『虚疑街頭漂流記』の登場から約10年後、最先端科学技術が身近になった中国大陸部から、バーチャルではなく実際の経験を重視するミステリー小説が出てきたのは懐古主義の現れでしょうか。

 198元という強気な価格設定もさることながら、自分の手を動かして集める証拠品や制作する模型などのグッズ、二人以上でより楽しめる読み方や複数の結末、更には作品の舞台となった上海を「聖地巡礼」できるやりこみ要素など、本作を成立させているものは「余裕」です。の時間的、金銭的、空間的、そして心の余裕がなければ、本作を真に楽しめません。それは読者だけではなく作者にも言えることで、このような作品を構想したとしても、上記の要素が壁になって、実現に辿り着くのは非常に難しいです。
 最初に「奇書」と形容しましたが、このような作品が中国で生まれ、受け入れられているのも、出版社も読者も中国ミステリーの将来に漠然とした大きな期待を持っていて、成功の可能性に望みを託しているからかもしれません。

阿井幸作(あい こうさく)

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

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