明けましてふみ〜(ちょっと遅い新年の挨拶)。2010年に始まったこの連載も今年で2年目に突入、ここまで続けられたのもいつも読んでいただいているみなさんのおかげでございます。

1日も早く、“あの人”に思いが届くよう頑張りますので、これからもよろしくお願いいたします、ふみ〜。

 で、新年一発目の「ふみ〜」はケイ・スカーペッタシリーズ第10弾『警告』です。

【あらすじ】

 ある人物との思わぬ別れに悲しみながらも、休暇もとらずに仕事に励むケイ。そんなある日、リッチモンド港でコンテナから男の腐乱死体が発見される。現場には動物のような毛と、「よい旅を、狼男」という謎のフランス語の文章が残されていた。男の身元を割り出そうとするケイだが、新しく就任した女性の副署長ブレイから目の敵にされ捜査が思うように進まないのだった。

 本作は10作目ということもあってか、いままでシリーズで描かれてきた3つの大きな要素が柱として書かれている。もっともその書き方にはどれも大いに不満を感じるのだが。

 1つはシリーズ初期に見られたケイと警察上層部との対立。今回はフェロモンをまき散らしながら上司のご機嫌伺いする出世欲の強い女性副署長が登場する。この副署長、やたらとケイにライバル意識を剥き出しにして、仲の良いマリーノを現場に立たせないようにするなど、まるで中学生のイジメのような底意地の悪い嫌がらせを行う。その嫌がらせに憤りを覚えながらも「狼男」の正体を探るケイ。組織内の一個人としての葛藤を描く、という原点に戻ったのはよいが、この副署長の描き方があまりにも「嫌な上司」のステレオタイプに過ぎるのではないだろうか……。

 2点目はケイの姪・ルーシーにスポットを当てた「アダルトチルドレン小説」としての側面だ。「アダルトチルドレン」として描かれているルーシーについては『業火』の回を読んでいただきたい(→ こちら)。本作では叔母のケイ以外で唯一の心の支えであったジョーとの関係で一波乱あり、ルーシーの母・ドロシーがついにケイと対峙する場面がある。

 しかし姉へのコンプレックスから歪んでしまったことを告白する妹に対し、ケイは「あなたみたいな利己的な人間は、見たことないわ」と一蹴。確かにドロシーは酷い母親であり、彼女のネグレクトがルーシーを「アダルトチルドレン」にしたことは間違いないが、このケイの一方的な断罪はどうなのだろうか。ルーシーの問題を「すべて母親のせい」と単純化し、深く掘り下げることを意図的に作者が避けているように私は思う。

 3つ目は中高年の恋愛。「アダルトチルドレン」ブームの頂点だった96〜97年ごろ、渡辺淳一の中高年同士の不倫と性愛をテーマにした小説『失楽園』が大ヒットし、以降中高年の禁断愛を描いた小説・ドラマが増えた。「スカーペッタ」シリーズも主人公ケイとベントンのカップルは中高年の恋愛、それもほぼ不倫といっていい肉体的な関係からスタートした。当時流行した言い回しを借りると、「失楽園愛」を描いた小説でもあったのだ。そのベントンとの禁断の愛が前作で予想外の展開を迎え、本作でどのような決着を迎えるのか、と思っていたら捜査のために訪れたフランスであっさり若い美男子とくっついてしまうのでした。そりゃマリーノも「ベントンのことはどうしたっ!」で怒り出すのも無理ないよな。

 以上、挙げた3点がテーマとして煮え切らない、あるいは類型に過ぎる描かれ方になってしまう理由は、ひとつだ。それは作者がケイ・スカーペッタをいつまでも「完璧で優秀な人間」として描こうとしているからだ。その敵役である副署長が「わかりやすい嫌な上司」である必要がある、その分ケイが優秀で完璧な検屍局長に見えるから。妹のドロシーがなぜ姉のケイに対してコンプレックスを抱いたかに深く突っ込む必要はない、「ケイが優秀」であることがわかればよいのだから。ケイはイケメンが現れればすぐ恋に落ちる必要がある、ケイはとにかく美人でモテなきゃいけないから。

 とにかく主人公の完璧さを保つために小説内のすべてが奉仕されているのだ。以前、ネオハードボイルドの主人公の「キャラ立ち」問題をこの連載で論じたことがある。一人称私立探偵小説の主人公が派手になるように、色付けをした結果、キャラクターの部分でしか読まれなくなってしまった、という問題だ。そして「検屍官」シリーズはそうしたキャラの部分だけ注目されるミステリーの極致であると指摘したのだが、ネオハードボイルドの“色付け”とスカーペッタの“完璧さの保持”では意味がやや異なる気がする。本来のネオハードボイルド作家たちがやったそれは、例えばジェイムズ・クラムリーの『さらば甘きくちづけ』『酔いどれの誇り』に登場するアル中探偵達のように、社会的にハンディキャップを背負わせ、それをどう克服していくかを見せるところに重きが置かれている。それに対し、スカーペッタに求められているものは「変わらぬ完璧さ」である。ケイ・スカーペッタが常に優秀で羨望の的であり続けるゆえに、「検屍官」シリーズは成立しているのだ。

 で、ここでまた新たに「変化のないシリーズの主人公」という問題がでてくるのだが、それはまた次回。

 ……とそれからもう一つ。この『警告』の巻末解説を、芸能界で西田ひかるさんと同様にスカーペッタファンを名乗っていたある方が担当している。その方の名前は児玉清。

 説明するまでもないが、児玉氏は俳優の傍らNHKの書評番組「週刊ブックレビュー」の司会を担当するなど、かなりの読書家として知られた方であると同時に、翻訳ミステリーの愛好家でもあった。昨年惜しくも鬼籍に入られたが、翻訳物への偏愛ぶりは近頃出版された『週刊ブックレビュー 20周年記念ブックガイド』に掲載されている原書ぎっしりの書庫の写真からもわかる通り、半端なものではない。当然『警告』以外にもJ・ディーヴァーの『ウォッチメイカー』など海外ミステリーの解説・書評は数知れず、まさに翻訳物の熱心な紹介者の1人だったといっていい。

 が、しかし児玉氏のコーンウェルをはじめとする女流作家たちへの言及については「?」と思う箇所も多々ある。「検屍官」シリーズそのものからはちょっと脱線するが、次回は児玉さんとスカーペッタ、そしてここ20年間の海外ミステリーについても考えてみたい。

 挟名紅治(はざな・くれはる)

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ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。

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