第3回  めくばせ

 作品のなかで作家が過去の文学作品を彷彿とさせる表現を使ったり、文学作品に登場する言葉を効果的に取り入れたりして、読み手に先人の作品を喚起させることがあります。それをめくばせ(ウィンク)と呼んでいますが、めくばせというのはたいていそっと、あくまでもさりげなくおこなわれるものですから、気づかずに通り過ぎてしまうことのほうが多いようです。

 前回で書いた倉橋由美子は、そのめくばせのみごとな使い手でした。たとえば、「花の下」という短篇にはオドラデクという名の飼い犬が出てきて、カフカが好きな人ならそこでニヤリとさせられます。また「雲と雨の虹のオード」では、タイトルそのものにめくばせが含まれています。朝雲暮雨という言葉があるとおり「雲と雨」は男女の交情を表す言葉ですから、官能的な物語が繰り広げられるのでは、と読む前から期待がふくらみます。

 西脇順三郎もめくばせを効果的に使っています。「冬の日」という詩に「ミルトンのように勉強するんだ」という印象的なフレーズがあります。Pradise Lostを書いたミルトンは、彼の弟によれば「たいてい夜の十二時や一時までずっと勉強していた」ということですから、それを知っていると「ミルトンのように」という形容の重みが増してきます。

 さて、昨年訳したジョセフ・オニールの『ネザーランド』にもこうしためくばせが随所にあって、エリオットの『The Waste Land』とフィッツジェラルドの『The Great Gatsby』に対しては「パッチン」と音がするほどはっきりとおこなっています。いや、『The Waste Land』は、めくばせというより小説を支える土台になっていると言えます。

 この小説は、語り手であるハンスがロンドンで妻とくつろいでいる場面から始まります。そこへいきなりアメリカの「ニューヨーク・タイムズ」の記者から電話がかかってきて、ハンスがニューヨーク滞在中に知り合ったチャックという男性が運河で死体で発見されたことを告げられるのです。

 ここは『The Waste Land』のなかの「Death by Water」を連想します。

 Phlebas the Phoenician, a fortnight dead, / Forgot the cry of gulls, and the deep sea swell / And the profit and loss. / A current under sea / Picked his bones in whispers. As he rose and fell / He passes the stages of his age and youth / Entering the whirlpool.

「フェニキア人フレバスは、死んで二週間、 鷗の鳴き声ももう忘れてしまった。深海の底波も、収支損得の勘定も。

 海底の潮の流れが 囁きながら彼の骨をひろった。 流れのままに揺れながら 彼は人生の晩年と青春の段階を通り抜け やがて渦にまき込まれた。」(岩崎宗治訳)

「フェニキア人フレバス」を「トリニダード・トバコ人チャック」に、「死んで二週間」を「死んで二年間」に、「海底」を「河底」に言い換えるだけで、小説の内容に繋がります。「晩年と青春の段階を通り抜け、やがて渦にまき込まれた」チャックの人生が、語り手のハンスによって明らかにされていくことを暗示しているわけです。そして『The Waste Land』が死と復活をテーマにしていることを考えれば、この作品のテーマについてもめくばせがおこなわれていることに気づきます。

 この事件をきっかけに、ハンスは記憶をたどる旅、つまり死者を復活させ荒地を再生させる旅に出るのですが、記憶によって死者を復活させるといえば、プルーストの『失われた時を求めて』を考えないわけにはいきません。『ネザーランド』では、記憶を語る構造——記憶がさらなる記憶を呼び、死者が生き生きと蘇って動き出す構造——自体をプルーストの作品から借りています。

 そのほかにもコンラッドの『Heart of Darkness』、ダンテの『神曲』、ブラウニングの「Pippa’s Song」など、かすかなめくばせがたくさん含まれています。

 作家がめくばせを使って作品の世界を重層的に描こうとしているのであれば、訳者はそれをできるだけさりげなく読者に中継しなければなりませんが、ときにはさりげなさを意識するあまり、あざとい流し目になってしまうこともあって、大変厄介です。流し目にしかならないのなら、せめてあだっぽくありたいものです。

古屋美登里(ふるや みどり)。神奈川県生まれ、東京在住。著書に『女優オードリー・ヘップバーン』、訳書にジョセフ・オニール『ネザーランド』、ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』、クレア・メスード『ニューヨーク・チルドレン』、エドワード・ケアリー『望楼館追想』など。ツイッターアカウントは@middymiddle

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