世間には引き受けてしまってから「どうしよう」と思うことは多々ある。いざ手をつけてみてから、自分の手にはあまりにも問題がでかすぎるのではないかという怖れがこんこんとわいてくるのである。

 なんと今回、ドロシー・L・セイヤーズのピーター卿シリーズを、ピーター卿というキャラクターの成長物語として読み解いてみる、という大役を仰せつかってしまった(いや最初に口すべらしたのは自分だけど)。引き受けたはいいものの、いざ書こうとしたら手が震えるというか、ものすごくおそれおおい気がする。

 だってセイヤーズですよ?

 名作てんこもりのピーター卿シリーズですよ?

 ましてやweb上で幾多のミステリ好きの方に見ていただくとあれば何をかいわんや。

 しかしいったん決まってしまったことに今さらうだうだ言ってもしかたないのである。

 それでは全十一作あるピーター卿物の長編を、基本的に一か月に一作ずつ、ピーター卿の成長という観点から、あくまで自己流で(←ここらへん自信ない)見ていこうと思う。

 それではまず一冊目、『誰の死体?』(1923年、邦訳創元推理文庫、浅羽莢子訳)から。

 ピーター・ウィムジイが、セイヤーズ自身の投影と思われるハリエット・ヴェインの登場を境として、しだいに変化していったのはシリーズ読者であればよくご存じのことと思う。ハリエットが登場した『毒を食らわば』で、セイヤーズはハリエットとピーターを結婚させてシリーズを打ちきってしまうつもりだったようだが、幸か不幸か、「人形にもわずかな人格が宿りはじめて」いたためそうはならず、結果、ピーター卿は初期の、いかにも作られた「キャラクター」的な性格を抜け出し、生身の人間としての内面を取り戻すための、長い苦労を積み重ねることになった。

 では、その当初の「キャラクター」とはどういうものであったか。

◆ピーター・ウィムジイという『キャラ』

 地方の名門貴族、デンヴァー公爵家の次男坊で、当然のように大金持ち。初版本や稀覯本蒐集を趣味とするディレッタントであり、ピカデリー広場の豪華なフラットで、万能かつ忠実な従僕バンターにかしずかれながら、優雅な独身生活を送っている。ことあるごとに古典の引用を口にし、冗談や軽口を連発する大変なお喋りで、音楽、ことにバッハを愛する。小柄で細身だが運動能力にはきわめて優れており、オクスフォードで鍛えたクリケットの腕は名人級。そしてもちろん、もう一つの趣味は犯罪捜査で、おもしろそうな事件があれば、他人の迷惑顧みずどこまでも首をつっこみに行く。

 こう書いてしまうと、何だか出来すぎててムカつく、という向きもあるかもしれない。

 訳者の浅羽さんでさえあとがきで「何かといえば古今の文学から引用して博識をひけらかし、十言えばすむところを二十言い、毛並みがよくてお金があって、趣味人で才能豊かで頭がよくて、いいどころか鼻持ちならないと思うかもしれません」と書いている。しかしこれは最初の数作のうちであり、シリーズ後半、ハリエットと出会ってからのピーターは、確たる人格を持つハリエットの、一筋縄ではいかない心を勝ち得るために、「長所も短所も併せ持つ」深みと幅のある人格を育てねばならなかった。

 知的遊戯としての推理小説の探偵役としては、人間的内面描写など無用の長物だ、という意見もあるかもしれない。それは確かに一理ある。事件が起こり、謎があり、探偵がそれをあざやかに解き明かす。そこに人情が入りこむ余地はないし、探偵が人情にまどわされて証拠を見逃したり、アリバイをねじ曲げたりしていては、近代ならいざ知らず、少なくとも古典的推理小説のフェア・プレイの精神にもとると言わざるを得ない。

 そのことを、セイヤーズは最初はいちおう意識していたと見える。『誰の死体?』は創元推理文庫版で300頁に満たない、シリーズ中ではもっとも短い作品である。

 ここにセイヤーズは、当時、多く出版されていたであろう『探偵小説』の、ほぼ定型どおりのキャラクターを並べてみせる。主人公である金持ちの貴族の変人であるピーター卿を中心に、ピーターを支える有能な執事バンター、「まぬけな警察官」を絵に描いたようなサグ警部、協力者にしてワトスン役(にしては有能だが)であるパーカー警部、友人のちょっぴり間のぬけたフレディ・アーバスノット爵子、そして奇妙にも風呂の中で発見された、鼻眼鏡をかけた謎の死体。

 有能なコピーライターとして広告業界にいたセイヤーズが、流行の探偵小説を執筆するにあたって、市場リサーチをしなかったはずがない。当時、国民的に人気があったバーティ・ウースターとジーヴズものの図式をピーターとバンターにあてはめた、というのはよく言われることだが、そのほかにもいろいろと資料をあさり、とりいそぎ、「探偵小説とはこのようなものだろう」とセイヤーズが考えたものが、『誰の死体?』となるのだろう。だが、あらためて精読してみると、この作品は以降のセイヤーズの作品にくらべて、かなりぎくしゃくしていると言わざるを得ない。

 事件は確かに奇抜である。あるアパートの風呂桶の中で発見された、鼻眼鏡をかけた裸の身元不明の男の死体。家の主人は行方不明。犯人は誰で、死体の正体は? また消えたユダヤ人銀行家はどこにいて、殺人の動機はなんなのか?

 これらの謎を、セイヤーズはいちおう段階を踏んで、危なげなく解き明かしていく。しかし、その途中で登場してくる人物たちは、そう思って読んでみると、謎解きの進行上必要な『証言者』の役割か、あるいは「ああ、『これを入れれば読者受けするだろう』と思って入れたんだろうな」というのが、なんとなく透けて見える。

 たとえばピーターのシェルショック。彼は前線でドイツ軍の攻撃を受け、塹壕に生き埋めになったために(シリーズ後半になって、それだけが原因ではないことがわかるが)精神的に疲れがたまると当時の悪夢に苦しめられるようになる。夜中、戦時中の幻にうなされるピーターのもとに忠実なバンターが駆けつけ、愛情こめてなだめて寝入らせる(「困ったおばかさんだ!」)シーンなどは、さぞかし当時の英国の乙女たちの心をキュンと萌え騒がせたことと思うが(笑)、まあそれは置いておいて。

 この、第一次世界大戦後、という世相を強調するためか、医師サー・ジュリアン・フリークの診察室の待合室で出会うロシア人の母子も、本来なら謎解きにはまったく関係ないにもかかわらず(犯人を隠蔽しよう、あるいはその異常性を強調しよう、という意図はあったかもしれないが、すでにその前のシーンでピーターは犯人を直感しているので、あまり意味はない)かなりの行数を割いて大戦後の世相を嘆いてみせる。

「探偵小説のお約束」の象徴のような、間抜けな警官の役回りのサグ警部なども、ほとんど役に立っていない。役に立ったといえば最後のシーンで、犯人が自決するぎりぎり寸前のところに奇跡的に「間に合った」というだけのことである。

 後のシリーズではいきいきとした活躍を見せるピーターの母の先代公妃や、フレディ・アーバスノット、よき相棒のパーカーでさえも、この巻ではいまひとつ精彩がない。はっきり言ってしまうと、「厚みがない」のである。物語上必要だから登場して、規定の台詞を述べると退場するだけの、舞台上の演技者たちに見える。

 そして舞台上の役者めいて見えるという点で、この巻のピーター自身ほど役者めいて見える登場人物はいない。先代公妃から事件の知らせを受けとり、出かける用意をする場面のピーターの独白など、まさに演芸場の喜劇役者の長台詞である。

「『素人初版本蒐集家は退場、バスーンのソロによる新たなモチーフが流れ、散歩中の紳士に変装したシャーロック・ホームズの登場』」などという独白は、まるで芝居のト書きだ。その場で靴を踏み鳴らして、タップダンスを踊り出しそうな勢いである。ちなみにwikiによると、ピーターのモデルにはバーティ・ウースターのほかにフレッド・アステアも入っているそうだが、真偽はともかく、この描写を見るとうなずけてしまう。

 のちにピーターの伯父であるデラガルディー老人(創元推理文庫『学寮祭の夜』序文、同じ文章を収録したハヤカワ・ポケット・ミステリ『忙しい蜜月旅行』では「ドラギャルディ」。ハヤカワ文庫新訳版に関しては、すいませんが個人的趣味で無いことにさせてください……)は、この時期のピーターについて、「母親と小生をも含めた全ての人に心を閉ざし、誰にも突き崩せない軽薄な態度と好事家のポーズを身につけ、実際の話、完璧なまでの喜劇役者になってのけたのです」と述べている。

 これはシリーズ前半と後半でのピーターの性格の変化に対するセイヤーズの釈明でもあろうが、まさにシリーズ最初期のピーター・ウィムジイは、この言葉通りの喜劇役者である。事件も、舞台化すればたいそう映えるだろうと思われる視覚的面白さ。脚本通りに舞台上でステッキを振りまわし(この「ボーイスカウト必携の紳士版」と呼ばれる、磁石と目盛りつきの仕込み杖(!)や、わざわざマッチ入れに偽装した懐中電灯など、これまたいかにもお芝居めいた持ち物である)、タップを踏んで気の利いたセリフをしゃべるピーターは、このミステリ劇の一個の演技者にすぎないように見える。

 しかし……。

◆『誰の死体?』に漏れ出る、ピーター卿の内面の存在

 セイヤーズが意図していたのかどうかはわからない。しかし、少なくとも、ピーターに「第一次世界大戦の後遺症によるシェルショック」という設定を与えたことで、「ピーター・ウィムジイは、心的外傷を引きずる繊細な精神を持っている」ということが、まず一巻で確定されてしまった。

 設定を入れたときには単に世相を取り入れるためと、ピーターと従僕バンターの関係性を示すためと考えてのことだったかもしれない。だが、内面を持たない喜劇役者は、過去の傷などでいつまでも苦しんだりはしないし、できない。必然的に、シェルショックに苦しむピーターは「人間的な内面を持っている」と、はっきり証明されるのである。

 定型を追おうとするセイヤーズが、うっかり(といっていいものか)ピーターという人物の内面的性格を表してしまうエピソードがもう一つある。好感の持てるアメリカ人富豪を騙す羽目になり、落ちこんだピーターは友人のパーカーに愚痴る。「なぜか、反則をしている気がしてならないんだ」。しかし、パーカーの答えはそっけない。

「きみは首尾一貫してたいんだ。かっこよく見えたいんだ。操り人形だらけの喜劇を肩で風切って粋に通り抜けるか、人間の痛ましさを描いた悲劇を威風堂々と闊歩するかしたいわけだ。だがそんなのは子供じみてる。社会に対して、ある殺人の真実を突きとめるって形で義務を負った場合、便利でさえあれば、どんな態度だってかまうものか。優雅で突き放した態度を取りたい? それで真実がわかるんだったら結構なことさ。それ自体にはなんの価値もないがね」

 この返事にピーターは一言の反論もできず、「神学書を読むのはやめたほうがいい。残酷なことを平気で言うようになる」と短く応じて、逃げるように話題を変えてしまう。

 パーカーの台詞に「喜劇」や「悲劇」のメタファーが出てきたのは意味深である。すでにこの時点で、セイヤーズは自分の書いているのが人間ではない役者たちが動き回る「お芝居」に過ぎないことを知っており、そのことに対する鬱屈が、ついパーカーの台詞として出たのかもしれない。そしてまだ喜劇役者でしかないピーターはこの身も蓋もない指摘の前で、黙り込み、芝居の続きをはじめるという逃げ道に入るしかない。

 現実主義者の警察官であり、犯罪者に対してなんら同情を持ち合わせないパーカーの言葉は、実をいうとほかの古典的探偵たちも言いそうなことである。

 たとえば同時代、アメリカで活躍中だったヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスであれば、パーカーの意見に諸手を挙げて同意するだろう。彼にとって犯罪は解くべき一個の謎でしかなく、そこに存在する人間たちは謎を構成するピースの一つにすぎない。ピースにいちいち同情するような人間的精神を、彼は持っていない。(ちなみに、ファイロ・ヴァンスとピーター卿は発表年代も近いが、設定上にもさまざま似通った点があって、見比べるとおもしろいのだが、それはまたいつか)

 しかし、パーカーの指摘を「残酷」と評したピーターの胸に、友人の言葉は確かに突き刺さったのである。犯罪を捜査し、犯人を指摘することは、つまり自分が首をつっこまなければ傷つかなかったかもしれない人を作りだすことになるのだということに、ピーターは気づいている。そして人知れず、その矛盾を胸にかかえている。

◆「ピーター・ウィムジイ」というドラマ

 このピーター卿というひとりの人物の内部に抱えられた矛盾こそが、前半から後半へと移り変わるピーター卿シリーズの、ドラマの主軸となるものだと私は考えている。

 むろん、各巻ごとに事件は起こり、一冊完結で事件は解決する。しかしハリエットの登場でこの矛盾は一気に表面化し、それまで人形、いいところ役者でしかなかったピーターの、苦難に充ちた成長のドラマが始まる。

 事件が連続し、それが解決する、それはひとつの「お話」である。しかし、本来ドラマというものは、登場人物の内部にすでに包含されているものだと私は考えている。

 ピーター・ウィムジイという一人格が抱えたドラマは、一作目からすでにその片鱗を見せていた。そして「お話」だけでやっていくことが不可能になったとき、シリーズを終わらせるためにセイヤーズが登場させた分身ハリエット・ヴェインが、眠っていたピーターのドラマを芽吹かせたとは皮肉でもあり、幸運でもある。

 ハリエット視点から描かれる十巻『学寮祭の夜』では、執筆に悩むハリエットの姿を通して、ピーター卿の造形の変化に苦闘するセイヤーズの姿が透けて見える。これから十巻、シリーズをたどりつつ、その変化していく姿をじっくりと追ってみたい。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

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