第4回 誘拐

 二十年ほど前になりますが、幼い子供を連れてアメリカに二週間ほど滞在することになりました。子供連れで行くのは初めてだったので、長年アメリカで暮らしている友人にアドバイスを求め、子連れで行けるレストランなどの情報を聞こうと思ったのです。すると彼女は、「どこであろうが絶対に子供の手を離しちゃだめよ。とりわけトイレにひとりで行かせてはだめ」と警告したのです。「アジア人の子は高く売れるから」と。

 愕然としました。いったい誰が買うわけ? 「子供のいない夫婦よ、もちろん」。そういえば、その数年前アメリカに行ったときにパーティで知り合った四十代の女性は、韓国の男の子を養子にしていました。米韓の養子縁組の組織を介し、厳しい審査を経て合法的に縁組みをしたということでした。「アジア系の子供は賢いしおとなしいから、ほんと、最高よ。実は日本人の女の子がほしかったんだけれど。でも、わたしは本当にラッキー、この子はとってもおりこうさん」と、ソファに並んで座っている六歳の少年の黒髪を愛おしそうに撫でました。彼女がいくら払ってその幸福を手に入れたのかは知りませんが、子供の売買が大きなビジネスになっていることをそのとき初めて知らされました。そして、アメリカでは大勢の子供が行方不明になっていることも。

 当時アメリカでは、牛乳パックには行方不明の子供の写真が載っていましたし、誘拐された子供のニュースが新聞に頻繁に載っていました。いなくなった子供のなかには、自発的に姿を消した子や、親権争いに巻き込まれて強引に連れ去られた子もいたでしょう。でも大半は犯罪がらみで、売り飛ばされたり、殺されたり、ポルノビデオに出演させられたりして、発見されて親元に戻されることはまれでした。子供の誘拐や性的虐待などをテーマにした作品が書かれるようになったのもこの頃だったと記憶しています。

 さて四月に、講談社からJaycee Dugard『A Stolen Life』の翻訳が出版されます。ジェイシー・デュガード。この事件は日本のメディアでも大々的に報じられたので、この名を知っている方もいらっしゃるかもしれません。一九九一年六月、当時十一歳だったジェイシーは登校の途中で見知らぬ男に連れ去られました。親族や警察が必死で捜索しましたが、なんの手がかりも得られないまま空しく月日が過ぎていきました。

 ところが幸運にも二〇〇九年八月に犯人が逮捕され、彼女は警察に保護されたのです。実に十八年ぶりの生還でした。そして、彼女を誘拐して監禁していたのは性犯罪者の男とその妻だったこと、彼女は男の家の裏庭の小屋に監禁され、子供をふたり産んで育てていたことなどが明らかになりました。

 その十八年間のことをありのままに書いたのがこの手記(ジェイシー・デュガード著『奪われた人生 18年間の記憶』)です。

 幼い彼女には、自分の身に起きたことが初めはまったく理解できませんでした。犯人の家の裏庭で屈辱的な生活を強いられ、最初の数年間は外に出ることもできず、いつかお母さんに必ず会えるという希望にすがって、一日一日を過ごしていたのです。

 性的被害について進んで書きたがる人などいません。でも彼女はこれを書くことで、犯人がどんな人間であったか、性的被害とはどういうことなのかということを明らかにし、同じような辛い目に遭っている人たちの心の支えになりたいと思ったのです。辛い体験を包み隠さずに語った彼女の勇気にわたしは心打たれました。ジェイシーは「この身に起きたことを恥じてはいけない」と語っています。お母さんとの再会シーンはとても感動的です。

 この本は、書くことで過去の恐怖と絶望にうち勝ったひとりの女性の心の軌跡です。いや、生きるために戦ったひとりの戦士の記録と言えるかもしれません。

 ところで子連れでのアメリカ滞在中、危険を感じたことは一度もありませんでした。それどころか、入国審査や税関では優先的に通され、エレベーターやエスカレーターに乗れば年配のおばさまたちに囲まれて「なんて可愛いの!」「女の子?」「まあ、いい子ねえ」と声を掛けられ、ショッピングセンターに行けば警備員が荷物を車まで運んでくれ、レストランに行けば子供用のクレヨンを貸してもらい、アメリカは子供をとても大切にする国という印象を受けました。それを友人に伝えると、「あなたは本当に運がよかった」と言われました。

 四回続いたこのエッセイもこれで最後となります。拙い文章を読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました。

古屋美登里(ふるや みどり)。神奈川県生まれ、東京在住。著書に『女優オードリー・ヘップバーン』、訳書にジョセフ・オニール『ネザーランド』、ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』、クレア・メスード『ニューヨーク・チルドレン』、エドワード・ケアリー『望楼館追想』など。ツイッターアカウントは@middymiddle

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