まぬけな推理、だらしない捜査、なげなりな人生……ミステリの長い歴史において、ぐだぐだ迷探偵は何人も登場してきた。その系譜につらなるイカしたニューフェイスが『LAヴァイス』の主人公ラリー・“ドック”・スポーテッロくんだ。彼はマリファナが手放せないラリパッパ(あっ、「イカした」ではなく「イカれた」でした。前文訂正)。ゴキゲンな麻薬成分がたっぷりと染みいったおつむ(「灰色の脳細胞」ならぬ「虹色の脳細胞」だね)は、仕事中でもおかまいなくステキな世界へトリップしてしまう。

 たとえば、こんなふう——

 気がつけばドックは電気が明るく灯る古都の廃墟にいた。(略)最初のうちは出会った人たちを知ってるような気がしたが、名前が思い出せないこともあった。ビーチで暮らすドックや彼のご近所さんは、何千年も前にレムリアを沈めた大災害からの避難者であったような気もするが、そうでなかったかも知れない。彼らは安全と思える土地を求め、カリフォルニア沿岸に落ちついたのだった。(152ページ)

 この妄想のなかで、ドックは人類史の真相を悟る。ニクソンはアトランティス、ホーチミンはレムリアに住んでいた人々の末裔であり、何万年にもわたってインドシナ地域で起こったすべての戦争は代理戦争だった、と。ご存知のとおりアトランティスもレムリアも架空の古代大陸。思いきりオカルトです。

 おーい、平気かー?

 はじめのうちはドックのずっこけぶりを大笑いしていた読者も、ちょっと心配になってくる。こんなありさまでは、探偵稼業はおろかふだんの生活にも困るんじゃないか?

 ドックの精神が日常から非日常へとシフトするさまを、作者ピンチョンはほとんど境目なしに書いている。ドック本人にとってはその区別がつかないからだ。こうした文章技法は、真面目な文学の世界ではちょっとしたアクロバットなのだけど、なあに、ミステリ読者にとってはたいした難度じゃない。もっとひねりのきいた叙述トリックを読みつけているからね。

 話がちょっと逸れてしまった。そうそう、ドックは大丈夫なのかって話。

 物語中でも、見かねた友人が忠告してくれる。こんなふうなやりとり——

「私立探偵はドラッグに手を出さないほうがいいかも。あっちにもこっちにも別の宇宙ができたら、仕事がややこしくてしょうがない」

「でもシャーロック・ホームズはどうなわけ? あの人、しょっちゅうコカインやってたでしょ。事件解決にも役に立ったはずだぜ」

「けどホームズは……実在しないし」

「え、ホームズって……」

「お噺に出てくる作り物のキャラクターだよ、ドック」

「えっ?……またまたぁ。あの人はホンモノでしょ。ロンドンにもちゃんと住所があるし」(134ページ)

 わっはは〜、ドックがマジ顔で抗弁しているさまが目に浮かんでくるね。「シャーロック・ホームズはどうなわけ?」って、口をトンがらせて。引用した文章からもおわかりのとおり、訳文はすごく軽快でノリノリ。翻訳調が苦手というむきも、この本なら引っかからずにいけるでしょう。

 さて、ドックくんの天然ぶりと対照的に——いや、もしかすると相即的に——物語の背景は混沌としている。時代設定は1970年。前年のウッドストック・フェスティバルが象徴するように、自由で輝かしい光がある一方で、形骸化や腐敗も顕わになってきた時期だ。ヒッピームーヴメントもカウンターカルチャーも、ほぼ無自覚に商業主義や体制文化へと組みこまれていく。そんな状況のなか、フィリップ・マーロウのような高潔なハードボイルドなどは、もはや絵空事やパロディとしてしか成立しない。そんなふうに考えると、われらが主人公ドックも哀しいキャラクターだ。

 物語は、ドックの昔の恋人シャスタが、厄介な相談を持ってくるところからはじまる。彼女にはいまつきあっている男(金持ちの不動産業者ウルフマン)がいるのだが、こともあろうにそのウルフマンの妻から、彼を精神病院に入れる陰謀に荷担するよう持ちかけられたというのだ。それと踵を接して、刑務所帰りのちんぴら黒人タリクからの依頼が舞いこむ。タリクのムショ仲間グレン・チャーロックを探してほしいという。そのグレンはウルフマンのボディガードをしていたそうだ。シャスタの件とタリクの件、どちらもウルフマンへとつながっている。はたしてこれは偶然か? ちょっと考えたがわかるはずもなく、ままよとドックは捜査に乗りだすが、とたんに誰かに殴られて気を失ってしまう。意識を取り戻すと、そばにグレン・チャーロックの死体がころがっていた。ピーンチ!

 そこから先は迷走に次ぐ迷走。ウルフマン方面捜査の目鼻がつかぬうちに、麻薬輸送船〈黄金の牙〉号やら、ニクソンの肖像がついた偽ドル札の流通やら、ミュージシャン失踪やら、砂漠のなかに建設中の未来都市やら、夥しい伏線がわらわらと絡んでくる。ピンチョンというひとは、エピソードやアイデアやイメージの無闇なメガ盛りを得意としている文学者だが、本書でもそれは健在。ただし、けっこうメインプロットに回収されるので、あまり邪魔にならずに読めます。むしろドラッグ文化、さまざまな音楽、テレビ番組などの安っぽい娯楽、ギャンブル、ファッション的な神秘思想など、ポップカルチャーのあれこれは、小説の彩りとしてとても楽しい。

 さて、ドックのけっこう行きあたりばったり捜査も、それなりに解決へむけて収束していく。その過程でとくに興味深いのは、インターネットの原型であるARPAネットが登場すること。ドックの元同僚がこのネットにアクセスしていて「どうだ凄いだろ」と自慢するんですが、ドックがいちばんに考えるのは「これを使えばクサがどこで手に入るかわかるかな?」。事件の情報収集に使えよ!

 もっともドックにはITネットよりももっと強力な武器がある。マリファナに触発されたエスパー的なインスピレーションだ。その霊感が彼に告げる。一連の事件の謎はすべて解明されたが、それはあくまで表面的な真実にすぎない。そのさらに奥で、合衆国のさまざまな層に根を張った秘密結社が暗躍しているのだ、と。ひとたびそう考えはじめると、符合する断片があちらこちらに見つかってくる。ぞぞっ。

 まさしく物語レベルの謎が解明されたとき、その背後からより大きな世界の謎が立ちあがるわけで、おおっ、これぞミステリの神髄! ——なんて感激しそうになるのだけど、いや、待てまて、これまたドックお得意の妄想? 困ったことにピンチョンの小説を最後まで読んだら、もはや何が現実かなんて決められない。いっけん正常な世界に生きているぼくたちが、ラリパッパのドックよりも醒めているなんて保証はない。

牧 眞司(まき しんじ)

SF研究家。著書に『世界文学ワンダーランド』(本の雑誌社)ほか、訳書にマイク・アシュリー『SF雑誌の歴史』(東京創元社)。1959年東京都生まれ、相模原市在住。ツイッターアカウントは @ShindyMonkey

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