名古屋読書会幹事Bこと加藤氏は満足していた。課題図書がジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』というのは我ながらいいチョイスだ。なんと言ってもタイムリー。「裏切りのサーカス」が封切られ、ミステリマガジンでも特集が組まれるというこのタイミングに加賀山卓朗さんをゲストに迎え『寒い国から帰ってきたスパイ』の読書会をセッティングしたオレって天才じゃね? ぶっちゃけ大矢なんかより幹事として適任じゃね? いよいよオレとカレの時代が来るんじゃね?

 しかしカレの、じゃなくて彼のテンションは日に日に下降していくことになる。なんとなれば参加者から「初めて読みます」「スパイ物には馴染みがなくて」「こういう機会でもなければ手にとらないジャンルです」「スパイと言えばドロシー・ギルマンのおばちゃまシリーズですよね」などというメールが相次いだからだ。確かに女性参加者の多い名古屋読書会、若干の抵抗は予想していた。しかしこれほどまでとは……当初の満足はどこへやら「もしや今回は名古屋読書会の黒歴史になるのでは」という不安にさいなまれる加藤幹事。そしてその予感は、ある意味、当たってしまう。

 5月26日、夏を思わせる陽気の土曜日。会場に集まった20人の善男善女から、灼熱の太陽をも凍らせる容赦のない感想が飛び出した。

「読みにくい」「地味」「暗い」「字が小さい」「説明が足りない」「誰が誰だかわからない」「アクションがない」「救いもない」「『管理官』の名前がない」「ボンドガールがいない」「冒頭50ページがとにかくわかりにくい」「主人公のリーマスがどこの国の人なのか、最初わからない」「そもそも東ドイツってそんなに寒くないと思う」「最終章のタイトルが『寒い国から帰る』だけど、帰ってない」「リズって面倒くさい」「リズって鬱陶しい」「リズとリーマスって、そんなに愛し合ってるように見えない」「リーマスの外見描写が、短身・薄い唇・小さい目・切り株のような手と指・水泳選手ような体格ってあるけど、それがどうして『男性的な魅力に富み』になるのかわからない」「そもそも、彼らはどうしてもっと人を信じないのか」「騙したりせず、腹を割って話せばいいじゃないか」「おばちゃまなら、もっと巧くやるよね」

 ああ、もうやめてあげて! ル・カレ本人が聞いたら部屋の片隅で膝を抱えて泣きながら「ドナドナ」を歌い出すレベルよ! でも総じて面白かったでしょう? いいところを見ようよ、ポジティブ・シンキングは大事だよ!

「えーっと、50ページすぎたあたりから俄然面白くなったよね」「うん、そこからはもうスイスイと」「ラストシーン良かった!」「やっぱりラストはああでなくちゃ」「あの場面は宝塚でやって欲しいよねー」「え?」「え?」「え?」「007みたいなのは作り物で、実際のスパイってこんなふうだったんだろうね」「スパイつっても公務員で、しかもリーマスは中間管理職だもんね」「公務員の悲哀は出てるよね」「25年後には東ドイツもソ連もなくなるってことを知って読むと、なおさら切ないよね」「当時はそんな未来が来るなんて誰も思ってなかったろうしね」「僕が生まれる前の話なんですよね」「63年の作品だから、ここにいる大半の人が生まれてないよ」「いえ、ベルリンの壁崩壊が、僕の生まれる前なので」「ええええええええっっっっっ!」「壁崩壊って、い、いつよ?!」「88年? 89年?」「そんなの、ついこないだじゃん!」「あたしもう働いてたよ!」「子ども生んでたよ!」「あんた何歳よ!」

 こらこら君たち、話がずれてる。若人をイジらないように。

 そして物語の根本的なテーマよりも「そこ? 興味を引くのはそこなの?」と問い返したくなるような部分につっこむのが名古屋読書会のお家芸。

「体調悪いときに『子牛足のゼリー』を食べるって意味わかんない」「豚足みたいなもの?」「具合悪いとき豚足はないよね」「ビーフティーって何?」(画像が回る)「げ、不味そう!」「お湯に溶かして、ひびわれないようにスプーンを入れるってあるから、生姜湯みたいなものかな」「ビーフ味の?」「……」「もうちょっといい物食べればいいのにねえ」「ポテトがそんなに大事かと」「イギリスなのに紅茶が出てこない」「ウィスキーはやたらと飲んでるけどね」「イギリスだからそこはスコッチと書いて欲しかった」

 おそらく読者の皆さんは、どうせスパイ物に興味のない大矢が話をずらしたんだろうとお考えでしょうが、さにあらず。私は頑張ったのよ、東西冷戦とはどういうもので、当時の共産圏はどういう状況でというのを一生懸命説明し、この物語が書かれた背景をわかってもらうべく奮闘したのよ! でもなぜかその結果が「ビーフティー不味そう」というところに落ち着いただけなのよ! どうしてこうなったのか、こっちが知りたいわよ!

 だがしかし。今回の名古屋読書会はひと味違う。ここから議論は思いがけず真面目な方向に向かい、『寒い国から帰ってきたスパイ』というタイトルに隠された真の意味について、鋭くも斬新な考察をするに至るのである。伏線はこの記事の中に既に登場しているぞ。以下、後編を待て!

【後編につづく】

大矢博子(おおや ひろこ)。書評家。著書にドラゴンズ&リハビリエッセイ『脳天気にもホドがある。』(東洋経済新報社)、共著で『よりぬき読書相談室』シリーズ(本の雑誌社)などがある。大分県出身、名古屋市在住。現在CBCラジオで本の紹介コーナーに出演中。ツイッターアカウントは @ohyeah1101

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