「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 破滅的な地点へ向けて突っ走っているのに、登場人物の誰もが気づいていない。
 そういうクライム・ノヴェルが好きで好きでたまりません。
 作中人物の誰もが、自分たちの行く末には希望があると信じている。だけれども読者は、その希望がまやかしであることを知っている、あるいは感じている。
 そんな読み心地の小説が大好きです。
 結末に至るまでの刹那の輝きに惹かれているからかもしれません。もしくは自分自身の人生への諦観を、破滅しか見えないキャラクター達の未来に重ねて感情移入しているのかもしれません。
 はっきりとした理由は言えません。
 ただ、決して優しくはない、その手の小説を読む時、僕は暖かささえ感じてしまうのです。
 今回紹介するライオネル・ホワイトの『逃走と死と』(1955)も、そういう一冊です。
 物語の着地点に夢も希望もないことが見え透いている、凍てつくようなケイパー小説で、それ故に愛おしい。
 
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 ジョニー・クレイは、刑務所から出るとすぐ、その強奪計画の実行へ向けて動き出した。
 四年間、獄中で考えに考え抜いて練り上げた作戦だった。未だかつて誰もやったことがないであろう、でかい仕事だ。競馬場の売り上げを、丸ごとかっさらうのだ……というのが本書の概要です。
 元受刑者をリーダーにしたグループが競馬場を襲う。
 言ってしまえばそれだけの話です。
 しかし、だからこそ、素晴らしい。
 ある襲撃と、それを行う人々の行動と心理のみをひたすらに描いていく。この筋から逸れる脇筋が何一つない。まるでケイパーものというジャンルのイデアのような小説なのです。
 ジョニーに誘われ、襲撃をすることになった男たちの紹介パートである第一章の時点で、僕は痺れてしまいました。
 この章では、一人一人、視点を切り替えながら、彼らがどうしてジョニーの誘いに乗ったのかが語られます。
 実はメンバーの中で、以前罪を犯したことがあるプロの悪党はリーダーのジョニーだけです。
 他の人は全員、それまでまともに生きていて、定職にも就いている。
 そんな彼らが、何故、競馬場の襲撃作戦に応じたのか。
 ある男は、自分の家族のために犯行を決意しました。家庭内の雰囲気が悪いのも、娘がグレてしまったのも、こんな治安の悪いろくでもない所に住んでいるせいだ。ここから引っ越すお金が欲しい。
 また、ある男は、美しい妻のために犯行を決意します。お金が手に入れば、こいつも俺に惚れなおすに違いない。
 それぞれ具体的な理由も、表向きの立場も全くもって違うのですが、共通しているのは、今の環境から抜け出したいという願いです。もっとマシな暮らしをしたい。そのための契機がこの襲撃計画である、と語られるのです。
 ジョニーは彼らのことを「表面は体裁ぶってやがるが、腹んなかじゃ盗賊(ぬすっと)根性がある」と分析しています。だからこそ、信頼できる、とも。
 密告が当たり前のプロの悪党とは違う。けれど、未来のために一時的に法を破る覚悟はある。そういうアマチュアを誘ったのだと言うのです。
 そして、第二章ですぐに、ジョニー自身もアマチュアの仲間たちと同様に未来のために、再犯を決心したのだということが示されます。
 彼が見ているのは、四年が経っても、まだ自分のことを想ってくれていた恋人シェリーとの未来です。
 彼女との幸せな暮らしのために、ここで大金を手に入れる。人生をやり直す。
 こうして全員の動機が揃ったところで、具体的な計画が語られ、物語が動き出します。完璧な立ち上がりと言って良いでしょう。
 
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 上記の導入部のあと、ライオネル・ホワイトは一切の隠し事をせず、時系列順にストーリーを進めていきます。
 物語の縦軸は二つ。
 まずは、輝かしい未来へ向かうジョニーのプランについての筋です。
 集めたメンバーそれぞれの職業や立場を利用した犯行計画について、淡々と綴られていきます。
 この計画が、大胆でありながらも細部まで考え抜かれているもので、非常に読みごたえがある。
 ホワイトにはThe Snatchers(1953)という著作が、実際の誘拐犯に参考にされてしまったという逸話がありますが、本書の作戦ももしかすると、そのまま実行できるのではないかと思えてしまう凄みがあります。
 もう一つの軸は、それ程までに完璧に思えるジョニーのプランがぶち壊されてしまうのではないかと感じさせる破滅へ向けた筋です。
 アマチュアを集めたが故に出来てしまったとある綻びを、ヴァル・キャノンという男が嗅ぎつけるというのがこちらのストーリーラインです。
 キャノンは、本書の裏主人公ともいえる人物で、ジョニーとは何もかもが正反対な人間として描かれます。
 未来を夢見るジョニーたちとは対照的に、彼は今現在しか見ない、プロの悪党です。
 この業界から抜け出そうなんてことは考えていない。利用できそうなものが目の前に転がっているから、そこで上手いところ金だけ掴んでしまおう、とだけ思っている。
 ジョニーの強奪計画の裏で、キャノンは自分のするべきことを非情にこなしていくのです。
 二つのストーリーラインは緊密に絡み合い、読者をひたすら惹きつけるサスペンスを生むことに成功しています。
 そして、競馬場への襲撃当日、そのサスペンスは最高潮に達するのです。
 
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 時系列順に、じっくりと語られてきた物語はここで、一気に崩れます。
 それぞれの登場人物の視点で、細かく時間が前後し、犯行の一部始終が多角的に読者に示される。
 性急と言っても良いくらいのスピード感で、誰が、何をしたかということが血と暴力とともに書かれていく。
 映像よりも映像的に、犯行に携わったキャラクター一人一人が見ているもの、行ったことが読者の頭の中に流れ込んでいく。
 場面が一つ描かれるごとに、パズルのフレームにピースがはまっていくような快感がある。上に書いた通り、ホワイトは別に隠すような書き方は一切していなかったので、それぞれのピースを読者は全て知っている。だからこそ、それらがはまるべきところにはまっていく展開に唸るのです。全ての展開が必然であるから。
 それまで示していた輝く未来を掴みたいという願いも、破滅への予感も拾い上げて、物語のスピードはぐんぐん上がっていき……何もかもを使い切るようにして「こうなるしかない」という結末へ辿り着く。
 読み終えて最初に出た感想は、「完璧なケイパー小説」でした。
 
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 ライオネル・ホワイトは、邦訳が多い作家ではありません。
 長編作品で訳されているのは本書の他には『逃げろ 地獄へ!』(1952)と『ある死刑囚のファイル』(1959)のみです。
 この二作もやはり優れたクライム・ノヴェルで、前者ではプロの悪党チームの襲撃作戦、後者ではアマチュアの殺人計画が捻れていく様が描かれます。
 半アマチュアの犯罪を描いた『逃走と死と』とはいずれも読み味が異なるわけですが、この先には破滅的な結末が待っているのだろうと最初から予感させるような構成、雰囲気作りに徹しているのは共通しています。
 この突き放し具合が、僕にはとても心地良い。
 ホワイトの書く犯罪の世界を、僕は愛さずにはいられません。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人三年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby