前回の最後で「次回の敵状偵察は玉木亨」と予告したところ、一部の読者から「ゲゲッ」というリアクションがあったらしい。いったい、なぜ「ゲゲッ」なのか? 一般読者の方にはおそらくわからないと思うが、これには深い理由がある。じつをいうと、翻訳ミステリー業界の一部には「矢口誠は玉木亨を愛している」という根強い噂があるのだ。ま、わたしとしてもその噂を言下に否定するものではない。ただし誤解のないように言っておくと、その愛は「矢口誠は山田久美子を愛している」と同じ次元の愛では断じてないし、今回玉木亨(愛称タマちゃん)を取りあげるのも、決して愛に目がくらんだからではない。わたしは翻訳家としてのタマちゃんを心から尊敬しているのだ。


玉木亨(愛してるけど敵だから敬称略)とわたしの出会いは、1990年代、一般に「髪」と呼ばれている物質がまだわたしの頭部を覆っていた頃にまでさかのぼる。当時のわたしたちは同じ出版社の編集部に所属していたのだが、そのときからすでにわたしは玉木亨を尊敬していた。理由はふたつある。

【1】〈パブリッシャーズ・ウィークリー〉や〈カーカス・レビュー〉といった出版業界誌だけでなく、英米のカルチャー雑誌なども熟読し、海外文学界・映画界・演劇界のニュースにやたらと詳しかったこと。

【2】英語が堪能で、原書をバリバリ読んで面白い小説を探していたこと。

もちろん、これくらいのことは編集者なら当たり前かもしれない。しかし驚くことに、玉木亨は出版社をやめて10年以上たったいまでも、面白い作品(小説にかぎらない)を探すことに対する情熱を失っていないのだ。たまに会って話をすると、「英国にこんなミステリー作家がいて」とか、「こんなノンフィクション作品があって」とか、未訳作品に関する情報がいろいろ出てくる。それだけでもわたしなどはすっかり尊敬のマナコなのだが、さらに驚くことに、この人は翻訳の企画を積極的に自分で出版社に売りこんだりもするのである。

通常、翻訳家は「海外の出版社→日本の版権エージェント→日本の出版社→翻訳家」というルートで届けられた原書をリーディングし、もしそれが面白ければ「日本の出版が版権を取得→翻訳依頼」というステップを経て仕事をもらう。

これとはべつに、翻訳家が自分で原書を買って読み、「これ面白いですよ」と出版社に企画を持ちこむ場合もある。しかし、これにはリスクがともなう。リーディングをして持ちこんでも、すでに版権がべつの出版社に売れてしまっている可能性もあるからだ。

なのに玉木亨は、この「持ちこみ」を地道にやっている。それも、リスクの低い「すでに版権の消滅した古典的名作」を探すのではなく、現役作家の新作を見つけてくる。一度リーディングしてみればわかるが、本当に「面白い!」と思える現代ミステリーなど、10作読んで1作あればいいほうだ。持ちこみするに値する作品を見つけようと思ったら、それこそ膨大な数の作品を読む必要がある。しかも、面白い作品を見つけて、せっかくレジュメを作成して売りこんでも、「あ、これは○○社がすでに版権とってますね」ってことになれば、哀れすべては水の泡。一気にふりだしに戻ってしまう(実際、玉木亨もふりだしに戻っちゃったことが何度もあるらしい)。フリーの翻訳家が企画を持ちこむという行為は、あのモロボシダンの名言を借るなら、「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」なのである。

孤独なランナー、玉木亨。

血を吐きつつも見えないゴールに向かってヒタヒタ走る玉木亨(←ちょっと怖い)。

そんな姿を見たら、つい応援したくなるのが人情ではないか!(←見てないけど)。

しかし、いくら努力していようが、中身がともなわなければ意味はない。その点、玉木亨の鑑識眼を経て刊行された作品は、持ちこみで出版に漕ぎつけたクリストファー・ブルックマイアの『殺し屋の厄日』やイアン・サンソムの『蔵書まるごと消失事件』だけでなく、ニコラス・ブリンコウの『マンチェスター・フラッシュバック』(CWA新人賞受賞作)やアン・クリーヴスの『大鴉の啼く冬』(CWA最優秀長篇賞受賞作)など、実際どれもすごく面白いし、クオリティが高い。つい最近刊行されたアントニー・マンの『フランクを始末するには』(ちなみにこれも持ちこみらしい)も、鮮やかすぎないオチが不思議な余韻を残すちょっとヘンな短篇集で、これもお勧めである。


さて、その玉木亨が翻訳した作品のなかで、最近もっとも注目を集めたものといえば、なんといってもジム・ケリーの本格ミステリー『水時計』(創元推理文庫)だろう。2010年度の〈本格ミステリ・ベスト10〉で海外部門第4位(2010年度)にランクインしたこの作品、わたしなどは一読したときに思わず感激し、 “Omigod! It’s f**king Great!!” (大意=「ヤバすっ!! これ傑作じゃね?」)と叫んでしまったほどだ。いやほんと、誇張ではなく、それくらい面白かったのである。

では、どこがどう面白かったのか? 個人的な意見をいわせてもらえれば、それはもう「ラストの意外性」の一点につきる。しかも、ただ意外なだけではない。これが「普通に意外」なのだ。この「普通に」というのがミソで、現代のミステリーにおいて、これはかなり珍重すべき(と同時に新鮮な)味わいなのである。

本格ミステリーは歴史が長く、ある意味、ネタはすでに出つくしている。このため、現代本格においてラストの意外な作品は、サラ・ウォーターズの『半身』のようにアクロバットな大技を使ったものか、ミネット・ウォルターズの『蛇の形』のように物語を細かく解体し、それぞれのピースをモザイク状に並べていくことでサプライズを演出しているものが多い。

そんななか、『水時計』はじつにオーソドックス。イギリス東部の町で起こった殺人事件を、基本的には事件の推移どおりに描いていく。それでいて、ラストはきっちり驚かせてくれるのだから立派だ。真相がわかった瞬間、犯人の登場シーンのひとつひとつが走馬燈のように頭を駆けめぐり、「おお、このジム・ケリーって作家、ほんと頭いいなぁ」とつぶやかずにはいられない。

これぞまさしく、本格ミステリーの醍醐味なのである。


ということで、前置きが長くなったが、今回とりあげるジム・ケリー『火焔の鎖』(創元推理文庫)は、この『水時計』につづくシリーズ第2作にあたる。前作は新人の本邦初紹介作だったから読むほうも油断していたが、今回は相手の手の内はある程度読めているし、期待値も高くなっている。はたしてジム・ケリーはその期待に応えてくれるのか?

いきなり結論からいってしまうと、ジム・ケリーは期待を大きく裏切り、新しい驚きをもたらしてくれた。というのは、前作がストレートな殺人ミステリーだったのに対し、こんどの『火焔の鎖』は、いくつもの犯罪と罪が重層的に交錯した重い人間ドラマになっているからだ。物語も前作ほど単純ではない。

今回、主人公の新聞記者ドライデンは、知人の女性の遺書を読んで驚くべき事実を知る。その女性は、27年前に起きた米軍輸送機墜落事故のときに、事故で死んだ乗客の赤ん坊と自分の赤ん坊をすりかえていたというのだ。いったい、なぜそんなことをしたのか? 謎を探りはじめたドライデンは、それと並行して、アフリカからの不法入国者をめぐる事件と、違法ポルノ写真が秘密裡に売買されている事件を追う。やがてさまざまな事件が結びつき……

今回のラストは「犯人がわかってすっきり解決」というタイプのものではない。ひとつの事件の真相が、さまざまな人間ドラマの「真相」と呼応し、重なり合い、読む者の心を大きく揺さぶってくる。ここで注目したいのは、今回の作品では「監禁=閉じこめられている状態」がひとつのテーマになっていることだ。

謎の犯人の手で、第二次大戦中に建設されたトーチカに監禁されている男。

捕虜となって敵兵に監禁されていた兵士。

輸送トラックのコンテナに閉じこめられた不法入国者たち。

そして、昏睡状態で病院に入院しているドライデンの妻(彼女は身体がまったく動かせないが、意識はきちんとあるらしい。要するに、動かない自分の身体に閉じこめられているのだ)。

こうしたさまざまな「監禁状態」が複雑に織りなす悲劇のタペストリーこそ、本書の最大の読みどころといっていいだろう。同時に、ジム・ケリーはこのテーマに関連して、本筋とは関係のない大きなサプライズをラストに用意している。そしてこのサプライズは、シリーズ次作への期待を大きく膨らませてくれる。本書を読んだ読者は、第3作の刊行がひたすら待ち遠しくなるにちがいない。


ということで、第2回の敵状偵察はこれにて終了である。ちなみに、興味のある読者もいると思うので付け足しておくと、矢口誠は玉木亨を愛しているが、玉木亨は矢口誠を愛していないらしい。ま、この世に完璧な人間はいない。優秀な玉木亨にも欠点はあるということだ。

矢口 誠 (やぐち まこと)

1962年生まれ。翻訳家・特撮映画研究家。光文社「ジャーロ」にて海外ミステリの書評を3年間担当。主訳書は『レイ・ハリーハウゼン大全』(河出書房新社刊)。最新訳書はアダム・ファウアー『心理学的にありえない』(文藝春秋)。好きな色は赤。好きなタイプの女性は沢井桂子(←誰も訊いてねぇーよ)。

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