やっとここまで来たか、という思いがする。ピーター・ウィムジィ卿シリーズ第五作、『毒を食らわば』(創元推理文庫、浅羽莢子訳、1930)の登場である。ここでシリーズの最重要キャラと言える生涯の伴侶、ハリエット・ヴェインに出会うことによって、いよいよピーター卿という人格の変遷は大きな転換点を迎えることになる。

◆ ハリエット・ヴェインという女性

 まずはいつものように、ストーリーを。

 物語は裁判場面から始まる。被告人の女性ミステリ作家、ハリエット・ヴェインは、愛人である作家、フィリップ・ボーイズに対する毒殺容疑で逮捕され、被告席に立つことになった。砒素を使って愛人を殺した、という彼女の容疑に対して、裁判官も陪審員も、傍聴席もマスコミもきわめて敵対的。ただ傍聴席で、憂鬱そうな顔で裁判を眺めているピーターと、陪審員の中にいた初老の女性を除いては。

 ところが一同の予想を裏切って陪審員の審議は大紛糾、えんえん六時間半たってやっと導き出されたのは、「意見の不一致による審議の延期」という結論だった。粘りに粘ったのはなんと、陪審団の中にいたキャスリン・クリンプスン嬢。彼女の「驚くほどしぶとい良心」が、やったという確信もない相手を有罪とするによしとせず、粘りに粘ってほかの陪審員に音をあげさせたのである。

 歓喜したピーター卿は、実は法廷で見たとたん一目惚れしていたハリエット・ヴェインを救うために、勇躍捜査に乗り出すことになるのだが、しかし、与えられた猶予は一ヶ月──ピーターは無事ハリエットの無実を証明し、真犯人を見いだすことができるのだろうか?

 さて、この巻ではまだ前巻までの、「道化者」「演技者」というピーターのキャラ付けが残っている。その上、ハリエットとの今後長く続くことになる攻防で(笑)、根性を叩き直されてもいないため、いろいろと女性としては「ケッ」といいたくなる発言が出る。たとえばハリエットと初面会したあとの、浮かれきったこの台詞。

「何とかうまくいきそうだ──もちろん、過敏にはなっている──むりもない、あんなひどい男のあとじゃ──だが嫌悪はないと言った──生理的嫌悪感だけはどうにもならない──蜂蜜のような肌をしている──濃い赤を着るべきだ──それと古いガーネット──指輪もたくさん、どちらかといえば昔風なものを──一戸建てを借りるべきかな──かわいそうに、僕が頑張って埋め合わせをしてやる──ユーモア感覚のある人だ──脳味噌も──退屈はしない──目を覚ませば愉しいことで一杯の一日が待っている──うちに帰ってきて床に入る──それもまた愉しい──本を書いている間、僕の方でも出かけて何やかやしていれば、どちらも退屈にはなりっこない──」

 まあいろいろと情状酌量の余地はある。ピーターはなんといっても19世紀の英国男性的価値観を引きずっている身だし、これまで金持ちの伊達男として女性など誘わずともついてくるものだったし、なにしろ一目惚れの相手にそこそこ嫌われていないと知って舞い上がっているのだから、多少のことは大目に見てやるべきなのかもしれない。

 しかし、気にするべきは特にこの台詞の後半である。「濃い赤を着るべきだ」以降の部分である。

 いちおう繰り返すが、これはたぶんピーター一人が悪いというのではなく、一般的な男性の反応としては、今も昔もこういうものなのかもしれない。カレシが服を選んでプレゼントしてくれれば嬉しい、と思う女性も、たぶんいっぱいいるだろう、というか、もしかしたらそっちのほうが正統派なのかもしれない。

 だが気むずかしいめんどくさい偏屈なものかき女であるわたくしは思うのである。「べきだ」とは何事か、「べきだ」とは。

 濃い赤を着ようが着まいがガーネットを身につけようがつけまいがハリエットの勝手ではないか。だいたい指輪なんぞどっさりはめてたら原稿書きに邪魔だ(これは私感)「脳味噌も」ってなにそれ。女に脳味噌がないような発言は見過ごせないぞコラ。まあ前巻(『ベローナ・クラブの不愉快な事件』)でカッチーンとくるような女性論を展開していたピーターであるからいきなり変われというのも無理なのかもしれないが。

 あと「かわいそうに」「僕が頑張って埋め合わせをしてやる」ってなにその上から目線むかつく。そりゃハリエットは無実の罪を着せられて気の毒だししんどいかもしれないが、別にピーターに哀れんでくれとも埋め合わせをしてくれとも頼んでいない。そもそも助けてくれとさえ言っていないのである。一言で言えば「大きなお世話」だ。

 こうした「女性は男性と結ばれ、恋人として妻として守られているのが幸福である」という価値観は、ある人に対しては合っているのだろうが、しかし女にだっていろんな人間と性格があるのである。そしてハリエットは、ただお人形のように男に守られ、与えられるだけで満足していられるような女性ではなかった。

 それは彼女がフィリップ・ボーイズと別れる原因になったいさかいの元にも現れている。彼女は「結婚を拒否されたから」ではなく「結婚を申しこまれた」から、「百年の恋も一度にさめた」のである。

「フィリップは女と友達になれる人じゃありませんでした。あの人が欲しかったのは献身だったんです。だから献身しました。ほんとにね。だけどばかを見させられたのには我慢がなりませんでした。まともな扱いに値するか見るために、会社の給仕みたいに試用期間を与えられたのかと思うと、たまりませんでした。結婚そのものに反対だと言われ、本心だと素直にとったのに──蓋を開けてみたら試されてたなんて」

 そしてフィリップ・ボーイズ側が実際どう考えていたかも、彼が父親に送った手紙の中に書かれている。こちらもまた「ケッ」である。

『僕の彼女はほんとにいい娘なので、ちゃんとした形にすることに決めたんです。そうしてやるだけのことはある娘です。正式になったら、父親として認めてやってください。父さんに司式をお願いするつもりはありません──ご存じの通り、登記所のほうが僕のやり方に合ってますから。向こうも僕同様、聖職の匂いの中で育ちはしましたが、『妹と背の道』がなければいやだ、とは言わないと思います』

『(中略・ハリエットに結婚を断られたあと)ハリエットが僕と自分を世間の物笑いにしてのけた以上、もう何もいうことはありません』

◆ ピーターの勘違い、そして苦難の道へ

 さて、先にあげたピーターの独白と、このフィリップ・ボーイズの手紙に共通して流れている認識とはなんだか、おわかりになるだろうか。

 それは「女性は男性の言うことを聞いて当然、丁重に扱って結婚してやると言われれば無条件に喜ぶはず」という思いこみであり、「相手の女性の意志や性格、思想などの存在をまったく考慮していない」という点である。

 ピーター自身は自覚しておらず、作中でも明確には描かれていないが、彼がさんざん「無粋者、思い上がった若造、気取り屋」と内心ののしっているフィリップ・ボーイズと、根本的にはまったく同じ過ちを、実は彼は犯しているのである。

 のちの作品でピーターが苦く回想している(『学寮祭の夜』)ように、この巻での、恋に浮かれて舞い上がったピーターは、逮捕されて裁判を待つ身、というハリエットの精神的ストレスを真の意味で思いやることもせず、自分の気持ちを押しつけ、毎日騒がせ、無遠慮に結婚してくれと責め立てるばかりである。正直言って、ハリエットはそんな気分ではなかっただろうし、何も考える気分になれないことは彼女も実際口にしている。

「わたしはできません」ハリエットはしおれ始めていた。「お願いですから、もうおっしゃらないでください。自分でもわかりません。考えられません。先の──先の──一、二週間より先のことは見えなくて。何とか抜け出てひとりになりたいだけ」

 これに対するピーターの返事が、

「わかりました。しつこくするのはやめます。公平じゃありません。特権の乱用というか。『豚』と言いすてて出ていかれたくても、それが許されるお立場じゃないんですから。それどころか、こちらから出ていきます。約束があるんですよ──マニキュア師と。いい娘なんですが、母音の発音が少しお上品すぎるのが玉に瑕です。ごきげんよう!」

 どういう調子でピーターがこれを口にしたのかは書かれていないのでわからないが、字面だけ読めば、自分の思い通りになってくれないハリエットに苛立って、わざと思わせぶりな捨て台詞を残した、というふうにとれなくもない。それでは、ピーターが嫌悪しているフィリップ・ボーイズ、ハリエットが、主人たる自分の意に反して結婚を拒否したのでむくれ返った馬鹿男と同じである。

 ハリエットの愛を得るためには、まず、ピーター自身がそこに気づかねばならなかった。双方からの心からの同意による結びつき以外に、二つの繊細にして知的、かつ意地っ張りな心が寄り添い合う道はない。そしてそこに至りつくには、どちらかがどちらかの意志を相手に強制したり、思いやることをしなかったり、意見の相違があればとことん話し合う努力、たがいがたがいを解り合う努力を、怠ったりしてはならなかった。

 ここにピーターの不幸と、そして幸運が集約されている。ハリエットという、独自の人格と意志を持った女性と出会うことで、彼は、これまで装っていた道化の仮面を脱ぎ捨て、真実の自分自身と向かいあわざるを得なくなった。これまでのうわっつらのお芝居ではごまかされない別の個性に、はじめて彼は出会ったのである。

 この点で、ハリエットが女性である、というあたりは、恋愛とかかわらない点でも重要だった、と私は思う。現時点での親友であるパーカーは、『相手のすべてを知りたいと思わずに相手を好きになることのできる男』であって、真のピーター自身を出さずとも、お互いが心地よいと感じるあたりで踏み込むのをやめてくれる。

 ほかのピーターにとって親しい男性たちも同じである。彼らはすべて「警官」「弁護士」「医師」という男性の社会的役割の上でピーターと関わっており、そういう意味では、ピーターの「お洒落で道化者の有閑貴族」という役割も似たようなものだ。彼らはひとつの舞台で、社会という約束事に従って動いており、そこに収まっているかぎり、何の問題も起きはしない。そして何の進歩も。

 ピーターをそんなぬるま湯から引っぱり出すには、男社会のルールに収まらぬ女性、自分の意志と誇りを貫き通す、頑固なハリエットの登場を待つしかなかったのである。

 まあ繰り返せばこれは20世紀初頭の、今よりずっと男性優位な時代の小説であるから、その登場人物であるピーターに現代と同じフェミニズムを理解しろというほうが酷かもしれない。

 むしろ、この時代に、現代にも通じるしっかりとした意志と性格を持ったハリエットという女性を(自分自身の投影は多分にあるだろうとはいえ)描くことのできたセイヤーズの先見性に拍手を送りたい。自立した職業婦人であり、シングルマザーという、当時と現代では(今でさえ苦労が絶えないというのに)比べものにならないほどの苦境を果敢に生き抜いた、セイヤーズならではの描写であると私は思う。

 この巻でピーターとハリエットを結婚させておしまいにしよう、と思っていたセイヤーズは、ラストシーンでいかにも次の巻では結婚していそうな感じで『毒を食らわば』を終えている。

 だが、セイヤーズ自身の言葉を借りれば『人形は、かろうじて独自の意志を持つだけの厚みをそなえていたので』、(おそらくこれは、ハリエットがセイヤーズ自身の鏡像であったことがかえってよい方向に働いたのだろう)そのハリエットにひっぱられる形で、彼女の伴侶としてふさわしい人格と厚みを、人間としてのリアリティを身につけるべく、これからピーターは、成長という苦難の道を歩む事になるのである。

◆ 成長の兆し──人間的な変化への恐れ

 ハリエット関連のことばかり書いてしまったが、実はそれ以外にも、ピーターが『変化していく自分』に気づいて戦慄する箇所が二カ所ほどこの作品にはある。

 ひとつはマージョリィ・フェルプスとボヘミアを訪ねたタクシーの中にて。

 変わってくれるなと頼まれたのはこれで二度目だった(※一度目はおそらくハリエットに初面会したときに「どこも変えたりなさらないで」と言われたことだと思われる──五代注)。最初の時はそう頼まれて有頂天になったが、今回は震え上がった。雨に濡れた堤防通りをふらつきながら走っていく車の中で、自分もまた変わらずにはすまないことの最初の警告、すなわち鈍くて怒りに充ちた無力感を初めて覚えた。『愚者の悲劇』で毒を盛られたアスルフのように、『ああ、変わっていく、変わっていく、恐ろしいほど変わっていく』と叫び出したいところだった。今回の企てが失敗しようと成功しようと、二度と昔の自分にはなれない。破滅的な恋に破れるからではない──血気盛んな若者ならではの贅沢な苦しみはとうに卒業している。だがその手の幻想からの解放そのものが、何かを喪ったことを意味しているのに気がついたのだ。

 ……思ったより引用が長くなってしまったので、もうひとつは文庫の222ページ13行目あたりから、迫り来るハリエットの裁判に怯えるピーターの描写を読んでいただきたい。

 これらの部分は、ほかの気楽で明るいピーターの言動に比して、異様なまでに浮いて見える。明るい色のポップな地から、いきなりぬっと真っ黒でどろどろしたなにかが突きだしてきたような感じすら受ける。マージョリィとの対話で差しはさまれる上記の引用部分など、多少唐突にすら思える。

 ピーターとハリエットの結婚でシリーズを終了させるつもりでいたというセイヤーズだが、実は、『この二人の物語はとうていここでは収まらない』ということを、作家的本能で感じとっていたのではあるまいか。でなければ、シリーズ最終巻(予定)でいきなり、主人公のそれまでのキャラクターを全否定するような述懐を入れてくるはずがない。

 明るくお洒落でお喋りな、お道化た有閑貴族探偵。商業的要求に従って作りあげられたピーター卿という「キャラクター」は、いつのまにかセイヤーズの中で少しずつでも成長し、人間となる時を待っていた。そしてハリエットへの恋という触媒を得て、それは一気に芽を出し、これまでのおどけ者ピーターならけっしてしなかったような、生々しい人間的感情の発露へと導いたのである。

 それこそは「幻想からの解放」であった。心のないお人形、あるいは役者という自由さを喪い、舞台を降りて、血肉を持った人間になることへの恐れを、ピーターは感じたのである。地上のしがらみから逃れる夢の翼をもぎ取られ、苦痛と恐怖におののく、真の人間の魂を得ること。だが、それこそが成長の証であり、ハリエットの愛を得るための唯一の資格であることに、彼はすでに気づいているのだ。

◆ その他のカップルたち

 さて、この巻ではピーターとハリエット以外に、二つのカップルが成立している。一つは一巻『誰の死体?』で出会ったアーバスノット爵子とユダヤ人銀行家の娘、そして、『雲なす証言』でピーターの妹メアリに一目惚れしてしまったパーカー警部である。

 前者はまあ粘り強く奉仕することでなんとかかんとか結婚の許しをもらった、という感じだが、後者の二人は、それぞれ実にほほえましい。

 今や若気の至りの過去の恋からもすっかり立ちなおり、大人の落ち着きを身につけ、パーカーの誠実さに触れて、あとは結婚の申し込みを待つだけのレディ・メアリ。しかし持ち前の真面目さから、一介の警察官であるパーカーは貴族の姫君への恋など身分違いとはなから諦めていて、自分から申し込もうとしてくれない。

 恋に悩む身であるピーターは妹と親友のキューピッド役となって、放っておけばいつまでも進展しなさそうな二人の後押しをしてやる。久しぶりに兄妹らしい会話を交わすピーターとメアリ、そして「ヴィクトリア朝的に」直裁に「申し込むつもりかどうかに決まっているだろ! これでもヴィクトリア朝度が足りないというなら、僕にはもうわからない」とピーターに言わしめる、パーカーの朴念仁さ。

 しかしこのひと押しのおかげで無事に二人はくっつき、「しまりのない幸せぶり」でかえってピーターを辟易させるのだから、まあよかったと言うべきなのだろう。若さで進歩的な思想や大々的なお題目に走ってみても、メアリは実際、のちの立派な主婦ぶりを見ても、根は実にしっかりした家庭的な女性である。誠実でやさしく、家族思いなパーカーとのおしどり夫婦ぶりは、のちの巻にも出てきてニヤニヤさせられる。

 では、ピーターとハリエットの幸せはどこにあるのか。それはこの巻ではまだわからない。彼らの前にはそれぞれの精神的成長という長く苦しい道が横たわり、それを越えた先に、真の幸福と愛が約束されていることを、二人はまだ知らないのだから。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

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