プラハのユダヤ人街の方へ

 来月予定しているレオ・ペルッツ『夜毎に石の橋の下で』(国書刊行会)は、〈晶文社ミステリ〉で刊行した『最後の審判の巨匠』以来、ずっとあたためていた企画です。(いまあらためてみたら、もう七年が経っていました。「象は忘れない」というほどではありませんが、当編集室もけっこう執念深い、いや物覚えがよいようです)

『最後の審判の巨匠』は、某名作ミステリのトリックの先例として名のみ知られていた作品で、この春増補版が出た『黄色い部屋はいかに改装されたか?』で都筑道夫氏が言及し、それに鮎川哲也氏が反応するというかたちで、熱心なミステリ・ファンの記憶に残っていました。しかし、鮎川氏はもちろん都筑氏にしても本作を実際に読んでいたわけではなく、おそらく英訳刊行時のアントニイ・バウチャーの評にもとづくコメントだと思われます。

 刊行後80年以上を経て、日本の読者の前にその真の姿をあらわした『最後の審判の巨匠』は、しかし、トリック分類に血道をあげる「本格の鬼」たちが随喜の涙を流すようなものではまったくなく、その語りの魔術、恐るべきヴィジョンで「変な小説」好き読者のハートをがっちりつかむ一方で、「これは本格ではない」という(お馴染みの)批判を浴びる怪作ミステリでした。さながら悪夢の中を彷徨うがごとき展開で、「端正な本格」を求める謎解き探偵小説ファンを一読呆然とさせたこの作品、異色作の多い〈晶文社ミステリ〉のなかでもとりわけ愛着のあるタイトルのひとつです。

 さて今回ご紹介する『夜毎に石の橋の下で』は、ペルッツが1953年に発表、作者が幼き日を過ごした中欧の古都プラハを重層的に描いた幻想歴史小説の傑作です。これは「ミステリ」ではありませんが、それ以上に魅力的な「謎の物語」でもあります。

物語は1589年の秋、恐ろしい疫病が蔓延する神聖ローマ帝国の首都プラハのユダヤ人街で幕を開けます。婚礼の席で余興を演じて稼いでいた芸人コンビ、〈阿呆のイェケレ〉と〈熊のコッペル〉は、食うに困って墓に供えられた銅銭をくすねようと、夜の墓地に忍びこみました。そこで二人は、死んだ子供の霊に出会います。霊はこの悪疫は姦通の罪に対する神の怒りだと告げ、その話を聞いた〈高徳のラビ〉は女たちを集めて、罪を犯した者は告白せよと迫りました。しかし名乗りでる者はなく、ラビが死者の霊を召喚して再び問うと、罪を犯した者は汝が知っているはず、という答え。そこで卒然と思い当たったラビは、市中を流れるヴルタヴァ河に架かる石の橋の下に赴き、あることを行ないます。

 その夜、疫病はユダヤ人街から姿を消し、街では一人の女が息をひきとり、プラハ城の皇帝ルドルフ二世は突然悲鳴を上げて目を覚ましました。悪疫を祓ったラビの行為が意味するものとは? そしてラビと女と皇帝の関係は? ——物語は大きな謎を残しつつ次の章へとうつります。

 次章「皇帝の食卓」は、それから9年後の1598年夏、帝国からのボヘミア独立を夢見る青年貴族とその一族に伝わる予言の物語。つづく「犬の会話」はさらに11年後の1609年冬、些細な過ちから死刑に処されることになった不運な男が、処刑前夜、獄中で一緒になった野良犬から(秘密の呪文をつかって)ある重大な秘密を聞きだす話。——といった具合に、その後も皇帝、貴族、武将、商人、錬金術師、画家、道化、天文学者、盗賊、料理人など、プラハの様々な階級・職業・人種の人々が次々に登場し、歴史を前後しながら、冒険譚や艶笑譚、復讐譚、魔法の話や恋の話、不思議な運命の物語を繰り広げていきます。そしてその一見無関係な、ばらばらに配置された物語の中から、やがて冒頭に置かれたエピソードの真の意味、隠された構図が浮かび上がってくるあたりは、ある種のミステリ的興奮をかきたてることでしょう。同時にこれは、世界という神秘(ミステリ)の物語でもあります。

 かつてヨーロッパの文化的・政治的中心地として栄えたプラハという街の歴史、そして作者の出自でもあるユダヤ人街の受難の歴史が幾重にも折り畳まれた本書『夜毎に石の橋の下で』は、物語のもつ魔法の力を20世紀半ばに甦らせた、奇蹟のような輝きに満ちた作品です。

 今月はこのへんで。次回は最終回。

藤原編集室(ふじわらへんしゅうしつ) 1997年開室、フリーランス編集者。《世界探偵小説全集》《翔泳社ミステリー》《晶文社ミステリ》《KAWADE MYSTERY》と翻訳ミステリ企画をもって各社を渡り歩く。ルドルフ二世時代のプラハについては、芸術愛好家で政治的には無能な皇帝像を一変させたR・J・W・エヴァンズ『魔術の帝国』(平凡社/ちくま学芸文庫)が必読。意外なところではピーター・シスの絵本『三つの金の鍵』(BL出版)が、アルチンボルドの絵やゴーレム伝説を自在に引用して魔法の街プラハを描いていて面白い。ツイッターアカウントは@fujiwara_ed

本棚の中の骸骨:藤原編集室通信