「親愛なるフランクリン」。エヴァはそう夫に語りかけ続ける。

 エヴァは世界各国を旅し、旅行ガイドを執筆するジャーナリストだった。恋人のフランクリンと結婚し二人きりの気ままな暮らしを経て、やがて彼女は母になる。息子のケヴィンを自然の多い環境で育てたいとフランクリンが望んだため、3人は郊外の大邸宅に引っ越す。そこには絵に描いたような幸せがあるはずだった。

 しかし今、彼女は地元の旅行会社の雑用係として働いている。友達はいない。スーパーに買い物に行けば、目を離したすきに彼女のカートの中の卵は誰かに割られてしまう、そんな嫌がらせも日常茶飯事だ。もう旅に出ることもない。小さな古びたアパートに1人で暮らし、職場と家を毎日往復するだけ。そして土曜日には刑務所に面会に出かけていく。そしてフランクリンに長い手紙を書くことで、自分の過去を旅している。

 こんなにも求めていた語るべきこと。それをようやく私が手に入れたとき、どんな物語を語ることになるのか、語らなければならなくなるのか。そのときのわたしは考えたこともなかった。ましてや思いもしなかった、わたしがようやくその物語をかたりはじめたとき、いちばんにそれを聞いてもらいたかった人が、すでにわたしのそばから去っていようとは。

 一番聞いてもらいたかった人、フランクリンはなぜそばにいないのか。彼女が語るべきこととはなんなのか。なぜ彼女は嫌がらせを受けているのか。なぜ刑務所に面会に行くのか。ケヴィンはなぜ一緒に暮らしていないのか。

 エヴァはケヴィンが生まれてから今に至る物語を綴る中で、その「なぜ」を明らかにしていく。ためらっていたにも関わらず、子供を持ちたいと思ったわけ。「新しい物語を求める」気持ちから子供を欲したこと。その気持ちは切実なものであったにも関わらず、それを非難するかのように、ケヴィンが生まれた瞬間から彼女を拒絶していたことをエヴァは告白する。

 わたしが彼の体をおずおずと両手でつかむと、顔をしかめて不機嫌をあらわにした。母乳を吸うことは本能だといわれているけれど、彼の口を私の黒ずんで大きく張った乳首にもっていくといやがって顔をそむけてしまった。

 ケヴィンが生まれたその日から母親への憎悪を募らせていく様子が、エヴァの手紙には綴られている。彼女に闘いを挑むかのように、3歳になっても一切言葉を口にせず、6歳になってもおむつをしたまま。やがて憎悪はベビーシッターやクラスメート、教師へと拡大していく。そして妹のシーリアも悪意の標的となり、ケヴィンの暴力が彼女を襲う。そしてケヴィンの攻撃はさらに加速し、悲劇はクライマックスを迎える。エヴァが「木曜日」とかっこつきで呼ぶ、その日に。

 エヴァの手紙に現れるケヴィンの悪意には、理由も原因もない。純粋な悪意だ。それは残酷な手段となって現れ、エヴァのすべてを徹底的に壊す。「木曜日」の事件の後、ケヴィンを「現代社会の闇」と評したTV番組に倣えば、その残酷さを「心の闇」と表することもできるだろう。

 しかしここで一つの謎が生まれる。エヴァが綴るケヴィンの姿は真実なのか。エヴァの目に映るケヴィンしか、ここにはいない。母の胸から顔をそむけたのは拒絶からだったのか。彼は本当に母親を理由なく忌み嫌っていたのか。

 ケヴィンの中に確かに闇はあった。だから「木曜日」が起きたのである。しかし闇を抱えていたのは彼だけだったのだろうか。ケヴィンがたった一人でその闇をより深くしていったのだろうか。

 家族だったらわかりあえると信じて疑わないフランクリン。ケヴィンの世界観を「すべて“悪意”という言葉でまとめることができる」と、わかりやすく分類するエヴァ。2人の心に闇はなかったか。彼らの無邪気な善良さや自信がたとえ明るい光だったとしても、その光が闇をより色濃くした可能性を否定することはできるだろうか。

長坂 陽子(ながさか ようこ)

1974年生まれ。翻訳者・ライター。日本女子大学人間社会学部卒。映画雑誌の記事やハーレクイン・ロマンスの翻訳をする傍ら、海外セレブのゴシップやファッション記事を主に執筆中。

 書評をしていく予定の本:読んだ後、心に波風が立った本について色々書いていきたいです。とらわれない読書を楽しみたいと思っています。主人公に自分を重ね合わせるもよし、社会学的に読むもよし、料理や洋服など小物に注目して読むもよし。作品にあるドラマを経験しながら、読んでいる自分を分析する、そんな書評を書いていきたいと思います。

※本レビューは「書評を楽しむための専門サイト BOOKJAPAN」に掲載されたものを著作権者の許可を得て転載しました。同サイトも併せてご利用ください。

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