敬愛する元文芸編集者Sさんが、以前ご自分のHPに若い頃の手帳を公開していたことがある。どこどこへ行った、誰と会ったという簡単な記述がほとんどで、本の世界とは無縁の人なら何の面白みもないのだろうが、そこに並ぶ名前たるや、山本周五郎、丹羽文雄、舟橋聖一……と、まさに綺羅星の如くという表現がぴったりだった。もともと記憶力に自信のない人間としては、ああ、こんなふうに手帳だけでもちゃんと残しておけばよかったと悔やむばかり。せっかく翻訳界のそれぞれの時代を代表する方々とお目にかかってきたのに、交わした会話や前後関係の記憶をたぐろうとしても曖昧模糊として手がかりさえない。それこそ後の祭りである。

「文庫戦争」という言葉もすでに死語になったかもしれないが、編集者としての出発点は1974年、文春文庫創刊の年であり、まさに文庫戦争の真っ最中と言える頃だった。1970年にハヤカワ文庫、71年に講談社文庫が創刊され、先行する角川文庫が仕掛けた文庫化作品の激しい争奪戦が始まっていた。

 当時の翻訳出版業界は、ミステリーとSFについてはまだ早川書房と東京創元社の両雄が抜きん出ていたものの、1970年のエリック・シーガル『ラブ・ストーリィ』(板倉章訳、角川書店)、1972年のマリオ・プーヅォ『ゴッドファーザー』(一ノ瀬直二訳、早川書房)が大ベストセラーとなったことで、どちらも映画がらみとはいえ、翻訳ものも商売になりそうだと考える出版社が増えていった。

 特に、作家と作品の熾烈な奪い合いを続けていた文庫業界では、「売れる」翻訳ものは点数を揃える意味でも重宝だった。多少高いアドバンスを積んでも、翻訳者は作家ほど扱いが面倒ではないし、予定も立てやすい。自然、売れそうなタイトルは各社競合になり、アドバンスは高騰した。古典中心だった東京創元社はまだしも、新作が多かった早川書房は人気作家の版権の草刈場になる危険もあり、防衛に力を注がざるをえなかった。いい意味でも悪い意味でも翻訳出版界の転機とも言える時期であり、ミステリーをはじめ翻訳出版全体にいまでは想像もできない活気があったことは間違いない。

 翻訳者との出会いという点で言えば、幸い、揶揄半分で通称「大久保翻訳工場」と呼ばれた長老方の晩年にぎりぎり間に合うことができた。『風と共に去りぬ』の大久保康雄さんとはお仕事をご一緒する機会がなかったが、中村能三さんなどには新米編集者の頃から何度も原稿をいただきにあがったし、田中西二郎さんとはグレアム・グリーンの自伝を作らせていただいた。みなさん苦労人で、ぽっと出の新人に対しても気さくに話をしてくれた。こちらも「のうぞーさん」(正しくは「よしみ」)、「ニシジローさん」(「せいじろう」)などと(面と向かってではないが)呼んでいて、そういえばグリーンの自伝を作ったときに奥付にうっかり「たなかにしじろう」とルビをつけて叱られた記憶が残っている。あれは重版して直せたのだったか?

 当時、翻訳専門学校のはしりと言える「日本翻訳専門学院」が四谷にあった。講師陣は中村能三さんはじめ、常盤新平さん、高橋泰邦さんなど錚々たる顔ぶれで、先日このサイトで楽しいエッセイをお書きになった青木純子さんはこの学校で工藤幸雄先生と出会われたとのこと。この頃から翻訳界の師弟関係の質が変わってきたように思う。それ以前の職人の徒弟制度的なものから、先生と生徒のいわゆる教育的な関係の要素が濃くなってきたようだ。事実、翻訳出版界の拡大に伴い、バベル、フェロー、ユニカレッジなど翻訳学校が次々と誕生し、そうした学校を経て現在活躍されている翻訳者の方々も少なくない。

 それまでの主だった師弟関係で言えば、ル・カレの翻訳などで定評のあった宇野利泰さんのもとから稲葉明雄さんや深町眞理子さん、中村能三(大久保康雄)門下から永井淳さん、田中小実昌さんなどが輩出したと言われる。中村さんが、「須藤(永井淳)と小実昌は初めからうまかった」として、カーター・ブラウン(だったと思うが)の小説の第1行目の「It was a hot day!](だったと思うが)を、小実昌さんが「暑いのなんのって!」と訳したのを激賞していた。

 日本翻訳専門学院の「校長」的存在だった中村能三さんの翻訳に対する真摯な態度はよく知られていたが、晩年は次代の翻訳者養成に力を注がれた。中村さんは、生徒に下訳をやらせ、そのなかからじっくり優秀な人を選抜して「中訳者」に取り立てて下訳を手直しさせる、「下訳」「中訳」「上訳」システムを考案した。むろん「上訳」はご自身が丁寧にやられるわけで、この後に現われるスピード優先の工房システムとはまったく目的が違って、効率よりも優秀な弟子を育てて出版社に紹介することに重きが置かれていた。このシステムはいろいろな理由であまりうまく働いていなかったように見えたが、最初の「中訳者」吉野美恵子さんはじめ、中村「校長」門下からは水野谷とおる、成川裕子、佐々田雅子などの優れた翻訳者が生まれている。

 偉ぶったところの微塵もない中村さんには、翻訳についてもいろいろお話を伺う機会もあったのに、具体的にはほとんど覚えていない。ただ翻訳に正面から取り組んでおられた姿勢は、おそらくいまの自分の翻訳観の大きな部分を形作るもとになったであろうと確信している。どんな場面だったか、ただひと言、当時売れっ子でベストセラーを出したベテラン翻訳者を評して、「あの男は本名で翻訳するときはいいが、ペンネームのときは手を抜いている」と批判した言葉の鋭さはいまでも耳に残っている。

*誠に曖昧な記憶で書いていますので、間違いは多々あると思います。お気づきになられた方がいらしたら、ぜひご教示ください。次回以降で訂正させて頂きます。

染田屋茂(そめたや しげる)編集者・翻訳者。早川書房(1974〜86)、翻訳専業(1986〜96)、朝日新聞社出版本部(1996〜2007)、武田ランダムハウスジャパン(2007〜)。訳書はスティーヴン・ハンター『極大射程』(新潮文庫、佐藤和彦名義)など30冊ほどあるが、ほぼすべて絶版。