連載も後半戦第二回。前回、『死体をどうぞ』でハリエットとともに捜査することにより、(おそらくは自分でも思いがけず)喜劇的な仮面と傷つきやすく繊細な本来の魂の乖離を意識せざるを得なくなったピーターだが、今回および次回の作品にはハリエットは登場しない。

 そして大胆な言い方をさせてもらえるならば、『五匹の赤い鰊』では、厳密な意味ではピーターが主人公ではなかった(くだんの作品では「本格推理」というスタイルが優先されており、ピーターはたまたまその探偵役として宛てられていたにすぎない)のと同様、今回の作品でも、実は、ピーターは物語の主人公ではない。

 では、ピーターの代わりにこの物語の中心を占めるものは何か。

 今回のお題、『殺人は広告する』については、この問いかけから始めてみたい。

 ではいつものように、ストーリー紹介から。

 夏のある日、一人の青年が鉄の螺旋階段から落ちて死んだ。彼の名はヴィクター・ディーン。不幸な事故として処理されたこの死のしばらく後、死の舞台となった広告会社、ピム広報社に角ぶち眼鏡をかけたとぼけた顔の新入社員がやってくる。彼の名はデス・ブリードン。新人広告文案家として入社した彼は、にぎやかな同僚たちにもまれつつ、さりげなく前任者の転落死について調査を始めるのだったが……。

■ ピーター・イン・ドリームランド

 若島正氏の解説によれば、セイヤーズはこの『殺人は広告する』を、次作『ナイン・テイラーズ』の資料が間に合わなかったため、場つなぎで書いたものとしてあまり気に入っていない、と手紙で述べているらしいが、実際に広告会社でコピーライターとして働いていたセイヤーズの経験を十二分に生かした、ピム社のいきいきした描写と文案家仲間のにぎやかさはとても愉しい。当時の会社のようすや広告の作られる過程、困りものの広告主とのやりとり、社内レクリエーションに社員同士の軋轢、噂話にスキャンダルと、一種のお仕事小説、都会小説的な色彩さえ帯びている。

 そしてほかの作品がたとえロンドンを舞台にしていても、あくまで優雅でコージィな雰囲気を保っているのに比べて、『殺人は広告する』はよりモダンで、都会的で、なおかつどこか夢幻的であり、微妙にほかの作品から浮き上っている。

 それは一つには殺人のほかにこの物語で扱われる犯罪が「麻薬密輸」というひどく生臭い、警察小説か、ハードボイルドの探偵になら似つかわしいようなものであるからかもしれない。また、ピーターがストーリー中ほとんどの場面で「デス・ブリードン」という偽名(正確に言うならピーターのフルネームは「ピーター・デス・ブリードン・ウィムジイ」なので、まったく嘘というわけではないのだが)を使っているためか、いつもの彼とは妙にずれたキャラクターとして描かれざるを得ないからかもしれない。このことに関してはピーター自身が、作品中で述懐をもらしている。

 ピーター・ウィムジイ卿にとり、一生のうち〈鉄階段の謎〉事件に費やした数週間にはどこか夢のような雰囲気があり、当時から気づいていたことだったが、あとになって振り返るとそれがますます顕著に感じられた。自分の──というより、毎朝デス・ブリードンの名で出勤簿に署名する、影のような自分の偽物の──従事している仕事そのものが、生きた現実の世界とは一見似ても似つかぬプラトン式の原型の棲むあやふやな世界にウィムジイを誘い込んだ。(中略)

 しかもグリニッジ天文台に依存している時計が針を五時半に進めたのちも、帰るべき現実世界はブリードンにはない。その時が来ると幻影のブリードン氏は姿を消し、麻薬中毒者の夢に現れた、いよいよもっと幻のハーレクィンと化す。

「ラルフ・リンとバーティ・ウースターを足して二で割ったような」とタイピストの女性に形容される『影のような自分=ピーターの偽物』は、これまた皮肉なことに、喜劇役者の仮面をかぶっていたシリーズ前半のピーターそのものである(ラルフ・リンは当時の喜劇役者、バーティ・ウースターはP・G・ウッドハウスのユーモア小説、執事ジーヴス・シリーズの主人で暢気でお馬鹿な青年貴族)。

 そしてさらにここから彼はまだ、殺人につながる麻薬密売の裏を探るために、仮面をつけた謎めいたハーレクィン、まさに道化に変身して、夜の闇の中を歩き回らなければならない。

 人間としての厚みをすでにセイヤーズの中で確立させつつあったピーター・ウィムジイという一人格にとって、今さら「マーケティング=広告効果を狙って」作られたころの、薄っぺらな仮面を改めてかぶり直さなければならなくなることは、ひどい違和感と苦労を伴ったことだろう。おそらくは、書くほうのセイヤーズにとっても。

 それがセイヤーズの、『殺人は広告する』に対する、低い自己評価につながったのかもしれない。解説によれば「従来からさほど評価が芳しくない」そうだ。個人的にはそれにはあまり賛成しないし、すでに書いたように、お仕事小説、都会小説、風俗小説としての楽しみ方をすれば、セイヤーズのユーモラスな筆で描き出される内容は、実に愉しい。

「おなじみウィムジイの人物造形に関しても、みごとな飛び込みを見せたりするのが人間ばなれしているとの判断を下す批評家もいたり」とのことだが、これは、ピーターというキャラクターについて考察しようという試みであるこの連載にとって、聞き捨てならない指摘である。おやおや。

 そう、確かにこの作品でピーターの人物描写が浮いている、あるいは、なんとなく水をつけた筆でなぞったようにところどころぼんやりとにじんで見える、というのは否定できない。

 しかし、それをもって「『殺人は広告する』は失敗作である」というのは当たらないと思う。

 なんとなればこれは、ピーターを狂言回しに使った「商業主義という巨大な幻の機械が人々を呑み込み、回りつづけるさま」を描いた小説であり、そのあまりに巨大でつかみ所のない存在の前では、我らがピーターでさえ、彼の作った『英国をウィフろう!』という一行のコピーにすら吹き消されてしまう、ちっぽけな存在にすぎないからである。

■ 広告塔と道化者

 冒頭に提示した問いかけの答えはここに帰着する。『殺人は広告する』の主人公、物語の主役は、ピーターではない。あらゆるものを巻き込んで廻転し、休みなく金と広告、チケットと割引券、ネオンと看板、そこに触れるすべての人間を麻薬の眠りに包み込んでしまう、金と広告とが乱舞するこの商業主義の支配する社会、そのものにほかならない。

 貴族であるピーターはそれまで、広告などというものとは無縁で暮らしてきた。既製品の衣服や瓶や缶入りのインスタント食品、お得なご家庭用パックなど、伯爵家の裕福な次男坊には見る機会すらないものである。そのことは同僚との会話や独白で触れられるし、今はパーカーと結婚して幸せな主婦となっている妹メアリの台詞にも出てくる。

「見当もつかないわ。広告なんて読まないもの」

 今は伯爵令嬢でなく、警察官のつましい妻であるメアリでさえこう答える。ピーターも入社直後には、本当にいい品物を売る店は広告などしないものであることをうっかりもらしかけ、失敗するのだから、偉そうな口をきいていても似たようなものなのだろう。

 そういった上流階級の中の上流階級であるピーターが、この十九世紀世紀から二十世紀への変化の時代、社会の中核として安定しつつあった中流階級の人々の中に入り込んで見たものは、いったいなんだったろう。

 それはわずかな金と余暇を追いかけて、猫とネズミのようにくるくると同じ場所を回り続ける「地獄の舞踏」の世界だった。ブリードンのウィムジイは自分に問いかける。

 これほど多種多様に、かつふんだんに遣われる金はどこから来るのだろう、とブリードンは自問自答した。この浪費と倹約の地獄の舞踏が一瞬でもとまったら、どうなってししまうだろう? 世界じゅうの広告が明日消えても、人々はなおもどんどん石鹸を買い、(中略)生活に大きな違いを持たせるささやかな贅沢品を買っていくのか?

 ブリードンのウィムジイ、ピーターにはわからない。四十歳をすぎる今まで一度も働いたことがない、本物のお金持ちの貴族の御曹司には、「比較的貧しい階層が経済的な見地からはどれほど重要か、今の今まで気づいたことがなかった」のである。

 その目が見いだすのは、ただ甘い言葉と贅沢の錯覚と、現実とは似ても似つかぬ陳腐な売り文句が回り続ける走馬灯、そしてその周囲を躍起になって踊り狂い、走り続ける一般大衆の影の狂奔が交錯する蜃気楼のような世界だった。その中を、自分もまたひとつの幻となり、道化者となって、自分自身を一個の広告塔と化しながら、ハーレクィンの仮面の下で、ピーターは呆然と立ち尽くすしかない。

 しかも今回かぶることを課された仮面は、事件が解決を迎えるまで脱ぐことは許されない。傷つきやすい心を守るために、または愛する女性の心を傷つけないために、自ら進んでつけた仮面とはわけが違う。

 この仮面は名探偵にして貴族のピーターからその本来の人格を奪い取り、「デス・ブリードン」という凡庸な会社員、または黒と銀の幻のハーレクィンという幻影を、代わりに置くために存在しているのだ。

 そう、『殺人は広告する』のピーター・ウィムジイは、実はピーターそのものではない。この仮面がピーターに押しつけた、資本社会の歯車の、そのまた一本の歯である「デス・ブリードン」なのである。

 そして彼ですら、この物語の真の主人公ではない。歯車の中の歯であるデス・ブリードンは、周囲で同じように回り続けるたくさんの歯車とその歯たちと、くだらぬ売り文句に一喜一憂する人々にもまれて、軋む巨大な社会という機械の中で、溺れるようにただ回転しつづけるのだ……。

■ 紙に書きつけた益体もない数語で

 事件が解決し、ようやく抜け出して自分本来の顔を取り戻してしまうと、幻影の国の扉は、金持ちで貴族で有名人のピーター・ウィムジイ卿の前に丁重に、しかししっかりと閉ざされ、二度と開くことはない。

 ピム広告社には、おそらくコピーライター時代のセイヤーズの自画像と思われる、才気煥発な女性文案家ミートヤード女史が勤務している。彼女は最初に「デス・ブリードン」の正体に気づいた勘のよい女性でもある。ピーター・ウィムジイに戻った元ブリードンに別れを告げるとき、彼女は諦めたように、それとも達観したように、こう告げる。

「屑よ! 麻薬よ! こんなものに週十ポンドも払ってくれるんだから。かといって、あたしたちがやらなかったら、この国の商業はどうなると思う? 広告するしかないのよね」

 まるで「商業主義」という怪物の勝利のラッパのように鳴り響くこの一言は、その後も作品の最後の一行にたどり着くまで長々と尾を引く。貴族探偵ピーター卿に戻って道を歩いていくウィムジイは、自分がピム社で生み出したキャンペーンが貼り出され、世界に広がっていくのをまさに目の当たりにする。

 大キャンペーンが始まったのだ。ウィムジイは自らの作品を、一種の驚嘆の念をもって眺めた。紙に書きつけた益体もない数語で、何百万という人間の人生に触れてしまっている。

「紙に書きつけた益体もない数語で」というのは、コピーライターとしてと同時に、この文章をタイプしつつあるセイヤーズ自身の驚嘆の念でもあったかもしれない。紙に書きつけた益体もない探偵物語で、何百万とは言わずとも、たくさんの人間の人生に触れてしまっている。それは、ピーター卿シリーズで一躍人気作家となっていたセイヤーズの、偽らない実感だったのではないか。

 そしてこの広告に始まり、広告が主役を務め、広告が勝利を収める物語では、最後まで広告が勝利の歌を歌う。歩き去るピーターは、もはやそこには存在しない。だれ一人、本物の人間などいはしない。「生きた本物の世界とは似ても似つかないプラトン式の原型」たちが、空疎な売り言葉をわめきながら飛び回るだけである。

 イングランドに告げろ。全世界に告げろ。もっと〈ふすま〉を食べましょう。お肌のお手入れを。戦争はやめよう。靴磨きは〈ピッカリ〉で。八百屋さんで訊いてみてください。子供は〈ラクサ麦芽〉が大好き。汝の神に会う覚悟を。バン社のビールの方がいい。〈ドックズボディ〉のソーセージをお試しください。〈サッサ〉で埃を一掃しましょう。パンキンに投票して利益を守ろう。そのくしゃみをとめるには〈スナッフォ〉。〈スカット〉で腎臓をすっきり。〈サンフェクト〉で配水管をすっきり。お肌の隣には〈ウールフリース〉。ウィフりながら幸運を……。

 戦争も、神も、政治も、すべては「広告」たちの騒ぎ立てる言葉の海の中で溺れ、重みを失ってぷかぷかと漂う。イングランドに告げろ。世界じゅうに告げろ。鳴り響くラッパはどこまでも追いかけてくる。

 そして思いがけぬ巨大な置きみやげを広告界に残し、結局のところ、自分が首をつっこまなければ無事に生きていたかもしれない犯人を死に追いやったことに(おそらくは)打ちひしがれて去るピーターの背中に、嘲るような最後の一行が投げつけられる。

 広告するか、潰れるか。

 解説で、若島正氏が述べておられるように「探偵小説もしょせんは商品である。買って読んでもらわなければならない。そのためには広告も必要」なのだ。気に入らない作品でも買かねばならない、書けば売らねばならない、広告せねばならない。書いてしまった益体もない文章が、世界にあふれ出していくのをどうすることもできない。

 最後の一行のブツンと切れる響きが、ひどく残酷に、そして自嘲的に聞こえる。現実世界に生きるセイヤーズは、自らの作り出したピーター卿のように、傷つきながらもこの商業主義の回り灯籠から歩き去ることは許されていない。

 どれほど飽き飽きし、うんざりしていても、「広告するしかないのよね」であり、「広告するか、潰れるか」なのだ。投げつけられる残酷な笑い声は、最後まで仮面の下で押し殺されつづけたピーター卿の丸めた背中とともに、これを書いているセイヤーズ自身にも、向けられている。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

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