翻訳をやっていて何が愉しいって、調べものだ。

 ……と書いたら、ちょっとばかり語弊があるだろうか。

 翻訳者は外国語で書かれたものを日本語に訳すのが仕事だけれど、横のものを縦にするだけで任務完了となることはなかなかない。「調べもの」といって、原書に出てくる事柄について裏を取る作業が、多かれ少なかれ必要となるからだ。ノンフィクションのほか、フィクションでも専門的な知識がベースにあるものは言わずもがなだが、ふつうのミステリでもこの作業はゼロではない。警察小説なら、本国の警察階級やシステムや法的執行機関を把握する、台詞に何かの引用や日本で馴染みのない表現が混じっていれば、出典を参照する、実在の地名が出てきたときには、登場人物の移動に合わせて実際の地図をたどってみる——。こうした調べものは、原文をより深く理解し、著者から受けとったものを読者に伝えるための、縁の下の力持ち的作業といっていいだろう。

 じつは、ともったいぶることでもないが、わたしはこの作業が大好きで、勝手に「調べもの小僧」を名乗っている。好きすぎて、一時など自分の仕事と平行して翻訳仲間の調べものを(自主的に)手伝っていたこともある。課題がメールで送られてくると、二つ返事で引き受け、嬉々として調査を始めたものだった。適切な日本語を探して、文脈に合った解釈を求めて、至福の日々を送っていた。いまでも課題を見つけると心が躍る。

 いったい何がわたしを駆り立てるのか。それはもう、答えを見つけ「YES!」と心のなかで雄叫びをあげるときの感動につきる。訳出中に脳内でクエスチョン・マークがぴこんと立ち、インターネット検索を始める。キーワードを取っ替え引っ替え検索窓に入力し、ヒットしたサイトに根気よく目を通していく。以前、調査を頼まれたフレーズは、たしか六〇年代にアメリカでオンエアされていたテレビCMの一部だった。資料がほとんど見つからず、最後の最後に信頼できる情報に行きあたったときの興奮といったら! まさに「YES!」な体験だった。

 あるいは、未知のことに出会える愉しさもある。受講していた翻訳学校のクラスで、アメリカの元副大統領ダン・クエールが登場するマイクル・リューインの短篇を訳したときのこと。調べたところ、このクエール氏がブッシュもびっくりの失言大王であることが判明。その後は原文そっちのけで、イグノーベル賞まで贈られた彼からブッシュの語録へ、そして賢人の金言へとアドレナリン全開で脱線したことは言うまでもない。

 人間、ひとつのことにここまで惚れ込むと、ときに面白いことが起きるらしい。次回はそんな経験を書いてみたいと思う。

匝瑳玲子(そうさ れいこ)。静岡県生まれ、東京在住。青山学院大学卒。訳書は、ウィットマン&シフマン「FBI美術捜査官」(共訳)、ウェアリング「七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで」、ランズデール「ダークライン」など。

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