第3回読書探偵作文コンクールの応募も締め切られ、現在、審査がおこなわれています。わたしは今年も二次選考をお手伝いさせていただくので、どんな作品に出会えるかと今からわくわくしています。ご応募くださったみなさま、どうもありがとうございました。

 さて、10月のやまねこエッセイでは、翻訳児童書に登場する食べ物をとりあげようかな……と思っていたら、名古屋読書会のお知らせのこんな一節が目に飛びこんできました。「翻訳ミステリー。それは謎の食べ物の宝庫。」

 あらら、かぶったか。でもいいですよね、食欲の秋だし。それに、子どもの本のアプローチは、たぶん大人向けの小説とは少しだけちがいます。場面や対象年齢にもよりますが、読者になじみ深いものに置きかえる、といった工夫が昔も今もおこなわれていて、時代とともにうつろう「なじみ深さの度合い」を見きわめようと、翻訳者はつねに頭を悩ませているのです。

 まずは有名どころからご紹介しましょう。『ナルニア国ものがたり1 ライオンと魔女』に登場する「プリン」——主人公4人きょうだいの二男、エドマンドが、魔女からもらうお菓子です。訳者の瀬田貞二氏はあとがきで次のように記しています。

「訳にあたって、なるべく忠実に原作の意図をうつしとるつもりでかかりましたが、(中略)なじみのない品物、たとえばターキシュ・ディライトという菓子などは、ことさらにまったくちがったプリンに移しかえたことがある点は、ことわっておきましょう」

 ターキシュ・ディライト。トルコの悦び。トルコ旅行をした友人からおみやげにもらって食べたことがありますが、ナッツ入りの求肥(ぎゅうひ)といった食感で、脳天をつらぬくほど甘かった……。あれをひと箱ぜんぶ食べたら、そりゃあ頭がくらくらして判断力がなくなるよ、エドマンド。ちなみに絵本版の『ライオンと魔女と衣装だんす』、および映画『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』ではそのまま「ターキッシュ・ディライト」が使われています。理由はいくつかあると思われますが、おそらく一番大きいのは、箱入りのお菓子の絵(映像)が登場することでしょう。瀬田貞二訳の本は、最新版でも「プリン」のままになっています。

(ぜんぶ書きおえてから気づいたのですが、ちょうど1年前のやまねこエッセイでも宮坂宏美さんが同じ話題を取りあげていました。はは、またかぶった……。というわけでこちらのエッセイも合わせてどうぞ。) 

 同じ作品の2種類の邦訳に、ある食べ物の広まり方の違いが見てとれる例もあります。マデレイン・レングルのSFファンタジーの古典”A Wrinkle in Time”がそんな作品。主人公の少女メグが、長らく行方不明になっている科学者の父をさがすため、弟と友人とともに「五次元運動」(要するにワープなんですが)によって宇宙のかなたの惑星カマゾツまで旅をするという物語で、『五次元世界のぼうけん』(1965年)と『惑星カマゾツ 時間と空間の冒険 I』(1982年)というふたつの邦訳があります。『五次元〜』のほうは、わたしが子どものころわくわくしながら読んだ、初めてのSFです。

 このメグたちの旅の出発点が近所のブロッコリー畑、帰りつくのも同じブロッコリー畑なのですが、1965(昭和40)年に出版された『五次元〜』には、「野菜畑」とあるだけで「ブロッコリー」という言葉は登場しません。1982(昭和57)年刊の『惑星カマゾツ』では「ブロッコリーの中へ着陸しちゃったんだよ!」(p.272)と、そのまま訳されています。

 ふしぎに思って各地の農協のホームページを調べてみると、ブロッコリーは明治時代にカリフラワーとともに渡来したものの当初はカリフラワーほど普及せず、1970年代後半から80年代にかけてようやく健康ブームに乗って広く食されるようになったのだそうな。そういえば、子どものころカリフラワーはよく食卓にのぼりましたが、ブロッコリーを食べるようになったのはかなり大きくなってからだったような記憶があります。なぜいっしょに渡来したのに、カリフラワーの方が好まれたんでしょうね。謎だ。今ではすっかり形勢逆転して、あまりカリフラワーを食べる機会がなくなりましたけど。

 なんだか脱線してカリフラワーの話になってしまいましたが、脱線ついでにもうひとつ。物語のなかで、メグといっしょに旅をするカルビンという少年が、握手を求めてきたメグの手をひきよせてキスをする、ちょっとすてきな場面があるのですが、『五次元〜』では手をにぎるだけでキスはしません(笑)。昭和40年の児童書には、少年と少女のキスはなじまなかったのでしょうかね。時代の移り変わりを感じさせます。

 ……と、昔の話を長々としましたが、では今、なじみ深さの最前線はどのあたりにあるんでしょう? それを見きわめるのは容易じゃありませんが、「シリアル」などはちょうど普及のただなかにある言葉ではないかと感じています。自分が関わったものを例にあげると、わたしは2000年に出版された小学校中・高学年むけの読み物、『宇宙人が来た!』のなかで、”cereal” をすべて「コーンフレーク」に置きかえて訳しました。当時「シリアル」は、大人ならわかるだろうけど小さい子どもにはまだすんなり通じないんじゃないかと思われたからです。でもその10年後の2010年に、同じやまねこ翻訳クラブ会員の武富博子さんが上梓した『アニーのかさ』(対象年齢が少し上ですが)では、”cereal”がそのまま「シリアル」と訳されています。納得。

 定量化はできませんが、この10年で「シリアル」っていう言葉、だいぶ一般的に使われるようになった気がするのです。コーンフレーク以外のシリアル食品が増えた結果、束ねる言葉としての「シリアル」が広まったのではないかと。

 宮坂宏美さんからも自訳書の興味深い実例を教えてもらいました。小学生に大人気のファンタジー、「ランプの精リトル・ジーニー」シリーズにおける訳語の変遷です。

2巻(2006年)コーンフレーク

4巻(2006年)コーンフレーク

9巻(2008年)シリアル

15巻(2010年)シリアル

 宮坂さんによれば、なぜとちゅうで「シリアル」に変えたか思い出せないそうですが、無意識ながらもレーダーのように言葉の広まり具合をキャッチしていたのかもしれません。

 こんなわけで「シリアル」は、児童書でもかなり広く使われるようになってきたわけですが、さらにその周辺の言葉となるとまだまだ悩ましさ全開です。たとえば “bran”はどうでしょう。日本でも「ブランフレーク」は販売されていますが、あくまでもダイエット食品的な位置づけですし、まして子どもが「ブラン」というものを知っているかどうかはかなり疑問。じっさい児童書では、「ブラン」とそのままカタカナを用いるよりは、「小麦のふすま」などという訳語を使うことが多いです。でも、それでは「ふすま」のほうがわかりやすいかというとこれも疑問。うちの無知な子どもたちは「開け閉めするふすましか思い浮かばない」といっておりました。「ふすま入りフレーク」などとすれば、少なくとも食べ物であることはわかりますが、まだしばらくはケースバイケースで処理に悩むことになりそうです。

 もちろん、子どもの知らない言葉を使ってはいけない、ということではありません。自分が子どものころも、知らない通貨の単位に異国を感じて胸をときめかせたり、食べたことのない「ショウガパン」や「マンゴー」にはげしくあこがれたりしたものです。でも子どもが想像をめぐらしてもなんのことだかわからない、物語のなかに入りこむのをさまたげるような言葉はやっぱり減らしたい。

 かくしてわたしたち児童書翻訳者は、「これ、子どもに通じるかな?」とつねに自問自答しながら、ググったり、わが子にたずねたり、対象年齢ぐらいのお子さんを持つ人にきいてみたり、あの手この手で、子どもにとって何がなじみ深いのか、何がおいしそうに思えるのかを把握しようと、けんめいにつとめているのです。

ないとうふみこ(内藤文子) 東京都府中市出身。上智大学卒業。訳書に、ボーム『完訳 オズのエメラルドの都』、ステッド『きみに出会うとき』、フレイマン=ウェア『涙のタトゥー』など。やまねこ翻訳クラブ会員。埼玉県在住。

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