今回とりあげる翻訳家は、はにかんだ笑顔が女性に人気の(とわたしがニラんでいる)田村義進である。このギシン(正しい読み方はヨシノブなのだが、業界の人は親しみをこめてギシンさんと呼ぶことが多い)に対して、わたしはいま大きなワダカマリをいだいている。なぜか?

じつは先日、わたしの愛する翻訳家“チヅリン”こと青木千鶴が、かつてギシンの弟子だったことが判明したのである。ということは、チヅリンに翻訳の心得や技術を教えたのは、ほかならぬギシンということになる。それって、もしかしたらもしかして……

手取り、足取り?

いやいや、チヅリンにかぎってマチガイはないと思う。しかし、女性はなぜか「先生」にヨワイ。しかも、師匠と弟子のように上下関係がある場合、どうしたってパワハラが発生する危険がある。

「千鶴クン、じつはね、こんどキミを独り立ちさせようと思ってるんだよ」「まあ、ギシン先生、ホントですか!? 嬉しい! チヅル頑張ります!!」「だけどそのまえに………………わかってるよね?」とか。

もちろんわたしはチヅリンを信じている。しかし……ギシンがあまりに強引で……いや、まさか……でも、もしかして……イヤンとか……ウフンとか……♪シャバダバダーなんてことが……

ということで、ここまで説明すれば、わたしがギシンにワダカマリを抱いている理由はご理解いただけたと思う。そう、わたしはいま、ひどくギシンアンキになっているのだ。


かくしてわたしは、今回の敵ギシンの身辺をコッソリ探ってみることにした。すると、驚くべき事実が浮上してきたのである。なんと、ギシンの弟子には、あの越前“ダ・ヴィンチ・コード”敏弥もいるのだという。なに?! 偵察隊がとりあげた数少ない翻訳者のうち、ふたりまでもがギシンの弟子? もしかして、ギシンってスーパー教え上手なのか?

そうとわかれば話は早い。有能で有名な翻訳家になりたければ、こんな敵状偵察なんかさっさとやめて、ギシンが教えている翻訳学校に行けばいいではないか!

なんだよ、カンタンな話だったのね。ふふ。

だがしかし、そこには思いもかけぬ壁が立ち塞がっていたのだった。翻訳学校に行くには、当然のことながら授業料が必要である。なのに、翻訳家として生計を立てているわたしには、そんなもの工面する余裕などどこにもないのだ。うーむ、翻訳者になると翻訳学校に行けなくなるというこの悲しきパラドックス(←え、それってオレだけ?)。やはりわたしには、地道な偵察しか道はないのか?


ということで、今回は田村義進の翻訳について語らなければならないのだが……わたしはここでハタと困ってしまった。じつをいうと、わたしは田村義進の翻訳作品を読んでいて「うーん、やっぱりこの人は翻訳がうまいよなぁ」と思ったことがあまりないのである。

たとえば、田村義進の訳したカール・ハイアセンの『復讐はお好き』を読んだとしよう。するとわたしは、「うーん、やっぱりハイアセンってうまいよなぁ」と思う。パーネル・ホールの『探偵になりたい』を読めば、「うーん、やっぱりパーネル・ホールって面白いよなぁ」と思う。しかし、「翻訳がうまいよなぁ」とは思わない。

要するに、田村義進が訳した作品を読んでいるとき、わたしはそれが翻訳小説であることをついつい忘れてしまい、訳文に意識を向けていないのである。言い換えれば、田村義進の翻訳はそれくらい自然でうまいということだ。

人は翻訳小説を読んでいるとき、小説の内容ではなく、翻訳そのものを意識してしまう瞬間がある。詳しく説明すると長くなるので、ここではごく基本的な原因にだけ話を絞ろう。それは、(1)日本語がどこかヘンである、(2)訳文から原文が透けて見えている、のふたつだ。

(1)は「彼はつぎの角で道を曲がり、そのまままっすぐ歩いていくと、やがて科特隊基地が見えてきた」みたいな訳文である。もちろんこのままでも意味はわかる。しかし、日本語としては正しくない。ここでは「彼」が主語なのだから、「見えてきた」というのはおかしい。

(2)は「男は引き出しをあけると、表面が艶消しの黒の、樫材の握りに蛇の紋章が刻印された、いかにも禍々しい拳銃を取りだした」といった訳文だ。これは明らかに、「原文は a gun which〜 だな」と見当がつく。しかも、こういう文章は、最後まで読まないと男が引き出しから取りだしたものが何かわからないため、読んでいてストレスがたまってしまう。

おそらく、読者の多くは「それって翻訳の基本じゃん」と思うだろう。しかし、その基本がじつは非常にむずかしい。

翻訳家は誰しも、原文を読んでから訳文をつくる。当然、訳文をつくるまえに、文章の意味はすでに頭のなかに入っている。そのため、どうしても「つい原文に引っぱられる」「自分の書いた日本語の文章を客観的に読むことができない」という問題に直面することになる。

翻訳家がこの呪縛から逃れるのは、とてつもなくむずかしい。実際、翻訳小説を読んでいると、(1)や(2)に当たる文章は、思いかけないくらい結構な頻度で登場する。もちろん、わたしの訳した作品にも頻出しているはずだ。ここで怖いのは、「読者にはヘンだとすぐにわかっても、訳した当人にはなかなかわからない」ことなのである。

田村義進の翻訳がすごいのは、こうした「日本語として違和感のある文章」がほぼまったく見当たらないことだ。しかも、訳文から原文が透けて見えることはまずない。おそらく、この人の訳書を原書と照らし合わせていけば、すごく勉強になるだろう。とすれば……

田村義進の弟子に優秀な人材が多いのも、決して驚くには当たらない。


さて、その田村“訳文なめらかストレス・フリー”義進の最新訳書が、今回ご紹介する新人作家マシュー・クワークの『The 500』である。この作品、表紙デザインのリニューアル以来好調をつづけているハヤカワ・ミステリ(通称ポケミス)の一冊だが、いつものポケミス収録作品とはやや傾向が違い、新潮文庫とかで刊行されても違和感がないようなビジネス・サスペンス系のエンターテインメント。本国アメリカの書評ではグリシャムの『法律事務所』が引き合いに出されることが多いと聞けば、どんな作品かはおおよそ想像がつくと思う。

わたしがこの小説で面白かった点は三つある。

ひとつは、主人公の絶体絶命ぶりだ。本書にはプロローグがあって、そこでまず絶体絶命に陥った主人公の姿が描かれる。つづいて物語はそもそもの起点に立ち返り、そこから「絶体絶命」のクライマックスへと向かって進んでいく。要するに、読者は作品のラストに何が待ちうけているかを事前に知っているわけだ。

ところが、である。プロローグでさわりだけ描かれた主人公の絶体絶命状況というのが、物語を一から読んでいくと、これがもうマジで絶体絶命なのだ。○○は××だし、△△は※※で、□□は☆☆してくる。もう逃げ道なんてどこにもない。この状況を主人公がどう突破するか? このあたりのプロットの組み立て方には、新人作家とは思えない緻密さがある。

ふたつめは、その語り口である。

最近のミステリーは、クライトンやディーヴァーの作品のような「映画型」(もしくは「場面型」と呼ぶべきか)の小説が圧倒的に多い。これは、ひとつの章(もしくは、一行空きなどで区切られたひとかたまり)が、そのままひとつシーンになっているタイプの小説である。このタイプの書き方は、カットバックを使った強烈なサスペンスは演出しやすいが、一方で(場面の細かい部分まで書くことになるため)どうしても小説が長くなってしまう。

それに対し、本書は「叙述型」とでもいうべきタイプにあたる(ま、昔の小説はすべてこっちだったわけだが)。本書の2章目以降をパラパラめくって見ればわかるけれど、本書の前半にはセリフがほとんどない。これは、それぞれのシーンを細かく書かずに、何が起こってどうなったかを手際よく整理・圧縮して語っているためだ。このため、作品自体はコンパクト。それでいて長いスパンにわたる物語が展開し、小説自体にもコクがある。しかも、一人称の語りがじつになめらかで、読んでいて心地いい。このあたりは、ギシン節全開の感がある。

三つめは、著者の詐欺師ぶりである。

本書の主人公は詐欺師を父に持っており、自分も詐欺の基本に通じている。巨大な敵との戦いにおいて、この知識が大きな武器になる。一方で、著者のクワーク自身もかなりの詐欺師である。

本書はアメリカにおけるロビイスト活動の裏の裏を描いてみせるのだが、いわゆる情報小説ではない。実際には、ロビイスト活動に関する裏情報が満載されているわけではないのだ。ところが、この著者は情報の提示の仕方が抜群にうまい。要所要所で、揺るぎなき自信をこめて「ロビイストの世界はこんなふうになってるんだぜ」と極秘情報をちらつかせてみせる。そのため、読者は「この著者ってホント情報通だなぁ」と感心してしまう。

要するに、この作家は「説得力のある作品世界」を演出する手腕に長けているのだ。これはエンターテイメント作家にとって非常に重要な才能である。この才能があれば、どんな舞台・題材の小説でも巧みにこなせるはずだ。「次作はどんな小説を書いてくれるか楽しみである」というのは書評の決まり文句だけれど、この作家の場合にはほんとうに楽しみだ。


ということで、今回の偵察任務は終了である。先にも書いたが、わたしは田村翻訳作品を読むと、ついつい内容に没頭してしまう。今回の『The 500』でも、「翻訳テクニックを盗む」という目的を途中でうっかり忘れてしまった。これはイカン。じつに遺憾だ。

やっぱり、お金貯めてギシンに弟子入りするしかないのか?(←そりゃムリだって。年末にはビートルズのアナログBOXが出るんだぞ!!!!)

矢口 誠 (やぐち まこと)

1962年生まれ。翻訳家・特撮映画研究家。光文社「ジャーロ」にて海外ミステリの書評を3年間担当。主訳書は『レイ・ハリーハウゼン大全』(河出書房新社刊)。最新訳書はアダム・ファウアー『心理学的にありえない』(文藝春秋)。好きな色は赤。好きなタイプの女性は沢井桂子(←誰も訊いてねぇーよ)。

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