ネブラスカ州カーニーはアメリカの片田舎。名物とよべるのは渡りの途中に立ちよるカナダヅルの大群くらい。この町から巣立ったカリンは、いま必死に車を飛ばして故郷に帰ってきた。唯一の身内である弟のマークが交通事故にあったと聞いたからだ。都会での生活と仕事を投げうち、彼女は弟のリハビリに献身する。ところがようやく会話が可能なまでに回復したマークは、カリンのことを姉にそっくりな偽者だと言いはって認めない。事故の後遺症で、親しい人を似て非なる替え玉だと思いこむ精神疾患・カプグラ症候群を発症したのだ。

 直線的な田舎道での交通事故。現場に残された他の車のタイヤ痕。匿名の通報。そして大手術後、きびしく人払いされていたはずのマークの病床からは妙な筆跡の、詩のようなメッセージが書かれたメモが見つかる。はたしてマークはなにかに巻きこまれているのか、それともすべては偶然と妄想の産物なのか。

 ここまで読んで、リチャード・パワーズってアメリカ文学の人でしょ、ミステリも書くの? とけげんな顔をされた方もいるかもしれない。本書はミステリとして書かれたわけではないが、謎で物語をひっぱる構造はまぎれもなくミステリのそれだ。長年マークとつるんできた悪友たちの隠し事、やけに親切な看護助手、河川の開発計画……気になる要素は次々とでてきて、終盤ではフェアな解答が提示される。また、神経学と異様な心理を題材にしている点から、現代版ニューロティック・スリラーとして読むことも可能だ。

 正直にいって、ミステリ成分は600ページ超をつつむ薄皮にすぎない。皮はあくまでどっしりした餡をまとめるためのもの。中身は、人間の話だ。介護での悪戦苦闘、田舎とのきってもきれない関係、いつのまにか過ぎ去っていった時間などに対する登場人物たちの思いは、多くの読者にとっても身近だろう。だが本書が書くのは個人の心情や感傷にとどまらない。傷や薬が脳におよぼす効果で人間の認識はあっさり変わる。信仰も脳の化学反応にすぎない。ならばひょっとすると心は、そして自己同一性は、思ったほど確固としていないのではないか——マークの症例は周りの人間に(そして読者にも)ふだん意識することもないような疑問を投げかける。

 さて、日本の国内ミステリファンにとって脳と認識のふしぎは、夢野久作『ドグラ・マグラ』、00年代以降の島田荘司作品、最近では松本寛大『玻璃の家』等々からなじみ深い題材といってもいいだろう。本書にも神経科学のうんちくがたくさん盛りこまれており、衒学的な楽しみもある。なお、脳をめぐるパワーズの思弁は人工知能に英文学を教えて修士試験合格をめざす『ガラテイア2.2』でも堪能できる。

 マークに本人と認めてもらうべく、カリンが若いころの格好をしたり電話でコミュニケーションをとってみたりと実験するくだりは、探偵役が推理を踏みかためていく地道な過程にも似ている。知的な謎とおどろきに満ちた本書は、ふだん家族小説なんて読まないというあなたにもぜひ挑戦してもらいたい。

橋本 輝幸(はしもと てるゆき)

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1984年生まれ。ときどきレビューやリーディングをする人。ジャンルを越えて怪しい小説・異様な小説を探し回るのが趣味です。『S-Fマガジン』では毎月「世界SF情報」コーナーを担当中。

twitterアカウントは @biotit

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