毎日毎日本を読んで、何十年も生きてきて、本がなかったら生きていけないと云いながらも、多分死ぬことはないと心の中では思っているわけだけど、それでも自分は本を読むために生きている、生きるために読んでいると云い続けたい人にこそ読んでほしいのがこの『宙の地図』である。

 基本情報として、本書は『時の地図』の続編だとか、ウェルズ『宇宙戦争』にまつわる話で主人公はH・G・ウェルズなのだとか(本書では早川書房表記でウエルズなのだが、ここではウェルズ表記とするのは個人的に馴染んでいるだけで深い意味はない)、エドガー・アラン・ポーが重要な役割を演じるとか、そんなことから書き始めるべきなのだろうか。おそらく本欄の読者諸兄はもうそのくらいの情報はどこかで目にしているだろう。

 前作では『タイム・マシン』が全体の背景にあったが、今回は『宇宙戦争』、ということは『時の地図』に加えて、『タイム・マシン』や『宇宙戦争』、さらにはポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』まで読んでおかなければならないのかというと、多分そういうことだと思う。読まなくても楽しめるだろうし、そして本の売り上げのためにはそう断言すべきなのだろうが、あえて読むべきだと云っておきたい。本書のような作品は、過去の作品を読んでいれば読んでいるほど、物語を深く楽しめるようになるからだ。

 舞台が十九世紀なら語り口も古風である。語り手が不意に出てきて、この展開では話が終わってしまうからやり直そうなどと云い始めるのである。説明も長かったりする。主人公はウェルズだったはずなのに、読み始めて60ページもしたところで南極探検の話が始まって200ページ以上もウェルズは戻ってこない。それも最後にはすっきりと繋がってなるほどそういうことだったのかと納得できるようになっているのだが、たとえ解決されなくても全然構わないとすら思えるようになってしまうのがこの小説の楽しみだと思うのだ。『時の地図』のミステリ的な楽しみを予想していたら、本書は本格的なSFとなって、どこからどう見てもSFで火星人の侵略と人類の破滅、そして時間旅行なのだが、そんなことも読んでいるうちに些細なことのように思えてきた。読者は何もかも含めて物語を味わい飲み込み、この物語を生きればいいのである。本書は、物語によって生かされている人たちの物語であると同時に物語によって生かされている人たちへの物語であって、自分で夢を見られない人のために夢を紡ぐ人たちの物語なのだ。

 宙の地図とは、ロックが娘のために描いた宇宙の地図だった。娘から娘へと受け継がれ、幼い少女に夢と安らぎを与えてきた。気球に乗った宇宙旅行者、耳が尖って二股に分かれた尻尾のある宇宙人、キノコの形をした星雲や銀色の尾を引く彗星が描かれていた。月にユニコーンやビーバーや空を飛びまわるコウモリ人間がいるという話をでっちあげて全米を騙した男が、娘に贈った物語である。幼い少女たちはこの物語を夢見た。

 一度地球を救った英雄だったシャクルトン将軍は、死を目前とした男一人のために救出の物語を与えて美しい未来を与えることができた。「彼だけの特別な宙の地図を」与えることができた。

 元時間旅行社社長のギリアム・マリーは、愛するエマのためならどんな夢でも作りだそうとする。どんな手段を使ってでも。そして、命を懸けて何度でも夢と物語を差し出す。

 ウェルズは云う。「私は本によって生かされているんだ」と。そして、「だれしも夢は必要だ」と云い、作家は自分では夢を見られない人々に夢を見せることができるのだと断言する。

 なるほど、私たちも本によって生かされているのだ。「読書だけが私に喜びをくれる。まだ読んでいない本が世の中には山ほどある……それだけが私の生きる支えなん」というウェルズの科白を読めば、どうして本を読んで生きているのかが判る。そして、『宙の地図』のような小説に出会えば、それが私たちにとっての新たな宙の地図になるに違いない。そして、また新たな宙の地図に出会うために本を手に取るのだ。

 この本がどれくらい気に入ったかというと、もう今日からスペイン語を勉強して第三部が刊行されたときにすぐに読めるようにしておきたいと本気で思うくらいで、実際に昔買ったスペイン語の学習書を書棚から探し出してきて、-o/-as/-a/-amos/-〓is/-anなどと動詞の活用を覚えたりしてしまったほどなのだ。30年前と同じように、それだけで終わってしまったのだが、一時は本気でそう思ったくらい私はこの本を楽しみ、次作も楽しみにしているのである。もちろん邦訳で読みたいと願っている。

 ちょっと褒めすぎたかも知れない。

中野 善夫(なかの よしお)

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1963年生まれ。ファンタジイ研究家。一年ほど前に共訳書ハンフリー・カーペンター『インクリングズ』(河出書房新社)が出てからは翻訳がないのが寂しい今日この頃。

・日記サイト:手に取って読め

・twitterアカウント:@tolle_et_lege

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