第二十回『暗殺者』の巻

 みなさんこんにちは! まいど「冒険小説ラムネ」のお時間がやってまいりました。前回の『大洞窟』の回では、恐怖の「Mシーン」に関するたくさんの同意の声をいただき、たいへんうれしかったです。でもほんと、『大洞窟』はおもしろい小説ですのでぜひ読んでみてくださいね。

 さて、今回はロバート・ラドラム『暗殺者』です! まずはあらすじを……。

僕はいったい誰なんだ? 嵐の海から瀕死の重傷で救助された男は、いっさいの過去の記憶をなくしていた。残されたわずかな手掛かり——整形手術された顔、コンタクト・レンズ使用痕、頭髪の染色あと、そして身体に埋めこまれていた銀行の口座番号——は、彼を恐ろしい事実へと導いていく。自分の正体を知るための執拗な彼の努力は、彼の命を狙う者たちをも引き寄せることとなった……。(上巻のあらすじより)

 まずは、下巻にあった解説でなかなかおもしろいキャッチコピーが紹介されていたので引用したいと思います。

「ラドラムの作品には、ほかのミステリ作家6人が束になってもかなわないほどのスリルとサスペンスが詰め込まれている」

 ……なぜに6人? 中途半端だなぁ。そこは思いきって10人とか20人とか言っちゃいましょうよ! これだけおもしろいんだからOKですよ! ……というのが、解説まで読み終わったときの最初の感想でした。ものすっごく展開の速い映画みたいな作品です! おもしろかった〜。とにかくスリリングで、読者をぐいぐいひっぱっていく感じです。読み始めたら止まらないので、テスト前とか締め切り前とか確定申告前とかに読まないほうがいいと思います(笑)。

 あらすじを読んでおわかりかと思いますが、今回は「記憶喪失もの」です! まぁミステリ的によくある設定と言えばそうなんですが、このお話はそれに真正面から挑戦し、かつオリジナリティもあるのがとてもいいと思います。なぜなら、主人公は嵐の海から助け出され、一切の記憶を失っていましたが、その顔には整形痕があり、どうやら変装をなりわいとしていたらしいということがわかるからです。うーん、これはいい設定! たとえ記憶をなくしていたとしても、そのとき着ていた服や身体にある特徴などから、どんな人物かある程度推定できると思うのです。ほら、例が極端で恐縮ですけど、かの名探偵ホームズは見ただけで出身地とか当てちゃうじゃないですか。しかしこの主人公にはそれが通用しない。顔や髪の色だけでなく、コンタクト・レンズで目の色も自在に変えていたようなのです。過去を示す手がかりがまったくないわけで、それが主人公の記憶を探るというこの小説の核を成す魅力になっています。

 おまけにこの主人公——のちのち判明する名前はボーンと言います——が、とにかくハイスペック! 格闘は強いし、悪事に通じていて、他人を騙して大金をせしめるのも簡単。自分がどんな人間か、何ができるのかさっぱりわからないのに、なぜかさまざまなことができてしまう。これって怖いですよね〜。理由はわからないのに自然に悪い事ができちゃうというのは、すごく怖いと思います。「なんでこんなことができてしまうんだろう……いったい今までどんなことをして生きてきたんだ!?」とパニックになること間違いなし。それでも、ボーンは過去を探し続けるしかない。そして読者はちょっとずつあきらかになっていく能力や記憶の断片から、彼の正体を推理していきます。そこがとにかくおもしろい!

 この「記憶がないんだけど、いろいろなことができる」という設定の説得力がすごいんです。特に好きなのは、ボーンが自分の身体に埋まっていた銀行口座の件を調べるためにチューリヒに行こうとするときに起こす事件です。パスポートを偽造するためにお金が必要になるわけですが、とあるお金持ちの侯爵を脅迫して、莫大な金額を手に入れてしまう。他にも、自分の顔を知っているホテルマンをうまく誘導して名前を聞き出したりする手口がとにかく鮮やか! そういう細かい描写——演技力があり、自分をいつわることに慣れているという人物が説得力を持って描かれています。

 そう、この作品ってなんだか演劇的要素が強いなぁと思っていたんですよ。うまく言いにくいんですが、さっき述べたような演技シーンがけっこうあって、そこの描写にリアリティがあるんです。例えば、自分の正体の手がかりがとあるブティックにあるらしい! となったら、そこへ出かけていき、愛人の洋服を見繕うお金持ちのふりをして店員から情報を得たりします。それがかなり自然にできていて、「こういう要素(話し方とか、相手のとの呼吸の合わせ方)をおさえておけば、疑いを持たれない」という描写に説得力があるんですね。なんでかな〜と思っていたら、解説で著者がもともとは演劇畑の人間だったと知って腑に落ちました。俳優、声優、演出家、劇場主の経験があるそうな。そりゃ演技が得意な人間を書くのがうまいわけだわ……。ボーンはまるでカメレオンみたいだ、と作中で言われているんですが、そういうディティールの読みごたえがすばらしかったです。何か設定をつけるからには、やっぱりそれにリアリティがないといかんと思うのですよね。

 そう、あとヒロインがよかった! ヒロインのマリーはカナダ人の経済学者。けっこう気の強いキャリアウーマンという感じのひとで、ボーンとは最悪の出会いをはたします。なんと、ボーンはピンチに巻き込まれた際、彼女を人質にとってしまうんですね! が、ボーンがマリーを開放したあとで彼女がピンチに陥った瞬間に、さっそうと駆けつけるのです! そんでもって悪の手から助け出し、お約束どおり愛し合ってしまうふたり! 少女マンガか! 出会いが最悪だったからこそ盛り上がる恋ってやつか! それってどうなのよ! ……私は割とこういうお約束展開に反撥を覚えてしまうタイプなので、最初は盛大にツッコミを入れてしまいました。だってさぁ、いくら命を助けてもらったからって、最初に人質にとられて、殴られたりしてるんですよ? それがなんでなかったことにされているわけ? ってなもんですよ。が、マリーさんがあまりにもボーンを愛しているので、もういいや……という気分に。ボーンでさえ彼女の言っていることが信じられなくて「俺のことは気にしないで、さっさとカナダへ帰ったほうがいいよ」と言っているのに、「帰らないわ! あなたは私の命を救ってくれたのよ!」と、こうですからね(注・引用ではありません)。けっこう長い“いかに私があなたを信頼するようになったか”という説明も披露してくれて、それによって無理矢理納得させられてしまった感じです。この思い込みの強さがヒロイン力というものか……! おまけに彼女がボーンに言う言葉がすごいんですわ。

「あなたはかえる。わたしが王子様にしてあげるわ」(編集部注:下線部は本文テキストでは傍点)

 この台詞を読んだ瞬間に、「ボーンよ! お前はこのマリーさんにくっついていればなんとかなる! きっと記憶を取り戻してくれるはずだ!」と思いました。うーむ、強い女性キャラクターは好きなんですが、このマリーさんはなんかちょっと普通とは違っている気がしましたね! 

 はっ! なんだか冒険小説的なおもしろさをなにひとつ語っていない! でも正直、魅力が多すぎて大変なんですよ! 伝説的な凄腕の暗殺者がボーンを狙っていて次から次へとピンチが訪れるし、彼の正体も二転三転するし、アクションシーンも多くて息もつかせぬ展開って感じだし。とにかく作者の「読者を俺の手のひらで転がして楽しませてやるぜ」的気概を感じる作品でした。こんな感想よりは作品を手にとったほうが手っ取り早く魅力を知ることができると思いますので、未読の方はぜひ。やめられない、とまらない、とにかくサクサク読めるいい本でした!

【北上次郎のひとこと】

 この『暗殺者』が面白いからといって、ほかの作品を手に取るとたぶんがっかりするだろう。ラドラムは傑作の少ない作家なので、運良くそういう傑作に当たればいいが、外れを引く可能性のほうが多い。ラドラムの傑作は『暗殺者』以外に、『ホルクロフトの盟約』『マタレーズ暗殺集団』のみ。この3作は素晴らしいが、あとは残念ながら「張りぼての陰謀話+大ボラ話」に終始している。

東京創元社S

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入社4年目の小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。2匹のフェレット飼いです。花粉症がつらい今日このごろです。TwitterID:@little_hs

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