はじめまして。松川良宏と申します。普段は自分のサイトで非英語圏のミステリーの歴史を紹介したり、日本のミステリーの海外出版情報をまとめたりしています。今月からこちらで非英語圏のミステリー賞について連載させていただくことになりました。2月末に再掲された「海外ミステリー賞あ・ら・かると」 にならって、国や地域ごとに主なミステリー賞を紹介していく予定です。

 初回はまず、「言語の壁を越えて、世界中のミステリー小説の年間最優秀作を決定する賞がかつて計画されたことがある」ということに触れつつ、スペイン語圏のミステリー賞を紹介します。

◆ハメット賞

 スペイン北部のヒホンで毎年初夏に、ミステリーの祭典《セマナ・ネグラ》(Semana Negra http://www.semananegra.org/ )が開催されている。直訳すると「黒い週間」だが、「黒」には「ミステリー」の意味もあるので「ミステリー週間」とも訳せる。「ヒホン・ノワール週間」と訳される場合もある。このミステリー祭で、スペイン語で書かれたミステリー小説の年間最優秀作に授与されるのが「ハメット賞」(Premio Hammett)である。スペイン語はスペインのみならず、ブラジルを除く中南米のほぼ全域で使われているので、もちろんそれらの地域の作品も対象になる。日本では普通ハメット賞といえば、米国およびカナダの英語作品を対象とするハメット賞(国際推理作家協会北米支部 http://www.crimewritersna.org/ 主催)を指すので、ここでは《セマナ・ネグラ》のハメット賞のことを仮に「スペイン語ハメット賞」と呼ぶことにしよう。なお、「ダシール・ハメット国際推理小説賞」と呼ばれることもある。

◆スペイン語ハメット賞の受賞作

 スペイン語ハメット賞の受賞作は2作が邦訳されている。ホセ・ラトゥールの『追放者』(2003年受賞)とホルヘ・フランコの『ロサリオの鋏』(2000年受賞)である。『追放者』の邦訳書には受賞の旨が記載されていないがそれは仕方がない。この作品がスペイン語ハメット賞を受賞したのは邦訳書の出版の2年後だからである。その事情を説明すると——、ホセ・ラトゥールはキューバのミステリー作家で、もちろんスペイン語で作品を発表していたが、1999年に初めて自ら英語で書いた『Outcast』を発表。この作品はアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀ペーパーバック賞とアンソニー賞最優秀ペーパーバック賞にノミネートされ、2001年に邦訳『追放者』が出た。その後2002年に、ホセ・ラトゥールはこの作品のスペイン語版『Mundos sucios』を発表。それが翌2003年にスペイン語ハメット賞を受賞したのである。「キューバン・ノワールの先駆者」とも呼ばれるホセ・ラトゥールの邦訳はほかに『ハバナ・ミッドナイト』がある。

 ホルヘ・フランコの『ロサリオの鋏』がスペイン語ハメット賞の受賞作だということもあまり知られていないと思うが、これも仕方がない。邦訳書の著者紹介ではハメットではなく、スペインの「ハムレット国際小説賞」と誤記されてしまっているのである。ホルヘ・フランコは第二のガルシア=マルケスとも呼ばれるコロンビアの作家で、邦訳はほかに昨夏に出た『パライソ・トラベル』がある。

◆その他の受賞作家

 スペイン語ハメット賞受賞者のうち日本で紹介されている作家はほかに4人いる。邦訳書のタイトルとともに挙げると、『三つの迷宮』、『影のドミノ・ゲーム』のパコ・イグナシオ・タイボ二世(メキシコ)、『バイク・ガールと野郎ども』のダニエル・チャヴァリア(ウルグアイ、キューバ)、『アディオス、ヘミングウェイ』のレオナルド・パドゥーラ(キューバ)、『イデアの洞窟』のホセ・カルロス・ソモサ(スペイン)である。このうちパコ・イグナシオ・タイボ二世はスペイン語ハメット賞を3度、レオナルド・パドゥーラは2度受賞している。

◆2つの「ハメット賞」の関係

 ところで、先ほどスペイン語圏のハメット賞と北米のハメット賞が紛らわしいと書いたが、それもそのはず。実はこの2つの賞、もともとは同じものだったのである。かつて、世界中のミステリー小説から年間最優秀作を毎年選出するという壮大な賞の計画が立てられたことがあった。その賞の名は「ハメット賞」。1986年に創設された国際推理作家協会(AIEP アイープ、またはIACW)が当初構想していた賞である。日本の戸川昌子を含む17か国のミステリー作家が参加した1987年6月の第1回理事会(ソ連・ヤルタ)では、功労賞がジョルジュ・シムノンに授与されることが決まったほか、最優秀長編賞であるハメット賞やノンフィクション賞のロドルフォ・ウォルシュ賞の候補についての話し合いがなされた。ハメット賞の受賞作は同年10月のフランクフルト国際ブックフェアで発表されることになったが、続報を見つけることができず、結局受賞作が決まったのかは分からない。

 その翌年、国際推理作家協会設立の中心人物の一人だったパコ・イグナシオ・タイボ二世が自身の出身地であるスペインのヒホンでミステリー祭《セマナ・ネグラ》を開催。英米のミステリー作家も多数招待し、同時に国際推理作家協会の理事会も開いた。これ以降、《セマナ・ネグラ》は毎年続く行事となっている。そして、世界中の作品を対象とするという当初のハメット賞の構想は結局実現しなかったようだが、この第1回《セマナ・ネグラ》から、スペイン語圏の最優秀作に対してスペイン語ハメット賞が毎年授与されているのである。その後、国際推理作家協会の北米支部は1992年から独自に北米の英語作品を対象とするハメット賞の授与を開始。いわばこれらは、当初構想されていたハメット賞の地区予選のようなものなのである。もっとも、「地区予選」を勝ち抜いた作品で本選が実施される日が今後来るのかは分からない。

◆シルベリオ・カニャーダ記念賞

 《セマナ・ネグラ》で授与されるミステリー賞にはほかに、最優秀処女長編賞であるシルベリオ・カニャーダ記念賞(Premio Memorial Silverio Cañada)もある。もちろん対象はスペイン語作品。ミステリー小説その他の編集者として活躍したスペインのシルベリオ・カニャーダ(1938-2002)の没後、その業績を記念して2002年から授与されるようになった。『「アルゼンチン・ノワール」の旗手による異色作』との売り文句で紹介された『ブエノスアイレス食堂』の作者のカルロス・バルマセーダは2003年にこの賞を受賞している。

 なお、当初ミステリーの祭典として始まった《セマナ・ネグラ》は現在ではミステリー以外にSF小説や歴史小説などを含む各種のジャンル小説の祭典となっていて、SF小説を対象とするセルシウス賞や歴史小説を対象とするスパルタクス賞も授与されている。

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワ ミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。「××(国・地域名)に推理小説はない」、という類の迷信を一つずつ消していくのが当面の目標。

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