第3回 存在自体が黒

 1975年生まれというから、まだ30代の若い書き手だ。サンティアーゴ・ロンカリオーロと、とりあえずは表記しておこう。Santiago Roncaglioloという綴りなので「ロンカグリオーロ」と「グ」を書く人もいる。オンビキ(「ー」)があったりなかったりするのは、今はどうでもいいこと。綴り字から見るにイタリア系だが、スペイン語とイタリア語の発音体系は違うから、-gl-の二重子音をイタリア語のように発音するとは限らない、gの音も書いてしまえ、ということなのかもしれない。しかし、子音単独で発されるgなど、あってなきがごときもの。イタリア語の発音であったとしても-gli-を「リ」と書くのは少し違うような気もするが、なに、Cagliostroが「カリオストロ」だ。それに、ペルーの現オジャンタ・ウマーラ政権下で外務大臣を務める父親は「ラファエル・ロンカリオロ」の表記で定着した観がある。本人たちの発音を聞いても、「ロンカリオーロ」の表記がいちばんしっくりくるようだ。だからぼくはサンティアーゴ・ロンカリオーロと表記することにする。

 そのサンティアーゴ・ロンカリオーロ、若いうちから小説を発表しているし、『恥辱』Pudor(2004)は映画化もされた。2006年には出版社の主催する懸賞形式の文学賞アルファグワラ賞を受賞、受賞作『赤い四月』Abril rojo(Madrid, Santillana, 2006)はその年のベストセラーにもなった。2011年には同作品は、イギリスの『インディペンデント』紙ベスト外国フィクション賞を得た。同じくイギリスの文芸雑誌『グランタ』を始めあらゆるところで将来を嘱望される作家とみなされ、順風満帆だ。

 ……が、なぜなんだろう、悪し様に言う人もいる。やっかみだろうか? 

 本人が「連続殺人もののスリラーを書きたかった」と言って位置づけた『赤い四月』は、確かに、連続殺人を扱った小説だ。主人公は地方准検事フェリックス・チャカルタナ=サルディーバル。リマから故郷アヤクーチョに、死んだ母親とともにいたいからと、自ら望んで転任してきた。離婚歴があり、野心に乏しく、臆病、官僚的、真面目で愚直、要するにヒーロー然たるところのいささかもない、さえない役人だ。

 そんなチャカルタナがある日、身元不明の右腕のない焼死体の事件を担当することになった。報告書を作成するために検視報告が必要で、監察医に出向いたところから疑惑が頭をもたげてくる。一帯の事件はどれも軍が独占的に処理しているとかで、非協力的なのだ。軍司令部に行くと、ブリセーニョ判事に保身を示唆され、センデロ・ルミノソの犯行の可能性をほのめかすとカリオン司令官から恫喝される。80年代に盛んに活動していたセンデロは、フジモリ時代に一掃され、もうテロ活動などこの国には存在しないのだというのが、軍の見解だ。

 納得の行かないチャカルタナは、焼け焦げた死体という点に注目して教会を訪ね、司教のキロス神父から手がかりになりそうな情報を得る。ところがそれが凄惨な連続殺人の始まりなのだった。

 一方、チャカルタナは行きつけのレストラン〈エル・ワマンギーノ〉のウエイトレス、エディットに思いを寄せ、どうにか仲良くなろうとしている。とっておきの場所に招き、かなり親密になりもする。「とっておきの場所」とは、母親の寝室のこと。母は死んでいるのだが、チャカルタナはまるでまだ生きているかのように、彼女の寝室をそのままに取ってあるのだった。そんな場所で、母の衣装に話しかけるチャカルタナの異様な行動を受け入れるエディットとは、うまくやっていけそうな気がするのだった。

 ところが、殺人が2つ3つと発生し(手がかりと思われた男、捜査にかかわった警官、キロス神父……)、事件を追っていくうちに、チャカルタナはこの連続殺人がセンデロ・ルミノソの残党による報復行為だとの確信を得ていき、同時に、エディットの背後に事件の関係者がいると突きとめていく。ついにはチャカルタナは彼女に詰め寄り、銃口すら向けるにいたる。

 結局、エディットを捕まえることも殺すこともできなかったチャカルタナは、次には軍上層部、カリオン司令官らの事件への関与を疑うようになる。

 謎解きのミステリーではないので少し踏み込んで紹介したけれども、死体の凄惨さ、フジモリの後ろ盾を得て強化された軍部との軋轢、チャカルタナのマザコンぶりなどがうまい具合にリズムを作って読者を惹きつける小説だ。

 発想が連続殺人のスリラーなのだ。そもそもが映画的だ。加えて、第一のクライマックスが4月の聖週間のお祭りを背景に展開されるという細部のつくりなどにも、映画的な想像力が駆使されていると言っていい。事実、デヴィッド・フィンチャーの『セブン』(アメリカ、1995)が想起されるとの評も多く見られる。チャカルタナがキロス神父の死体を発見する次の描写などは、ぼくには『セブン』よりも、たとえばジョナサン・デミ『羊たちの沈黙』(アメリカ、1991)を思い出させた。

光がまばたきをやめ、はっきりと見えるようになった。人間の肉体、というよりも、現実には半身が、竈から外に突きでていた。キロス神父の半身だ。まだミサの典礼服を着ていた。袖をまくった腕を広げ、十字の形を作っている。こみ上げてくるものをこらえながら、検事は近づいてみた。司祭の口からは何かが出ていた。硬くてとても長い舌みたいだった。近くに行ってみると、検事はそれがナイフの柄であることがわかった。残りの部分は口の中から喉を突っ切りうなじに達しているのだった。口から流れ出る血は、まだ凝固してもいない。地下室の湿った床にポタポタと落ち続けていて、竈の縁に血だまりを作っていた。殺されて時間は経っていない。ポタポタと垂れているのは血だけではなかった。死刑執行の前か後に、殺人犯は司祭の顔と腕に硫酸をぶちまけていた。開いたビンがまだ横に置いてあった。硫酸のかけられた場所は噛まれたようなぎざぎざにされたような形だ。皺のようなひっかき傷のようなもののある皮膚が、噛み終えたガムのようになっている。竈の中を覗いてみると、脚と胴体が切り離されているのがわかり、検事は動揺し、後ずさった。神父の顔は、地下室の天井を見ずして向いている。きっと空を見つめているのだ。しかし彼にとっての空は、地面の下に沈んでいるのだ。

 ひどく凄惨な殺人現場だ。広げた腕で「十字の形を作っている」というところが、『羊たちの沈黙』のレクター博士が脱獄するときに残していった死体を思わせはしまいか? ロンカリオーロの想像力の源泉は、このように、映画にある。

 一方で、ペルーの地方でのセンデロ・ルミノソが関与しているらしい殺人を扱っているということで、同じテーマを扱ったいくつかの先行する文学作品と引き比べられてもいるようだ。特に重要なのは、マリオ・バルガス=リョサ『アンデスのリトゥーマ』(木村榮一訳、岩波書店、2013)だ。

 思うにバルガス=リョサは、相当に暗黒な小説の書き手でもある。いや、こんな言い方がこのノーベル賞作家に対して不当だというのなら、こうも言える。多彩多様な作品(『継母礼賛』〔西村英一郎訳、中公文庫、2012〕のような官能小説まで)を書いてキャリアを積み重ねてきたマリオ・バルガス=リョサは、暗黒小説においても優れた業績を残している。『アンデスのリトゥーマ』のタイトルに言及されるリトゥーマは、『緑の家』(上下巻、木村榮一訳、岩波文庫、2010)の登場人物にして、その後『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』(鼓直訳、現代企画室、1992)にも登場しているが、その時、彼の行く先には、タイトルが示唆するように、殺人事件があったのだった。そもそも最初の長編『都会と犬ども』(杉山晃訳、新潮社、2010)は、レオンシオ・プラード学院という士官学校での一生徒の殺人が問題になっていた。

 とりわけバルガス=リョサで暗黒の度合いがすごいのが、『チボの狂宴』(八重樫克彦、八重樫由貴子訳、作品社、2011)だ。ドミニカ共和国の独裁者ラファエル・レオニダス・トゥルヒーリョの暗殺を扱ったこの歴史小説では、暗殺犯に対するその後の政府による拷問の描写が、実にショッキングだ。電気椅子に糞便責め、「眠らせないよう両まぶたは絆創膏で眉毛の辺りにに留められ」、やがてその絆創膏が剥がされたかと思うと、まぶたを縫い合わされ、去勢され(「ナイフではなくハサミで睾丸を切り取られる」)、これ以上電気ショックにも耐えられないまでに体力が落ちたところで、自然死させないためにとどめをさされる。「喜びに満たされながら、ホセ・レネ・ロマン将軍はとどめの一発を感じた」と殺される側の視点から描いているところが、いかにも残酷だ。バルガス=リョサはかなりの暗黒作家なのだった。

 そんな自国の大先輩にして暗黒小説においても大先輩と言っていいノーベル賞作家の作品『アンデスのリトゥーマ』と比べられ、若きロンカリオーロは「扱っている時代が違うのだ」と述べている。時代が違えば事件の質も違う。まったく同じ問題を扱っているのではない、ということか?

 一方でバルガス=リョサは自身の作品に関して、ギリシヤ神話をモチーフとしていると説明しているようだ。木村榮一の「訳者あとがき」に紹介されている。ギリシヤ神話とスリラー映画、想像力の源泉の違い。それが本当は2作のいちばん大きな違いではなかろうか。「時代の違い」などではなく。そして、過去の文学作品、とりわけギリシヤ神話などにモチーフを借りるのは、伝統的に言えば、文学的な「円熟」のはず。「時代の違い」というよりは「キャリアの違い」なのかもしれない、ロンカリオーロとバルガス=リョサを隔てるものは。

 しかしもちろん、みんなが皆、ギリシヤ神話に遡る必要はない。源泉がスリラー映画でも、何の問題はない。何しろぼくら読者はアリアドネーの話よりはフィンチャーの映画の方に親しんでいるはずなのだから。

 さて、ともかくこのスリラー小説『赤い四月』で文名を確立したロンカリオーロ、その後も精力的に執筆している。『生からこんなに近く』Tan cerca de la vida (2010)では日本を扱っているらしい。ぼくはまだ未読だけれども、手もとに届いたら読んでみよう。ごく最近の『オスカルと女たち』Óscar y las mujeres (2013) も楽しみだ。

 一方で、『ある貴婦人の思い出』Memorias de una dama(2009)は、プエルトリコで発売中止、自主回収される騒ぎを引き起こした。どうやら登場人物のモデルの家族の圧力によるものらしいが、詳細はわからない。わかることは、どうもこの作家、こうしたスキャンダルのもとになりそうな題材が好きなようだということ。2012年の『ウルグワイの恋人』El amante uruguayoは、フェデリコ・ガルシア=ロルカが1933-34年、アルゼンチンを訪問した際、関係を持ったと思われるウルグワイの詩人エンリケ・アモリンとその周辺の詩人たち(ボルヘスやネルーダ)についてのドキュメンタリーだ。ロルカの同性愛は今では誰もが知るところだが、彼とラ・プラタ河両岸で関係を持った人物が、その前にはやはりスペインから招かれてきた人気劇作家ハシント・ベナベンテとも関係を持ったなど、なかなかにスキャンダラスな内容だ。

 どうやらロンカリオーロはスキャンダラスな題材を求め、自らスキャンダルを巻き起こす作家と言えそうだ。存在自体が充分にノワールなのだ。彼のことを「悪し様に言う人もいる」と紹介したけれども、その理由の一端は、彼がそんな人物だからなのかもしれない。

 しかし、自身がノワールなノワール作家を嫌う理由なんかどこにもない。逆に、そんな人だからこそ魅力的なのじゃないか? 騒擾などと無関係に静かに暮らしていたいと思うぼくなどは、逆に、そんな黒さに惹かれる……と思う……

柳原 孝敦(やなぎはら たかあつ)1963年鹿児島県奄美市出身。スペイン語文学翻訳家。おもな訳書:カルペンティエール『春の祭典』、ボラーニョ『野生の探偵たち』(共訳)、バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、アイラ『わたしの物語』

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