アン・ペリーのモンク・シリーズ、今回はシリーズ8作目の《The Silent Cry》(1997)です。

おもな登場人物

ウィリアム・モンク:私立探偵。元警察官。捜査中の事故で記憶を失っている。

ヘスター・ラターリィ:上流出身だが看護婦として身を立てている。ナイチンゲールの下、クリミア戦争で従軍看護婦として働いた。

オリヴァー・ラスボーン:ロンドンの敏腕弁護士。

ジョン・エヴァン:首都警察の巡査部長。モンクの元部下。

ランコーン:首都警察の警視でモンクの元上司。モンクとは憎み合っている。

 警察官時代のモンクの部下、ジョン・エヴァンを覚えていますか? エヴァンは地方の牧師の息子で、都会で警察官として働いています。上流階級とは比較にならないものの、さほど不自由なく育ったせいか、物腰が柔らかく、人あたりもよく、どことなく上品で、自分を飾ることのない好青年です。モンクはそんなエヴァンの存在にいつも助けられ、警察を辞めたあとも、彼との関係を大切にしています。

 本作は、エヴァンが殺人現場に呼ばれる場面から始まります。ロンドンの貧民地区セント・ジャイルズで、男がふたり死んでいるとの報せを受け、同僚のショットと駆けつけます。ひとりは絶命していましたが、もうひとりが虫の息ながらまだ生きており、急ぎ病院へと運ばれます。着衣から、落命した中年男性がレイトン・ダフ、かろうじて生き残った青年が、ライズ・ダフと判明。エブリー・ストリートに居を構える、上流家庭の父子でした。ふたりは徹底的に殴られ、蹴られており、ライズに至ってはショックのあまり、声が出せなくなっていました。両手もひどく骨折しているので、ペンを持つこともできません。しかも事件のことを尋ねようとすると、呼吸さえできなくなるほどの、ひどいヒステリー症状に見舞われてしまうのです。

 そんなライズを支えるために、偶然にもヘスターがダフ家に雇われます。いつもなら喜んでエヴァンに力を貸す彼女ですが、ライズの体調を慮ると、それもできません。

 エヴァンはショットとともに、セント・ジャイルズでの聞きこみを始めます。ですが、貧民街の住民は、警察にはなにも話しません。どこで自分の首を絞めることになるか、わからないからです。それでもショットはセント・ジャイルズ出身とあって、少しずつ住民たちから話を聞きだします。一方エヴァンはというと、なかなかうまくいきません。上品で穏やかな性格は、上流階級相手の捜査では役立つ場合が多いのですが、貧民街では通用しないのです。「モンクさんだったらどうするだろう」「もっと的確な質問をするのでは」「中途半端な同情心で、追及の手を緩めたりはしないはず」と、悩み苦しみながら必死に捜査を進めます。

 そのころモンクは、セブン・ダイアルズで起きた、連続娼婦強姦事件を捜査していました。捜査を依頼してきたのは、その地で小さな工場を営む、ヴィダ・ホープグッドという女性。彼女の話によると、このところ娼婦の強姦が相次いでいる、しかもだんだんと暴行がエスカレートしていて、最近では瀕死の状態まで殴られ、蹴られている、というのです。セックスを売り物にする娼婦が強姦されたといっても、警察が動くわけがありません。そこでヴィダは、警察を去ったモンクに捜査を依頼してきたのでした。モンクは正義感から、この仕事を引き受けます。また、このヴィダが明らかに、事故で記憶を失う前の自分を知っている風情なのです。

 モンクが貧民街で捜査をするうちにわかってきたのは、そこの人々が事故前の彼をよく知っているということでした。そしてモンク自身もまた、この地で大きな手入れをした過去を思い出します。それも、宿敵ランコーンとともに。自分たちのあいだには、確かに信頼関係があったのに、なぜ、いまは憎みあっているのだろう? モンクは犯人探しと過去の自分探しに取り組みます。

 エヴァンとモンクのふたつの事件は次第に重なりあい、警察はとうとうライズ逮捕に動きます。娼婦たちは例外なく、二人か三人の男たちに襲われていました。そして、ライズとその友人キナストン兄弟が、かの地で数回、目撃されていたのです。息子の悪事に気づいた父親が、ライズのあとを追い、いさめるうちに喧嘩となり、父は死亡、息子も重傷を負った——そうした見方を裏打ちする状況証拠がそろったのでした。

 ヘスターはライズに尋ねます。あなたが父親を殺したのかと。ライズは首を横に振ります。では誰が父親を、そして貴方を襲ったのか、それはわかっているのかと尋ねると、ライズは答えようとしません。きっとなにか理由があるはず——ヘスターはラスボーンにライズの弁護を依頼します。

 本作ではついに、ランコーンとモンクの確執の理由が明らかにされます。モンクの過去については、これまで何度か語られはするのですが、ほとんどが断片的で、はっきりしないのですよね。でも今回は、きっちりケリがつきますよ!

 そしてヘスターとラスボーンは、いつのまにやら一緒に食事に行って舞台を観るような、帰り際には軽〜くキスもしちゃうような、そんな間柄になっています。捜査でダフ家を訪ねたエヴァンが、デートから戻ったばかりのヘスターからにじみ出る女らしさに気づき、「ヘスターさんってこんなにきれいだったっけ? モンクさんは気がついているのかな? いつも喧嘩ばかりしているけど」と不思議がるほどに。そう、モンクとは本作でも、相変わらず喧嘩ばっかりなのですよね・・・・・・。

 個人的に、強く印象に残ったのは、貧民街セント・ジャイルズ、セブン・ダイアルズでの、人々の暮らしぶりです。『イギリスにおける労働者階級の状態』(フリードリヒ・エンゲルス著)に記されたとおり、どん底の、そのまた底の生活です。モンクが被害者の娼婦たちに聞きこみをしてまわるのですが、そのひとりひとりのあり方を、アン・ペリーは実に丹念に描いています。こういう点が、一部の読者に「長い」「くどい」「展開が遅い」と言われてしまう一因なのだろうとは思うのですが、アン・ペリーの小説を読む楽しみとは、こうした描写をもじっくりと味わって、当時のロンドンにあたかも身を置くかのような、そんな感覚を堪能する点にもあるのではないでしょうか。モンクと一緒に一月のセント・ジャイルズで冷たい雨と風に凍え、臭気に耐え、人々の悲惨な暮らしぶりに胸を痛め、街頭商人から買った紅茶で指先をあたため、パリパリの外皮につつまれたパンと瑞々しいレタスと厚いハムのサンドウィッチで腹ごしらえをする・・・・・・いかがですか? 

 貧民街が舞台とあって、登場人物たちの会話にはコックニーが満載。スタンダードに置きかえながら読むのはたいへんでしたが、いい勉強になりました! シリーズは順調に書き進められており、今年出版された最新作《Blind Justice》では、ラスボーンはついに判事に。そして年末恒例のクリスマスストーリーには、ヘスターが登場するもよう。最新作のレビューまでは、まだまだ遠い道のりですが、この先もどうぞお楽しみに!

遠藤裕子 (えんどうゆうこ)

出版翻訳者。建築、美術、インテリア、料理、ハワイ音楽まわりの翻訳を手がける。ヨーロッパ19世紀末の文学と芸術、とくに英国ヴィクトリア朝の作品が大好物。趣味はウクレレとスラック・キー・ギター。縁あってただいま文芸翻訳修行中。

◆当サイト掲載書評 出るのよ待望のシリーズ3作目が!——『護りと裏切り』(執筆者・遠藤裕子)

◆当サイト掲載! 遠藤裕子さんによるアン・ペリー作品紹介の一覧◆

2012-09-25 第三十三回はアン・ペリーの巻(その5)

2012-01-19 第二十五回はアン・ペリーの巻(その4)

2011-09-13 第二十回はアン・ペリーの巻(その3)

2010-10-19 第十回はアン・ペリーの巻(その2)

2010-01-28 第三回はアン・ペリーの巻

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