リチャード・パワーズの新作『幸福の遺伝子』は、そのストレートなタイトルからもわかるとおり、「幸福」と「遺伝子」にまつわる物語です。

 作家を志しながら挫折し、いまは小さな雑誌の仕事のかたわら大学で創作クラスを担当する主人公。彼のクラスにアルジェリア人の学生が参加してくるところから物語は幕を開けます。すぐにクラスの全員が彼女の特殊な能力に気が付きます。即興でついたニックネームは「ミス・包容力(ジェネロシティ)」。彼女の包容力は、主人公やクラスメートに感染するように徐々にその影響力を強めていきます。そして、ある事件をきっかけに彼女の能力はマスコミや遺伝子研究者の知るところとなり、事態は全国的な騒動へと発展していきます。果たして彼女の「包容力」は幸福の遺伝子によるものなのでしょうか……。

 わたしはマックス・バリー『機械男』を読んだ直後に本書を手にしましたが、語り口こそ正反対といっていい両作品ながら、そこに通底するものを強く感じました。それは、科学(とくに工学)が人間像をラディカルに書き換えていく時代における、文学からの応答というテーマです。

『機械男』で作者マックス・バリーは、驀進する列車のイメージにそのテーマを託し、最高速度(マックス・スピード!)で工学と文学を衝突させてみせました。一方、パワーズは本書において、いかにも彼らしい繊細な手つきで虚構/非虚構/現実を折り畳み、そのテーマを多層的なメタフィクションに仕立ててくれたようです。

 文学から科学への応答などと聞くと「それはSF?」と敬遠される方もいらっしゃるかもしれません。たしかに『幸福の遺伝子』は、2010年度のアーサー・C・クラーク賞の最終候補まで残ったそうですが(同年の受賞作がチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』、翌年の受賞作がローレン・ビュークスの『ズー・シティ』です)、いわゆるSFらしいSFとは少し趣が異なります。等身大のアメリカ人たちが苦悩する現代小説といったほうが、この小説のテイストをうまく表現できるでしょう。

 パワーズは、これまでも『ガラテイア2.2』において人工知能を、『エコー・メイカー』において脳科学をテーマに作品を書いてきましたが、いずれもSFというジャンルには括れない作品に仕上げています。そして今回のテーマは遺伝子工学です。人工知能、脳科学、遺伝子工学、いずれも「人間とは何か?」という主題と近接する科学領域といえるでしょう。パワーズは、「人間とは何か?」という本来は人文科学の得意分野に侵出しつつある科学に対して、文学から真剣に応答を返している作家ということができるのかもしれません。

 せっかく本書を推薦する貴重な機会をいただきましたので、ここで少しだけ、本書のもつ多層構造と、その構造を用いてパワーズがどのように遺伝子工学に応答したかについて、わたしなりの解読を紹介したいと思います。

 はじめに、「あらすじ」で紹介した物語の本筋にあたる層があります。ここは登場人物たちが生息する世界で、仮に虚構の層と呼ぶことにしましょう。この層において遺伝子工学は、いずれ文学や心理学といった人文科学を駆逐してしまう怪物のように描かれています。登場人物たちは、物語のなかで工学(とそのハイプ)の暴力に振り回され、ねじ伏せられます。

 つぎに、この虚構の層にレイヤーのように重なってみえる第二の層があります。登場人物の生みの親と思われる作家の「私」が顔を出す層で、ここを非虚構の層と呼ぶことにしましょう。この層は虚構の層と比べると幽かな層ですが、とても重要な意味をもっています。この層で作家の「私」は、自分が生み出したはずの登場人物の行動にしばしば意表を衝かれます。この不協和は、どんな意味をもっているのでしょうか。作家が登場人物をデザインする作業を「遺伝子工学」と重ねてみると、この層におけるメッセージが解読できそうです。この層において、遺伝子は無力ではありません。しかし同時に、人の運命を自由に操るような魔力も持っていません。

 最後に、この二つの層を包み込むところに第三の層があります。本書とそれを読んでいる読者であるわたしたちが存在する現実の層です。この層において、わたしは遺伝子工学と文学が劇的な和解を果たしたように感じます。パワーズは「書き込まれた情報/読み取られる情報」というメカニズムのレベルにまで両者を分解することで、遺伝子工学と文学の葛藤をきれいに消し去り、魔法のように一つにしてしまいました。パワーズによるポストゲノム時代の文学。そこに登場するのは恐ろしい怪物ではなく、わたしたちが慣れ親しんだ一冊の本、読まれるのを待つ一冊の本としての人間像なのではないでしょうか。

 遺伝子が読まれるのを待つ一冊の本にたとえられるなら、一冊の本もまた解読を待つ遺伝子にたとえられます。すべての読者は、その情報を解読し、それらをたんぱく質ならぬ自分自身の実人生に織り上げていくことができるはずです。そこには、きっと無数のバリエーションが存在するでしょう。あらゆる誤読も世界の多様性に貢献するでしょう。

 そんなふうに思える「包容力」こそが、本書『幸福の遺伝子』の魅力です。ぜひ手に取って、皆さんの解読のバリエーションを生み出してください。

内田 桃人(うちだ ももと)

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1973年生まれ。通勤電車で本を読むことを楽しみにしています。好きな作家は、スティーヴン・キング、ジェイムズ・エルロイ、J.G.バラード、ジェフリー・ディーヴァーなど。円卓会議という読書会に参加させていただき、読書の楽しみ方がさらに広がりました。Twitterでのアカウントは @momoto_u

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