ジーン・ティアニー、ダナ・アンドリュース主演で、オットー・プレミンジャーの初監督作品にあたる「ローラ殺人事件」(1944年)は、フィルム・ノワールの名作として高い評価を受けている。その大きな要因は、主題曲「ローラ(Laura)」のあまりに美しいメロディにあるのではないだろうか。映画音楽を数多く手がけた作曲家デイヴィッド・ラクシンのペンによるもので、その後、人気作詞作曲家ジョニー・マーサーが歌詞をつけ、フランク・シナトラ、ビリー・エクスタイン、ジュリー・ロンドン、ジョニー・マティスらの歌唱で人気を博し、ポピュラー・スタンダード曲となった。

 物語冒頭から、銃撃による惨殺死体として発見される女性コピーライターの名が、ローラである。この殺人事件を担当することになる刑事は、すでにこの世にいないローラの周辺を調べていくうちに、徐々にこの「幻の女」に惹かれていってしまう……という、これまた特異な設定の「ファム・ファタール(運命の女)」ものと言っていいだろう。そのなんとも儚い想いと重ね合わされるように、ラクシンの蠱惑的かつ清冽な旋律が映画に彩りを添えているのだ。

 原作は、ヴェラ・キャスパリ『ローラ殺人事件』(1942年)。彼女は1930年代に普通小説を数作発表した後、「六月十三日の夜(Kreuzer Emden)」(1932年)などの映画のシナリオ・ライターとして活躍していたが、このミステリー処女作がいきなり高評を仰ぐこととなったという。著作は多数あるが、邦訳紹介されているのは『エヴィー』Evvie、1960年)、『愛と疑惑の間に』The Man Who Loved His Wife、1966年)のみのようだ。

『ローラ殺人事件』では、ローラというヒロイン、マックファーソン刑事もさることながら、ほかの登場人物すべてが魅力的である。彼女を愛してやまない恩師で文筆家のワルドー、ローラの婚約者である美青年シェルビー、召使やら女中やら、揃いも揃って一癖も二癖もある個性あふれるキャラクター。彼らの存在が複雑に絡み合うこの作品、全5部構成の各部で語り手が変わっていくという凝った形式で展開されていくのだが、中盤で大きなサプライズがあったりして、初挑戦のミステリーながら秀作と言えるだろう。

 今回取り上げたい曲は、じつは、テーマ曲「ローラ」ではない。この原作の作中で効果的に使われている、「ローラ」に比肩するほどに有名な楽曲である。ジェローム・カーン作曲、オットー・ハーバック作詞の「煙が目にしみる(Smoke Gets In Your Eyes)」。マックファーソン刑事とレストランで食事をするワルドーが、古い歌を愛したローラの音楽的嗜好に言及する場面。彼女はブラームスに耳を傾けると同時に(ジェローム・)カーンの音楽を聴いていたと言った直後、隣のテーブルでローラの愛した「煙が目にしみる」を歌っていた女性に苦情を言う。この名曲で知られるタマラの歌声を汚さぬよう下手な真似事はやめろ、と。そもそもは、アリス・デュア・ミラーの小説を原作とするミュージカル「ロバータ(Roberta)」(1933年)のために書かれた曲で、その初演でこの歌をうたったのが、王女役のタマラ(・ドレイシン)だったのだ。

 その後、この「ロバータ」は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの名コンビ主演で1935年に映画化。「煙が目にしみる」は、ザ・プラターズによる1958年のカヴァーが大ヒットを記録する。さらに、スティーヴン・スピルバーグ監督、リチャード・ドレイファス、ホリー・ハンター主演の映画「オールウェイズ(Always)」(1989年)で、J・D・サウザーのカヴァーによる主題歌として使われてふたたび評判に。ちなみに、もともとは原題どおりにアーヴィング・バーリンの名作「Always」が主題歌として使われる予定だったのが、バーリンの許可が下りず、「煙が目にしみる」になったという裏話もある。

 有名曲だけあって数多のカヴァーがあるが、比較的最近だと、パティ・オースティンが軽快に歌い上げるアルバム『リアル・ミー(Real Me)』(1988年)での演奏を推薦したい。「お前に夢中(How Much I Feel)」(1978年)などのヒットを持つ、ポップかつAOR路線のプログレ・バンド、アンブロージア出身のシンガー・ソングライターであるデイヴィッド・パックがプロデュース。「煙が目にしみる」だけでなく、フランク・シナトラ、フレッド・アステア主演の映画「上流社会(High Society)」(1956年)でおなじみの「トゥルー・ラヴ(True Love)」など、スタンダード曲を現代的かつ斬新にアレンジして披露している。

 誰もが一度は耳にしたことがあるスタンダードの名曲も、ファム・ファタールに振り回され泣かされる男たちを描いたミステリーで小道具として使われると、どこかしら憂いを帯びて印象が異なってくるもの。そう、煙のみならず「運命の女」も目にしみる、ということなのですよ。

【youTube音源】

“Smoke Gets In Your Eyes” by J.D. Souther

*映画「オールウェイズ」よりJ・D・サウザー版

“Smoke Gets In Your Eyes” by Patti Austin

*元アンブロージアのデイヴィッド・パック制作によるアルバム『リアル・ミー』よりパティ・オースティン版。

“Laura” by Gertrude Niesen

*1933年初録音となるガートルード・ニーセン版

【CDアルバム】

『Real Me』Patti Austin

佐竹 裕(さたけ ゆう)

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 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。

 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。

 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。

 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。

【連載エッセイ】ミステリー好きは夜明けに鍵盤を叩く バックナンバー