帯に曰く、「世界を震撼させた〈ヌーヴォー・ロマン〉の嚆矢、ついに新訳なる!」

 ロブ=グリエの本書(1953)は、同じくフランスのヌーヴォー・ロマンの書き手ミシェル・ビュートル『時間割』と並んで、日本でも、ミステリ方面からも言及されてきた作品である。

 60年代の評においても、「〈アンチ・ロマン・ミステリ〉の傑作」(石川喬司『極楽の鬼』)という評価がある一方で、「終わりまで読めずにおりた」「この実験小説を〈新しい手法による新しい探偵小説〉として売り出した商魂のたくましさには舌を巻かざるを得ない」(小林信彦『地獄の読書録』)という言及もある。

 などということもあって、多少恐れをなしていたのだが、この度の新訳を手にとってみると、冒頭のいかにも実験小説風の叙述をくぐり抜ければ、現代の読者にとっては意外なほど読みやすいのではないだろうか。それに、明確なミステリ仕立ての筋書きがある。

 舞台は、北海の霧に埋もれた陰鬱な田舎町。大学教授殺しの報を受けて政府の特別捜査官ヴァラスがやってくる。今回の殺人事件を含め、9日間連続して9件の重要人物の変死が続いているのだ。まだ表沙汰にはなっていないが、無政府組織の関与が強く疑われている。ヴァラスは、事件解明の手がかりを求め、単身、迷路のような街をさまよう。

 小説の革命をもたらしたとされる本書の意義や読みどころについては、同書解説で詳細に説明されているが、ここではミステリ的な側面についてのみ触れる。

 様々な暗示やほのめかし、迷宮性に満ちた一種の異世界ハードボイルドのようにも読める本書だが、普通の捜査小説と違うのは、教授殺しの「真相」が読者には早々に明らかにされてしまう点だ。観客が真相を知り、登場人物はそれを知らないギリシャ悲劇のように、小説は進行していく。

 それでは、ヴァラス捜査官の捜査は、小説の謎解き的な興味は、一体どこへ向かっていくのか。ただ、謎は謎として宙吊りにされるだけなのか。実は、収束のある一地点で明らかになる、ある意味アクロバティックな仕掛けこそが本書の輝かしい点である。ある程度ミステリを読んだ人であれば、作者の狙いどころは明らかだろう。ミステリ的興味で読むのなら、解説を含め本書にまつわる付帯的な情報は事前にあまり眼にされない方がいいと思う。

 作者は、既存の制度化した小説に反旗を翻した小説に、なぜミステリという形式を使ったのだろうか。作者の評論『新しい小説のために』を読むと、相矛盾する証言や次々と新しい手がかりが増殖し、単一の解釈が許されないミステリの多義性が世界の現実性に通じることを指摘している。また、人間の深層の排除というヌーヴォー・ロマンの小説観が、原理的に人間の性格を深く描き得ない探偵小説と親和性が高いこともその理由として挙げられるかもしれない。

『消しゴム』では、小説の方法としてミステリの形式が模倣されるのだが、興味深いことは、結末に向かって進行していくドラマでは、登場人物たちの何気ない言葉、行動、思念、風物の描写などが直接、間接に結末のある地点を示唆し、導くように配置されている点である。その精密機械のように、小説要素を組織していく作者の手つきは、再読してみることで、より鮮明になる。小説の約束事を否定し、形式としてのミステリを模倣しつつ新しい小説を目指したはずの本作が、ジャンル小説であるミステリのエッセンスに肉迫してしまったところが、本書の最もスリリングな点だと思う。

 本書は、読者の多様な読みを誘発する小説でもある。

 例えば、なぜ、ヴァラスが機会あるごとに望みの消しゴムを買い求めようとして果たせないのか。幾つもの解釈があるようだが、主人公の探偵としての属性に重きを置いて読んだときの筆者なりの蛇足を。探偵に必要な能力は、可能性の消去である。あらゆる他の可能性を排除したのちに、真相は顕現する。探偵ヴァラスは、真相を見抜く道具として消しゴムを希求するが、あらゆる可能性が可能性としてのみ存在するこの小説世界にあっては、理想の消しゴムは存在しないのである。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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