ダン・ブラウンのラングドン・シリーズ第4弾『インフェルノ』が11月28日に刊行されるので、今月の月曜枠ではそれに向けての記事を3回書かせていただきます。題して〈インフェルノへの道〉。まだごく少数ながら、見本ができ、きのうの夜に紀伊國屋書店新宿本店でカウントダウンイベントがありました。

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 とはいえ、刊行まで間があるので、第1回のきょうは、当サイトのリレー連載〈初心者のための作家入門講座〉の一環として、「初心者のためのダン・ブラウン」。

これまでの〈初心者のための作家入門講座〉はこちら

 まあ、こんな記事を書かなくたって、ダン・ブラウンは初心者にも読みやすい作品ばかり書いているんですが、このサイトの読者は、最初から本好きの人が多いはずなので、超初心者向きのものということではなく、むしろある程度ミステリーを読んでいる人向けのものはどれか、という立場で書いてみます。

 ダン・ブラウンがこれまでに書いた作品は6作。実はそれ以外に、公式サイトなどにはまったく情報がない2冊のユーモア本(”The Bald Book”と”187 Men to Avoid”)がありますが、どうもご本人がふれられたくない過去のようなので、ここでは無視します。

  パズル・パレス(1998)

  天使と悪魔(2000) ラングドン・シリーズ第1作

  デセプション・ポイント(2001)

  ダ・ヴィンチ・コード(2003) ラングドン・シリーズ第2作

  ロスト・シンボル(2010) ラングドン・シリーズ第3作

  インフェルノ(2013) ラングドン・シリーズ第4作

〈初心者のための作家入門〉では、まずどの作品から読むといいかを書くことが多いようです。ダン・ブラウンの場合、よくあるまちがいとして、『ダ・ヴィンチ・コード』がシリーズ第1作と思われがちなので、いや、『天使と悪魔』から読んでください、というのが初心者へのごくふつうの薦め方でしょうが、このサイトの読者のかたは先刻ご承知でしょうし、逆に歯応えのある作品のほうをお望みでしょうから、きょうはノン・シリーズの2作目にあたる『デセプション・ポイント』をご紹介します。実のところ、いろいろな意味で最も完成度が高く、作者の技巧がほどよく凝縮されているのはこの作品だと思います。

 国家偵察局(NRO)の局員レイチェルは、大統領へ提出する機密情報の分析に携わっていた。現在、ホワイトハウスは大統領選の渦中にあるが、レイチェルの父セクストンは現大統領の対立候補だった。選挙戦の最大の論点は米国航空宇宙局(NASA)に膨大な予算を費やすことの是非であり、NASA擁護派の現職よりも批判派のセクストンが優勢となっていたが、レイチェルは家族を顧みない父と断絶状態にあった。

 そんなとき、北極で地球外生命体が発見されたという情報が大統領陣営にもたらされる。レイチェルは大統領から指示を受けて北極へ行き、そこで海洋学者トーランドをはじめとする科学者のチームとともに真偽のほどをたしかめるべく調査をはじめるが、信じられないような数々の謀略の深みにはまり、生命の危険に何度もさらされる。大統領選の情勢が二転三転するなか、レイチェルやトーランドははたして生還できるのか? そして、地球外生命体はほんとうに存在するのか?

 この作品をイチ押しにする理由をいくつかあげてみましょう。

(1) スピード感と蘊蓄のバランス

 本来矛盾するはずのこのふたつの要素が両立するのがダン・ブラウンの特徴ですが、小出しに傾けられる蘊蓄がストーリーの必然からかけ離れることなく、一体化していて、中途半端に読み飛ばすことができないという点では、おそらくこの作品がいちばんです。

 蘊蓄の中身も、ラングドン・シリーズで多く見られる文化・芸術・歴史方面だけでなく、大統領選やホワイトハウス、生物学や化学や雪氷学、潜水艦や兵器など、多岐にわたっています。

(2) 巧妙な伏線

 ページターナーであるためによく見逃されるのですが、読者をミスリードするためのさりげない叙述や、伏線の張り方、小道具の使い方など、ダン・ブラウンはどの作品でも実によく工夫を凝らしています。この『デセプション・ポイント』でも、再読すれば、序盤から周到な罠がいくつも仕掛けられていることにお気づきになるでしょう。

 これは訳者泣かせの特徴でもあります。ひとつの単語が二重の意味を持ったり、台詞の話者が見かけとちがったりという場合は、訳文の処理で通常の何倍も神経をつかわざるをえません。

(3) 推論の切れ味

 ダン・ブラウンのほかの作品はすべて、暗号がいくつも用意されていて、読者は主人公とともにそれを解いていく趣向になっていますが、『デセプション・ポイント』だけは暗号と呼べるものが出てきません。そのかわり、地球外生命体が存在するか否かについての仮説が中盤にいくつか立てられ、それぞれを検証していきます。この過程がきわめて独創的かつ明快で筋道立っていて、本格的なミステリーの醍醐味を堪能できます。いちばんのカタルシスが得られるのは、おそらくこの部分です。

(4) ふたりのヒロイン

 お決まりと言えばお決まりですが、ダン・ブラウンのすべての作品に、魅力的なヒロインが登場します。ヒロインの年齢が比較的高いのは、ダンの妻ブライズが12歳上であるせいという説もありますが、それはともかく、『デセプション・ポイント』では、大統領側主人公レイチェルのほかに、対立候補側の秘書ガブリエールという女性が登場し、読者の興味はこのふたりがそれぞれの窮地をどうやって脱するかに惹きつけられます。対立する両陣営のヒロインに同等の感情移入をさせるという離れ業は、この作品だけのものです。

(5) バカミス度の高さ

 動機とトリックのアンバランスはよく「バカミス」という呼称のもとに珍重されます。『ダ・ヴィンチ・コード』の冒頭でソニエール館長がわざわざみずから全裸死体になるシーンなども、この範疇にはいるのかもしれません。詳細はネタバレになるので書きませんが、『デセプション・ポイント』はこの点でもダン・ブラウン全作品中の白眉だと言えます。「あんなことのためにあそこまで……」と言いたくなるということでは、ジャック・カーリイ『百番目の男』に匹敵すると断言します。

 というわけで、これだけ傑作の要素を具えた『デセプション・ポイント』ですが、原著の刊行当時はあまり話題になりませんでした。ひとつには、大手出版社への移籍を果たしたのがつぎの『ダ・ヴィンチ・コード』だったという事情もありますが、それより大きな理由は、この本が出たのは2001年8月であり、翌月に同時多発テロが起こったからでしょう。この時期はフィクション、ノンフィクションを問わず、期待作が総倒れとなりました。そして、愛国心の高揚が求められたこの時期には、NASAや大統領選をめぐる腐敗や陰謀をテーマにしたこの作品はお呼びではなかったようです。

 ダン・ブラウン自身も、この作品にはひときわ愛着があるらしく、映画化に際してのシナリオをみずから執筆しています。まだ本格的なことはほとんど決まっていないようですが、6作のなかではまちがいなく最も映画向きの作品でもあるので、期待はいや増します。

 ところで、新作の『インフェルノ』については、上記の5つの要素はどの程度期待できるのか。独断で採点させてもらえれば、(1) が○、(2) が◎、(3)と(4) が△、(5) が◎といったところでしょう。今回は比較的仕掛けが地味ではないかという印象で静かにはじまりますが、後半になると、奇想天外な大仕掛けの連続となります。そして、読み返してみると、その伏線が冒頭部分からいつにも増して多く仕込まれているのがわかります。

 最新作『インフェルノ』は、過去の5作のどれにも似ていない、ダン・ブラウンの新境地と呼ぶべき作品です。そして、禁断の結末は、まちがいなく賛否両論を呼び起こすでしょう。もう少しくわしく内容を知りたい人のために、今週から全国の書店に10ページ程度のこんなフリーペーパーを置いてあるので、見つけたらご自由にお持ちください。

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 ところで、これまでシンジケート後援の読書会で、課題書としてダン・ブラウンの作品を採りあげたことは一度もありません。最も課題書向きなのもこの『デセプション・ポイント』にちがいないので、これをやろうという読書会があったら、教えてください。全国津々浦々、どこへでも参上しますよ。

 次回はダン・ブラウン作品にまつわる翻訳上の四方山話などを紹介する予定です。

「その2」はこちら

「その3」はこちら 

越前敏弥

(えちぜんとしや)。1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景

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