ミステリーというかエンターテインメント小説には、もちろんさまざまなジャンルがあるんだけど、監獄ものというのは、なかでも変わった部類ではないだろうか。なにしろ、刑務所の中という閉鎖された空間を舞台としているので、一種の「孤島もの」の亜流と考えられなくもなく、その緊迫感たるや並大抵のものじゃない。けれども一方で、必然的にさまざまな制約を余儀なくされることになるので、書き手にとっては難しいことこのうえないだろう。そのあたりが小説家の腕の見せ所でもあるのだけれど。

 そうした意味では、スティーヴン・キングの中編「刑務所のリタ・ヘイワース(“Rita Hayworth and Shawshank Redemption”)」(『ゴールデンボーイ——恐怖の四季 春夏編』〔1982年〕所収)などは、真っ先に挙げられて然るべき傑作だろう。ティム・ロビンズ、モーガン・フリーマン主演、フランク・ダラボン監督による映画化作品「ショーシャンクの空に(The Shawshank Redemption)」(1994年)も、あまりに有名。何より、リタ・ヘイワースのポスターという小道具の使い方が超絶みごとだった。刑務所という舞台をうまく活かした好例だ。

 このジャンルの小説では、一般社会とはあまりに異なる閉鎖環境にありながら、そこに一つの小社会が形成されている。それをどれだけリアルに描写できるかに、作品の優劣が大きく左右されるのだろう。それだけに、『エリー・クラインの収穫』(1987年)の作者ミッチェル・スミスの第2作『ストーン・シティ(Stone City)』(1989年)の登場は、まさしくセンセーショナルだった。

 飲酒運転で少女を轢き殺して州立の重警備刑務所に投獄された元大学教授が、所内で起きている連続殺人事件を調査する羽目になるという、なんともユニークな設定で、生々しい所内描写に絶賛の評が集まった。擬似夫婦の婚姻関係など、驚かされる要素は数あれど、やがてその筆の説得力に圧倒され、作品世界に引き込まれ、いつしか囚人たちの目線と自身のものが重なっていき、読み手は自然とその世界を受け入れている自分に気がつくのである。

 さてさて、前置きが長くなったけれど、その5年後に発表されたのが、今回取り上げるティム・ウィロックスの『グリーンリバー・ライジング(Green River Rising)』(1994年)だ。1991年に Bad City Blues という小説を書き、デニス・ホッパー主演で映画化(1999年)されているというが、市場ではほぼ入手できない状態とのことなので、『グリーンリバー・ライジング』が、この大型新人の実質的なデビュー作にあたる。

『ストーン・シティ』は、刑務所内の殺人事件ということで、正しくミステリー作品の係累だったわけだが、本作は刑務所内の暴動が物語の中心。そこに何らかの企みが秘められてはいるのだが、どちらかというとストレートなエンターテインメント作品と言えるだろう。ただし、ミッチェル・スミスに負けず劣らずの描写力で、刑務所内の汚猥にまみれた部分までつぶさに伝えるその筆力には、思わずシャッポを脱いだ。

 主人公クラインは、元恋人の嘘から強姦罪で訴えられ投獄された医師。本来は激しやすい性格の人間なのだが、松濤館流なる空手で心身を鍛錬していて、その教えもあってつねに冷静さを保つようにしている。その甲斐あってか保釈申請もどうやらうまく進んでいて、まさにその結果を知らされる当日に、暴動が勃発してしまうのである。

 たまたま診療の才があったこともありクラインの相棒となった、所内診療所管理責任者である黒人模範囚コリー、学術論文の研究対象として所内診療所を定期的に訪れクラインに思いを寄せる法精神科医だが、女性でただ一人所内に閉じ込められてしまうデヴリン、無実の罪で投獄されている元ミドル級世界チャンピオンのボクサーで黒人グループの総帥でもあるウィルソンなど、登場人物の一人ひとりの造形が素晴らしい。

 暴動に巻き込まれた罪なき(といっても囚人なので何らかの罪を着せられているのだが)彼らが、暴行や死と隣り合わせの状況からいかにして脱出し、暴動そのものを鎮めることができるか。粗野な暴力に知力で挑むあたりも読みどころなのだが、巨大迷宮のような地下通路や、暗闇のなか、地下を脈々と流れる下水道を手探りで抜けていくシーンなどは、圧巻。閉鎖空間における冒険サスペンスの面白みをてんこ盛りにした作品に仕上がっている。

 もちろん、そういったシーンは手に汗握る派手な盛り上がりを見せてくれるのだけれど、他にも印象に残るシーンがいくつもあるのだ。たとえば、長く外界を夢見て、診療室の仕事に没頭し、模範的な囚人として日々を耐え忍んできたクラインが、保釈の可否を告げられに所長室に向かう途中で、ある歌をふと頭に思い浮かべてしまう場面。「なるようになるさ」——ドリス・デイの「ケ・セラ・セラ(Que Sera Sera)」(1956年)である。

 もともとは、アルフレッド・ヒッチコック監督「知りすぎていた男(The Man Who Knew Too Much)」(1956年)のクライマックス・シーンで、主演のドリスが実際に歌って彼女の代表作のひとつになった、アカデミー賞歌曲賞を受賞したジェイ・リヴィングストン&レイ・エヴァンス作の名曲だ。1950〜60年代のドリスの女優&歌手としての人気はすさまじいものだったのだろう。禁欲生活のせいで、ドリス・デイを思い浮かべただけで身体が反応してしまったクラインが思わず自嘲していると、冷徹で知られる看守長に見つかってしまう。保釈取り消しを怖れるあまり正直に事情を説明すると、大声でずっと歌ってみろと言われ、所長にまで歌声を聴かれてしまう。

 さらには、ウィリー・ネルソンよりマディ・ウォーターズのほうが好きだと言ったら私刑に遭うのではと、黒人囚と白人囚との確執を表現したり、模範囚の営繕部リーダーが自殺を図ろうとする直前にコレクションの全LPを割ってしまったところ、ディーン・マーチンをあれだけCDで揃えるのは大変だぞと、命を救ったクラインが語ったり……随所に音楽好きをニヤリとさせる記述が顔を覗かせる。

 また、暴動の首謀者である終身刑囚の最強リーダーと、その「妻」(もちろん男)との愛の巣である監房にはカセットデッキが置いてあり、いつでもボブ・ウィルズ&ヒズ・テキサス・プレイボーイズの「サンアントニオの薔薇(San Antonio Rose)」(1936年)のメロディが流れている。「妻」をサンアントニオの薔薇だと崇めているのだ。軽快なカントリー・ミュージックの古典中の古典だが、なんともノスタルジックな響きでもある。

「ケ・セラ・セラ」とこの「アントニオの薔薇」の歌詞は、幾度か作中に登場して、登場人物たちの心理描写に深みを加えている。

 おそらく『ストーン・シティ』なくして本作が誕生したとは思えないほど、刑務所内の描写には通ずる点も少なくない。けれども、新人ながらここまで大胆に暴力シーンや性描写に挑んだあたり、大物感漂いまくりだと思うのである。ちなみに、刊行当時の情報では、アラン・パクラ監督で映画化決定と謳われていたが、その後、作品が公開された記憶はない。ウィロックス作品は、この後、犯罪サスペンス『ブラッド・キング(Bloodstained King)』(1996年)が邦訳紹介されているのみだ。

◆YouTube音源

“Que Se Ra Se Ra” by Doris Day

*「知りすぎた男」のクライマックス・シーン。この場面こそが映画のヒットの要因と言われている。

“San Antoinio Rose” by Bob Wills and His Texas Playboys

*1940年代のライヴ録音。中盤から「サン・アントニオの薔薇」の演奏になる。

◆CDアルバム

*これ以外にも多くのベスト盤やコンピレーションで聴けるはず。

*古い音源なので、さまざまなコンピレーションに収録されているかと。これはボックスセット。

佐竹 裕(さたけ ゆう)

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 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。

 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。

 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。

 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。

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