先だって、お名前に心当たりのない女性からツイッターでリプライをいただいた。ひょっとして○○年に××自動車教習所に通っていた佐竹さんでしょうか? といった内容。「?」マークに包まれながらも何とも形状しがたい既視感に襲われ、それでも先方の素性を思い出せないまま「そうです」と返信したところ、再度コメントをいただいた。当時、音大に通っていて教習所でご一緒した△△です、と。ひえーっ!? その途端に封印されていた記憶が鮮明に甦った。教習所で知り合って恋焦がれ何度かお茶までご一緒したのに、いつしか縁遠くなってしまった1歳年上のマドンナだったのだ。どうやら、何かのきっかけでぼくのツイートを発見し、お子さんにツイート方法を教えてもらいリプライを送ってきたらしい。

 そして、何を思い出して驚いたかというと、彼女がプレゼントしてくれたベートーヴェンの「エグモント序曲」が頭の中にドッと溢れてきたことである。封印されていた記憶というのは時として、時空を超えて解き放たれたとき、当時以上に鮮明な甦り方をするものだな、という貴重な経験をしたというわけでした。

 何かの研究じゃないけど、時間というのは人の記憶を微妙に改竄することもあるようで、海外ミステリーの世界でも、記憶を詳らかにしていくというのはけっして少なくないテーマだ。ピーター・ラヴゼイの『苦い林檎酒Rough Cider)』(1986年)だとかトマス・H・クックの一連の作品がそうなのだけど、ロバート・ゴダードなどは、そのあたりの題材をもっとも巧みに取り込んでいる作家の代表格だろう。

 そんなゴダード作品のなかでもとくに、『千尋の闇Past Caring)』(1986年)や『リオノーラの肖像In Pale Battalions)』(1988年)といった初期傑作群あたりが大好きな読者にとって、オーストラリア生まれの英国女性作家ケイト・モートンの登場は、まことに喜ばしいものだったにちがいない。異色のメイド小説『リヴァトン館The Shifting Fog)』(2006年)でデビューし、『忘れられた花園The Forgotten Garden)』(2008年)で、すっかり日本の読者の心を鷲摑みにした。いまもっとも次作が期待される作家の一人だと言い切ってしまおう。

 第4作にあたる『秘密The Secret Keeper)』(2012年)は、『忘れられた花園』同様、過去と現代を結ぶ複雑に入り組んだ物語の迷宮へと読者を誘い込む傑作で、あらためて作者の力量を感じさせてくれる。

 物語は、1960年代のイングランドにある田園地帯の農家で幕を明ける。一人ツリーハウスにこもっていた少女ローレルは、敷地内に入り込んできた見知らぬ紳士を母ドロシーがナイフで刺し殺すのを目撃してしまう。ローレルの証言もあって、男はピクニック場荒らしの犯人だとして母の正当防衛として事件は片付けられ、家族のなかでも一部の秘密として封印されてしまう。時は経ち、2011年の現在ではローレルは舞台女優として成功していて、余命いくばくもない母の入院先を訪れる。そこで、ヴィヴィアンという裕福な女性と二人で仲良く映った写真を目にし、忘れかけていた過去の記憶の断片が甦ってくる。さらに病床の母の言葉から件の事件の背後には隠された真実があることを察し、母の半生をあらためて調べてみることになる。そして、母が刺殺した男性がヴィヴィアンという女性の夫で作家だったということが判明し。ある理由から復讐の計画を立てた母ドロシーは、それが頓挫したことによって恋人も住む場所も失ってしまったことを知るのだが——。

 ……とあらすじを書き連ねようと思うのだが、こんなのはストーリーのほんの一部にすぎないのである。なんと7つもの時代を行き来し、幾重にも張りめぐされた謎を徐々に解き明かしていく。しかも、そのたびに物語の様相を一変させてしまう万華鏡のような物語。ミステリー・ファンを裏切らない大ネタも用意されている。だが、その中心に語られているのは、生きるのが下手な古きよき時代に暮らした男女たちの美しいヒューマン・ドラマである。まずは読んでいただくしかないだろう。得てして大味になりそうな(語り手じゃないほうの)ヒロインの一代記と思うなかれ、そんなことはない。印象深く、胸を打たれるシーンのオンパレードなのだから。

 なかでも、半世紀に及ぶ閉ざされた秘密の歴史が紐解かれるクライマックス・シーンに注目してほしい。息をひきとる直前の母ドロシーの要望で、娘たちは母が好きだった音楽のレコードをかけて聴かせてあげるのだが、それが、レイ・ノーブル楽団の演奏でスヌーキー・ランソンが歌う「バイ・ザ・ライト・オブ・ザ・シルヴァリー・ムーン(By the Light of the Silvery Moon)」。両親がなれそめを子どもたちに語って聴かせるたびに登場したナンバーで、スティーヴンとドロシー夫妻がそれを伴奏にダンスした思い出の曲なのだ。

 ゆったりとしたバラード調の歌い出しからテンポインして展開する軽快な旋律は、ノスタルジーを感じさせて物語に色を添えている。ガス・エドワーズ作曲、エドワード・マッデン作詞で、1909年に米国女優リリアン・ロレインが歌手として発表したのが最初の録音だった。その後、1953年に歌う人気女優ドリス・デイ主演で同名の映画「銀色に光る月の下で(By the Light of the Silvery Moon)」が公開され、ドリスが歌う主題歌として大ヒットを記録。彼女は同タイトルのアルバムも発表している。

 また、母ドロシーの夫スティーヴンはサックスも吹くとの設定で、クリス・バーバー・ジャズ・バンドのモンティ・サンシャインのソロに合わせて延々演奏したというシーンもあるが、残念ながら楽曲は特定されていない。

 作中、音楽に合わせて踊る両親を幼い頃のローレルがこっそり盗み見て、「たとえ百歳まで生きたとしてもお目にかかれないほど美しい光景」だと述懐するシーンがある。過去の連載で、スティーヴン・キングの最新傑作『11/22/63』を取り上げたときに、本作にも記述があるグレン・ミラー楽団の「イン・ザ・ムード(In The Mood)」がとてつもなく美しいダンス・シーンに使われていたとも書いたが、映画化もされているキングの中短篇集『アトランティスのこころ(Hearts in Atlantis)』(1999年)の中の1篇のほうを思い起こしてしまった(こちらはBGMなしだけど)。主人公の少年が大好きな彼女と観覧車で初キスを交わすシーン。たしか、これからの一生でこれ以上のキスにめぐり合うことはないくらいのキス、だったかと。モートンといいキングといい、読み手の感性に訴える表現の巧みなこと!

 ちなみに、『秘密』のなかには、1960年代にクリフ・リチャードとアダム・フェイスのどちらがカッコいいかといった記述も見られ、音楽ファンをにやりとさせてくれる。キングやイアン・ランキンの作品とは違って、音楽の記述がさほど多いわけでもないが、要所要所に時代を映し出す巧い起用をしていて、なかなかに侮れない作家だと再認識させられた。未訳の第3作 The Distant Hours(2010年)も楽しみに待ちたい。

 ところで、大人になった件の「エグモント序曲」美女だが、タイムライン上でのリプライだと個人的な通信ができないのでダイレクトメッセージを使ってみてくださいとお送りしたところ、その後レスポンスもなく、しばらくしてチェックしてみると、もはや使われていないIDに。『秘密』を読了した後の甘やかな痛みにも似た、そんな感傷にひたったオヂさんでありました。

◆youTube音源

“By the Light of the Silvery Moon” by Ray Noble Orchestra

*娘たちが病床の母を囲んで音楽を聴かせる後半のハイライト・シーンで登場する。謳い出しはバラード調に、後半は軽快なテンポで、スヌーキー・ランソンが楽団をバックに歌い上げている。

“By the Light of the Silvery Moon” by Doris Day

*そもそも、この曲はドリス・デイが主演した同名映画(1953年)の主題歌として大ヒットを記録。当時、「歌える女優」として数々の映画で主演の座についたドリスの人気が大きく影響したと思われる。

◆CDアルバム

『Ray Noble and His American Orchestra』Ray Noble

*1935〜50年あたりの音源を集めたコンピレーションCD

『On Moonlight Bay / By the Light of the Silvery Moon』Doris Day

*ドリス・デイのアルバム代表作を2on1にしたCD。

◆DVD

「銀色の月明かりの下で」

*主題歌が大ヒットとなったドリス・デイ主演の映画。

佐竹 裕(さたけ ゆう)

20130512100106.jpg

 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。

 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。

 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。

 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。

【連載エッセイ】ミステリー好きは夜明けに鍵盤を叩く バックナンバー