本題に入る前に今回はまず、非英語圏ミステリーに興味のある人にぜひ読んでもらいたい書籍を紹介する。今月24日に盛林堂ミステリアス文庫の1冊として限定400部で刊行される加瀬義雄氏の『失われたミステリ史』である。これは昨年逝去された加瀬義雄氏がミステリー研究同人誌『ROM』で2004年から2012年まで全10回にわたって連載したものをまとめたもの。「失われたミステリ史」と題されたこの連載は、スウェーデンやノルウェー、イタリアの古典ミステリーをスウェーデン語やイタリア語の原書で読んで(あるいはドイツ語訳や英訳などで読んで)紹介するという、他の誰にも真似できない空前絶後のものだった。加瀬氏は作品をレビューするだけでなく関連文献を渉猟して、日本ではほとんど知られていない北欧やイタリアのミステリー史を詳細に描き出している。また分量的にはメインは北欧とイタリアだが、ドイツ語圏やフランス語圏の古典ミステリーのレビューもある。

 『失われたミステリ史』でレビューされている作家は、たとえば戦前のスウェーデンのフランク・ヘラー(Frank Heller)、ユリウス・レギス(Julius Regis)、ロビンスン・ウィルキンス(Robinson Wilkins)、戦後のスウェーデンのハンス・クリステール・レンブロム(Hans-Krister Rönblom)、ヤーン・エクストレム(Jan Ekström)、マリア・ラング(Maria Lang)、ノルウェーのスヴェン・エルヴェスタ(Sven Elvestad)、ベルンハルト・ボルゲ(Bernhard Borge)、イタリアのエツィオ・デリコ(Ezio D’Errico)、アウグスト・デ・アンジェリス(Augusto De Angelis)、アレッサンドロ・ヴァラルド(Alessandro Varaldo)、オーストリアのアオグステ・グローナー(Auguste Groner)、ドイツのパウル・ローゼンハイン(Paul Rosenhayn)、ベルギーのスタニスラス=アンドレ・ステーマン(Stanislas-André Steeman)ら、邦訳が一切ないか、あるいはあるにしても非常に手に入りにくい作家ばかりである。

 たとえば北欧ミステリーが好きな人はその源流を知るという意味で、また英米の古典ミステリーの愛好者は同時代の多様なミステリーを知るという意味で、ぜひともこの書籍を手にとっていただきたい。

 『失われたミステリ史』は2008年に一度、連載の途中までをまとめたものが同人出版されているが、今回のは連載のすべてをまとめた「増補・完全版」だそうである。また、加瀬義雄氏が翻訳したスウェーデンのS・A・ドゥーゼの短編も4編収録されるそうだ。ぜひともお見逃しなく!

◆インターナショナル・ダガー賞

 さて、今回は非英語圏のミステリーを対象とするイギリスのインターナショナル・ダガー賞を紹介する。

 インターナショナル・ダガー賞は英国推理作家協会(Crime Writers’ Association、CWA)が2006年から授与している賞で、イギリスで出版された翻訳ミステリーの最優秀作に与えられる。過去の受賞作は以下の通り。8年間の9作の受賞作のうち、現在日本語で読めるのは4作である。(未訳作品は英題を示す)

  • 2006年【仏】フレッド・ヴァルガス『死者を起こせ』
  • 2007年【仏】フレッド・ヴァルガス『Wash This Blood Clean From My Hand』(東京創元社より近刊)
  • 2008年【仏】Dominique Manotti『Lorraine Connection』
  • 2009年【仏】フレッド・ヴァルガス『青チョークの男』
  • 2010年【スウェーデン】ヨハン・テオリン『冬の灯台が語るとき』
  • 2011年【スウェーデン】ルースルンド&ヘルストレム『三秒間の死角』
  • 2012年【イタリア】アンドレア・カミッレーリ『The Potter’s Field』
  • 2013年【仏】ピエール・ルメートル『Alex』(文春文庫で近刊)および【仏】フレッド・ヴァルガス『Ghost Riders of Ordebec』

 フランスのフレッド・ヴァルガスは2013年までの8年間で6回ノミネートされ、そのうち4回受賞している。そして、今年のノミネート作は1週間ほど前に発表されたが、フレッド・ヴァルガスの名前は今年も入っていた。今年のヴァルガスのノミネート作はすでに邦訳のある『論理は右手に』である。

 1週間ほど前に発表された2014年のノミネート作は以下の通り。インターナショナル・ダガー賞は刊行されたすべての作品が審査対象となるわけではなく、英国推理作家協会にエントリーの届けをした作品が対象になる。今年は14の言語から訳された64作のエントリーがあったそうだ。受賞作の発表は6月30日である。(未訳作品は英題を示す)

  • 【仏】フレッド・ヴァルガス『論理は右手に』
  • 【仏】ピエール・ルメートル『Irène』
  • 【仏】Olivier Truc『Forty Days without Shadow』
  • 【アイスランド】アーナルデュル・インドリダソン『Strange Shores』
  • 【独】Simon Urban『Plan D』
  • 【スペイン】アルトゥーロ・ペレス・レベルテ『The Siege』

 今年初めてノミネートされたOlivier Trucはスウェーデン在住のフランス人。ノミネート作はスカンジナヴィア半島北部のサーミ人たちの土地が舞台となっているそうで、フランスミステリーであり北欧ミステリーでもある作品、といえるだろうか。ドイツのSimon Urbanも初ノミネート。そのノミネート作は、現在もドイツの東西分断が続いている、という架空の歴史設定の東ドイツを舞台にした作品だそうだ。

 インターナショナル・ダガー賞は毎年平均で6作がノミネートされる。2006年から2014年までの9年間でのノミネート作54作の原産国の内訳は、フランス14作品(6作家)、スウェーデン12作品(6作家)、イタリア9作品(4作家)、その他のヨーロッパ諸国が13作品、ヨーロッパ以外が6作品である。

◆北欧からのノミネート

 北欧からは2014年までに、スウェーデンの6作家12作品、ノルウェーの1作家3作品、アイスランドの1作家3作品、デンマークの1作家1作品がノミネートされている。

スウェーデンからのノミネート作一覧

  • ホーカン・ネッセル
    • 『終止符(ピリオド)』(2006年)
  • カーリン・アルヴテーゲン
    • 『恥辱』(2007年)
    • 『影』(2009年)
  • オーサ・ラーソン
    • 『オーロラの向こう側』(2007年)
    • 『Until Thy Wrath Be Past』(2012年)
  • スティーグ・ラーソン
    • 『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』(2008年)
    • 『ミレニアム2 火と戯れる女』(2009年)
    • 『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』(2010年)
  • ヨハン・テオリン
    • 『黄昏に眠る秋』(2009年)
    • 『冬の灯台が語るとき』(2010年)★受賞
  • ルースルンド&ヘルストレム
    • 『三秒間の死角』(2011年)★受賞
    • 『Two Soldiers』(2013年)

 ヨハン・テオリンの『黄昏に眠る秋』はインターナショナル・ダガー賞は受賞していないが、同じ年に同時に英国推理作家協会のジョン・クリーシー・ダガー賞(最優秀新人賞)にもノミネートされており、そちらを受賞している。

 ノルウェーからは、ジョー・ネスボが3回ノミネートされている。『コマドリの賭け』は2007年のノミネート作。

 アイスランドからは、アーナルデュル・インドリダソンが3回ノミネートされている(今年を含む)。ノミネート作はどれも未邦訳である。アーナルデュル・インドリダソンはインターナショナル・ダガー賞ができる前年の2005年、『緑衣の女』で英国推理作家協会のゴールド・ダガー賞(最優秀長編賞)を受賞している。

 デンマークからは、2007年にChristian Jungersenという作家がノミネートされているが、この作家は邦訳はない。

 フィンランドの作品がノミネートされたことはないが、これは英訳の少なさも関係しているだろう。ほかの北欧4か国の言語は英語と比較的近い関係にある言語だが、フィンランド語はそれらとはまったく系統の違う別言語であり、フィンランドのミステリーが英語に翻訳される機会は非常に少ない。

◆フランスからのノミネート

 フランスからは2014年までに6人の作家の14作品がノミネートされている。うち、日本語で読めるのは以下の4作品である。

  • フレッド・ヴァルガス
    • 『死者を起こせ』(2006年)★受賞
    • 『青チョークの男』(2009年)★受賞
    • 『論理は右手に』(2014年ノミネート中)
  • トニーノ・ブナキスタ
    • 『マラヴィータ』(2010年)

 『マラヴィータ』は昨年映画化されていて、日本でも公開された。邦訳はそれ以前から文春文庫で『隣りのマフィア』というタイトルで出ていたが、映画のタイトルに合わせて現在は『マラヴィータ』に変わっている。

 ほかにノミネートされたことのあるフランス作家は、Dominique Manotti(2008年受賞)、ジャン=フランソワ・パロ、ピエール・ルメートル(2013年受賞)、Olivier Truc(2014年ノミネート中)の4人。ジャン=フランソワ・パロは《ニコラ警視の事件》シリーズの第5作が2011年にノミネートされている。このシリーズの邦訳は日本では第3作までで止まっている。

 ピエール・ルメートルは2013年に初めてノミネートされて初受賞し、続けて今年もノミネートされている。先にも書いたが、2013年の受賞作『Alex』は今年文春文庫から刊行の予定である。この作家の邦訳は現在のところ、『死のドレスを花婿に』がある。

◆イタリアからのノミネート

 イタリアからは2014年までに4人の作家の9作品がノミネートされているが、そのうち日本語で読めるものは1作もない。4人の作家というのは、アンドレア・カミッレーリ(5回ノミネート、うち1回受賞)、Valerio Varesi(2回ノミネート)、Maurizio de Giovanni(1回ノミネート)、Marco Vichi(1回ノミネート)である。5回ノミネートというのはフレッド・ヴァルガスに次ぐ記録だが、それにしてはアンドレア・カミッレーリはあまり邦訳が出ていない。

◆その他の欧州諸国からのノミネート

 ドイツミステリーは近年日本で人気を博しているが、ドイツミステリーのインターナショナル・ダガー賞へのノミネートは、2013年のフェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』が最初だった。先にも書いたように、今年はSimon Urbanという作家がノミネートされている。「ドイツ語圏」に範囲を広げると、2008年にスイスのマルティン・ズーターがノミネートされている(ノミネート作は未訳)。この作家は邦訳が3冊出ている。

 スペインからは、2006年にRafael Reig、2011年にDomingo Villarがノミネートされている。どちらの作家も邦訳は出ていない。今年はアルトゥーロ・ペレス・レベルテがノミネート中である。この作家は『フランドルの呪画(のろいえ)』でフランス推理小説大賞、『ナインスゲート』(別題『呪(のろい)のデュマ倶楽部』)でデンマーク推理作家アカデミーやフィンランド・ミステリー協会の賞を取るなど、スペイン国外でも人気の高い作家である。

 スペインの作家がインターナショナル・ダガー賞を受賞したことはないが、この賞ができる以前の2002年に、スペインのホセ・カルロス・ソモサが『イデアの洞窟』でゴールド・ダガー賞(最優秀長編賞)を受賞しているということは明記しておくべきだろう。

 欧州作家については以上ですべてである。中東欧やロシアのミステリーも少数ながらイギリスで英訳出版されているが、それらがインターナショナル・ダガー賞にノミネートされたことは今のところない。ただ、ロシアの作家については、インターナショナル・ダガー賞ができる以前の2003年に、ボリス・アクーニンが『堕ちた天使—アザゼル』でゴールド・ダガー賞にノミネートされている。この作家は日本では『リヴァイアサン号殺人事件』が『本格ミステリ・ベスト10』で8位、『ミステリが読みたい!』で9位になるなど高い評価を受けた。

◆アフリカ、南米、アジアからのノミネート

 インターナショナル・ダガー賞はなにもヨーロッパの作品に限った賞ではないので、イギリスで英訳が出て、かつそれが優秀作であれば、世界中のどの国の作品でもノミネートされる。もちろん、日本の作品もノミネートされる可能性はあるのである。

 アフリカの作家では、2014年までにアルジェリアのヤスミナ・カドラが2回、南アフリカのデオン・メイヤーが2回ノミネートされている。ヤスミナ・カドラはフランス語で書く作家。デオン・メイヤーはアフリカーンス語で書く作家。ヤスミナ・カドラの『テロル』は2007年のノミネート作、デオン・メイヤーの『追跡者たち』は2012年のノミネート作である。

 南米からは、2011年にアルゼンチンのErnesto Malloがノミネートされている。Ernesto Malloはスペイン語で書く作家。邦訳は1作もない。

 西アジアのイスラエルからは、2013年にD. A. Mishaniがノミネートされている。D. A. Mishaniはヘブライ語で書く作家。やはり邦訳はない。

 東アジアからのノミネートは今のところない。ちょうど今月、イギリスで東野圭吾の『白夜行』の英訳版が刊行される予定だったのでノミネートもあり得るのではないかと期待していたのだが、出版が2015年10月に延期となってしまった。この賞の対象期間は前年6月から当年の5月の出版作なので、つまり『白夜行』は来年の対象作ですらなく、仮に『白夜行』がノミネートされることがあるにしても、それは2年後の2016年5月ということになる。

◆関連するリストなど

 インターナショナル・ダガー賞の審査員の一人であるKaren Meek氏が、Webサイト「Euro Crime」でエントリー資格のある翻訳ミステリーの一覧を毎年「非公式」に作成し公開している。ただし一部の書籍(短編集など)は参考として挙げられているだけで、エントリー資格はない。また、これはあくまでもエントリーの資格のある作品のリストであり、リストにあるすべての作品がエントリーされているわけではない。

 まだ2015年のリスト(2014年6月〜2015年5月の書籍が対象)は作成されていないが、イギリスではこの期間中に湊かなえ『告白』や東野圭吾『悪意』の英訳出版が予定されている。

 「Euro Crime」にはミステリーに関連するさまざまなリストが充実している。たとえば、さきほどのリストとは別に、イギリスでの年ごとの翻訳ミステリー出版作一覧を見ることができる(http://eurocrime.co.uk/future_releases.html)。リンク先の「Translated」がイギリスで出版された各年ごとの翻訳ミステリーの一覧である。

 また、英訳された世界のミステリーの、原産国別一覧もある(http://www.eurocrime.co.uk/books.html)。こちらではイギリスだけでなくアメリカやその他の国で英訳出版された作品もリストに入っている。日本のミステリーの英訳リストもある(http://www.eurocrime.co.uk/books/books_bib_Japan.html)。

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワ ミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。「××(国・地域名)に推理小説はない」、という類の迷信を一つずつ消していくのが当面の目標。

 Webサイト: http://www36.atwiki.jp/asianmystery/

 twitterアカウント: http://twitter.com/Colorless_Ideas

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