「現代における数少ない本物の魔女の一人」

 評論家アントニー・バウチャーがミステリ作家シャーロット・アームストロングを評した言葉として有名だが、魔女と呼ぶにふさわしい作家は、ミステリ界にまだいる、ということの裏返しでもある。

 8月は、アメリカのミステリ界で最高の魔女と呼ぶのにふさわしい(と、筆者が勝手に考える)二人の作家の未訳作品の競演、対決となった。

 こなた、ヘレン・マクロイ。かなた、マーガレット・ミラー。ともに、ポスト黄金期から長編ミステリを中心に執筆し80年代まで活躍、MWA会長も務めた大御所であり、作品に精神分析的アプローチをよく用いたという経歴もよく似ている。夫がミステリ作家だったという点も共通する(旦那様の名は、ダーリン。ではなく、それぞれ、ブレット・ハリディ(後に離婚)とロス・マクドナルド)

 魔女と呼びたいのは、二人の作家が巧妙なプロットにサプライズ・エンディングというミステリの魔法を使うからというだけではない。ときに、『暗い鏡の中に』『見知らぬ者の墓』のようにオカルト的設定を用いるからというだけでもない。人間心理の深層に踏み込み、普通の人には見えないものを見てしまうという視線の鋭さ、冷徹さゆえだ。

 さて、マクロイ『逃げる幻』(1945)は、昨年の『小鬼の市』に続く本邦初訳。(深緑野分さんと筆者の『小鬼の市』クロス・レヴューは、こちら

 スコットランドを舞台に、荒野での人間消失と密室の謎が提示され、名探偵ウィリング博士が挑むという、大いにそそられる設定だ。

 家出を繰り返していた少年が、ハイランド地方の荒野(ムア)の真ん中で忽然と消えた。アメリカの軍人ダンバー大尉が聞かされたのは、そんな不可解な話だった。少年を偶然発見した大尉は少年の眼に恐怖が浮かんでいるのに気づく。少年は何を怖れているのか。そして、二日後、少年の家庭教師の殺害事件が起きる——

 一読、マクロイは、やはり「見える人」だ、思わせる。

 幅広い教養をもとに、表層の内部に潜む心理の構造や行動原理が見えてしまう人。そういう作家であるからこそ、中南米の島国等を舞台とした『小鬼の市』や『ひとりで歩く女』、死の部屋伝承が伝わる隔絶された山荘が舞台の『割れたひづめ』、短編「東洋趣味(シノワズリ)」などの一種のエキゾティズム、異文化との接触と解釈は、単なる作品の彩りではなく、作家の本領が発揮できる手法なのだ。

 本書の舞台がスコットランドになっているのも然り。その荒涼とした風景、歴史と伝統、地域に伝わる民話や伝承、幽霊譚などは、幻想的な人間消失や密室の謎にふさわしいだけではなく、本書のテーマとも密接に関わっている。

 裕福で何一つ不自由のない家庭環境の中で、少年は、何におびえているのか、という心理的な謎は、少年のおかれた環境の裏で「邪悪なものがうごめいている」ことを予期させ、ここでもマクロイの得意な精神分析的アプローチを可能にさせる。

 さらに、本書で、マクロイは、二次大戦直後のアクチュアリティまで見据えている。ファシズムに影響を与えたアメリカ人の思想家が登場し、ダンバーとの思想対決が一つの見せ場になっているのだ。マクロイは、『小鬼の市』でも、米国の、ファシズムに対する二重基準を批判し、硬骨なところをみせていたことが思い起こされる。

 マクロイの本領が様々な形で発揮される本書においては、実は、人間消失や密室の謎解きそのものは、さして重要なものではない。中核的な謎は別に用意されているのである。

 本書の素晴らしいところは、その謎が解かれることによって、スコットランド幻想、少年の周囲を取り巻く不穏の雰囲気、二次大戦直後のアクチュアリティという一見別々の要素が、結末に至って統合され、三枚の異なる透かし絵を重ね合わせたように、大胆な絵柄が立ち上がってくることである。

 そして、そのための伏線は、本書の至る所に巧妙に散り敷かれていたことが、読後に判明する。

 見えないところに連関を見出し、時代の現実を反映して、一つのキーワードで串刺しにしてみせた本書は、「幻視力」と「批評性」を併せもったマクロイの面目躍如、快心の一撃というべきものだ。

 マーガレット・ミラー『悪意の糸』(1950)は、いずれも秀作である『鉄の門』(1945)、『狙った獣』(1955)のちょうど中間くらいの作品。この米国ミステリ史における最重要作家の一人であり、邦訳も多数ある作家の現役本が、(本書が出るまで)なくなっていたという事実は悲しい。

 ミラーの尽きない魅力については、「初心者のためのマーガレット・ミラー入門(執筆者・柿沼瑛子)」を是非参照にしてください。

 女医シャーロットの診療所に、ヴァイオレットという若い女が紹介状もなくやってきて、夫ではない男の子どもを身ごもったと告げる。彼女の「頼み」を断ったシャーロットだったが、混乱しきった様子が気にかかり、ヴァイオレットの住まいを訪れると、彼女は二人組の男に連れ出されたと知らされる。

 文章は、簡潔で分かりやすく、映像的。ミラーは「こまごまとした人物描写はしたくない」といい、その理由は、「これまで他の作家たちがわたしよりはるかにうまくそれをやってきたからよ」と冗談めかして語っている(『心憑かれて』の巻末に掲載されたインタビュー)。

 この点で、人物や情景描写が詳細で、そこに散りばめられた想念が魅力的なマクロイの文章とは対照的だが、それはともかく、読者は、速やかに物語の世界に引き込まれ、次第に緊張のペースを増していく展開を見守るしかない。

 主人公シャーロットは健康的で精神的にも満ち足りており、自他ともに認める寛容な性格。ヴァイオレットに「先生には今のあたしみたいな絶望を味わったことはないんでしょうね」といわれたりもするが、シャーロットは妻ある男と交際しているという事情を抱えており、そのことは、やがて彼女を窮地に追い詰めていく。のみならず、彼女の一つの判断ミスが「悪性の腫瘍のように」周囲の人物に影響を及ぼしていくのである。

 作風の模索期でもあるのか、ロマンス風味を加えたと思しき面もあるが、そこはやはりミラー、シャーロットのロマンスの対象である人物すら、なにやら迫害者のように描かれる。

 事態が大きく動きだし、読者の興味が最高潮に達する終章では、ミラーらしさが炸裂。崩壊感覚を伴うような事実が明かされ、登場人物の隠された貌が剥き出しになる。このスリリングなクライマックス、そして会話の凄みは、特筆ものだ。

 ミラーは、本作で、高級住宅街とスラム街、満ち足りた女医と何処かへ逃れたいスモールタウンの若い娘を対比しつつ、豊かさに向かっているはずの50年代のアメリカ社会の現実の中で引き起こされた悲劇を描いた。その流れるような進行は、実は大変厳密に計算されたものであり、シェイクスピア悲劇のように、すべての登場人物が悲劇の進行に加担していたことを後になって知らされるのである。

 真相が明らかになって、薄明の中に宙吊りにされるような感覚を味わせるラスト三行。見事な幕切れというほかはない。

 というわけで、魔女対決。今回の作品では、「驚き」を立ち上げるパワーで、少しだけマクロイに軍配を上げたい。

 が、後期の作品で顕著になってくるユーモアの感覚まで含めると、その懐の底知れぬさゆえ、ミラーを最高魔女にふさわしいと筆者は思っているのである。ミラーの魅力を多くの人に知ってもらうために、私立探偵小説としても完璧、謎解きファンにもアピールする傑作『まるで天使のような』は、是非、復刊してほしいところだ。

 『カクテル・ウェイトレス』は、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などで知られる犯罪小説の巨匠ジェイムズ・M・ケインの遺作。生前に刊行されることはなく、遺された膨大な書類の中から発見され、没後35年の時を経て、2012年に書籍になったものだ。

 女主人公ジョーン21歳は、アルコール漬けでDVを振るう夫を交通事故で亡くす。幼い息子タッドを抱え、収入もなく、電気もガスも止められている状態から抜け出すために、カクテル・ウェイトレスの職につく。ジョーンの前には、年老いた大富豪が現れ、見初められるが、一方で、若くハンサムな青年トムにも心惹かれる。ジョーンはどちらを選択し、自らの人生をどう切りひらいていくのか。

 酒も飲めない若い美貌の母親が見知らぬ世界に飛び込んでいく。ショートパンツや胸を強調したブラウスという水商売の世界になじみ、次第に仕事の要領も覚え、生活も安定してくる−という筋は、一見すると、ロマンス小説か細腕女の自立小説のようだが(そして、そういう側面も確かにあるのだが)、やはり、これは大変ユニークな犯罪小説といっていい。

 夫の事故に関し、ジョーンに疑いをもつ刑事が登場し、彼女の不安感が通奏低音のように物語全体に響いているせいでもあるし、本書の終盤にかけて、実際の犯罪が相次ぐからだ。

 本書に特徴的なのは、ヒロインのいきいきとした一人称での語りだ。両親が紳士録にも載っている良家育ちのジョーンは、状況判断も巧み、ハードボイルドの探偵のように会話も気が利いている。ときに感情を抑えられないのが珠に傷で、店で嫌がらせをしかけてくる青年を叩きのめしたりもする。義理の姉に預けている息子を取り戻し、立派に育つ環境を与えることだけが彼女の行動原理だ。

 彼女の語りの面白さと先読みできない展開にぐいぐい引っ張られるうちに、物語は、セックスコメディめいた色合いすら帯びてくるのだが、終盤に至って予期せぬできごとの連続に唖然、結末の苛烈さには慄然とさせられる。

 彼女は果たして真実を語っていたのだろうか、一読忘れ難い結末は彼女の犯した「罪」にふさわしいものなのかという疑問とともに、読者は取り残される。

 己の感情に忠実に生き、それが周囲に悲劇をもたらすという点では、本書の主人公は、『郵便配達〜』のコーラや『殺人保険』のフィリスといった「悪女」(ファム・ファタール)に、肉声をもたせて甦らせたような作品といえるかもしれない。

 ケイン復興か、という兆候もある。離婚した女がレストランで働きながら娘を育て、富を築いていくという本書と似たような筋をもつケイン原作の『ミルドレッド・ピアース』が、昨年DVD化された。(翻訳は、今のところなし)

 代表作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、今年、光文社古典新訳文庫から池田真紀子訳が刊行され、また、『カクテル・ウェイトレス』と同時に同じ田口俊樹訳が新潮文庫から出た。このノワールの古典を名手二人のフレッシュな訳業で読み比べてみるのも面白いだろう。

 最後に、アリエル・S・ウィンター自堕落な凶器(上・下)』についても、簡単に。2012年のアメリカの新人の作だが、短めの長編による三部構成で、それぞれのパートが、ジョルジュ・シムノン、レイモンド・チャンドラー、ジム・トンプスンという三人の巨匠のパスティーシュになっているのだから、当欄としても見逃せない。

 第一部「マルニヴォー監獄」は、フランスの田舎町が舞台、服役囚連続失踪事件の謎をメグレ警部を模したペルテ警部が追う。第二部「フォーリング・スター」は、ハリウッドの映画界を舞台に、マーロウ風探偵が連続殺人の真相に迫る。第三部「墓場の刑事」は、落ちぶれた作家を主人公が遺産相続に絡んで事件を引き起こす。それぞれの事件は1931年、1941年、1951年に起きており、捜査小説、私立探偵小説、ノワールというように、ミステリの型の変遷を体現している点も興趣に富んでいる。

 シムノンにしては事件が猟奇的すぎ、トンプスンの主人公に作家というのはどうかなどと多少の不満はあるけれど、文体や性格描写、登場人物の出し入れやプロットの癖まで三人の作家に成り切った作家の力量は大したもので、微苦笑が誘発させられる。それぞれの作家の訳文に慣れ親しんだ日本人としてこの長編を楽しめるのには、訳者の力も大いに与っていると思われる。

 三つのパートは、それぞれが独立した長編として読めるが、共通する登場人物がおり、通して読めば、20年間にわたる、ある男の転落の軌跡と悲しい愛が浮かび上がってくる仕掛け。このような大胆にして挑戦的、マニアックな試みが出てくるというのも、文化としてのミステリの蓄積が進み、そのミステリ史のパースペクティヴも成熟してきた証と捉えたい。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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