今回、紹介するのは、米・英に加えて、イタリア、オーストリアの作品の4冊。現代ミステリと同様に、クラシック発掘の試みもグローバルなものになり、思いもよらなかった謎とロマンの世界が拓かれていくようだ。

 レックス・スタウト『黒い蘭』は、アメリカ人にもっとも愛された探偵といわれたネロ・ウルフ登場の中編三つと一つのエッセイを日本独自編纂したもので、ウルフ物の中編集としては初の刊行になる。

 蘭と美食を愛するこの巨漢の名探偵の個性を挙げていったらキリがないほど。第一作『毒蛇』(1934)から40年にわたって続いたシリーズの魅力を決定づけるのが助手アーチー・グッドウィンの生き生きとしたナレーションで、スタウトは、ワトソン役も主役を張るミステリを発明したともいえるだろう。

 本中編集は、蘭、美食、美女(こちらはもっぱらアーチーの趣味)を素材にした、ネロ・ウルフ物の特徴がよく出たセレクト。

「黒い蘭」は、フラワーショーでの殺人を扱っている。事件のための外出は断固拒否のウルフも、珍種の蘭のためとあれば外出も辞さず、ゴマすりすら厭わない。容疑者の女に「安っぽいクラーク・ゲーブル」と評され、目を白黒させるアーチーの姿も見物。『料理長が多すぎる』に登場した幻の美味も登場する。「献花無用」は、なじみの料理店主の懇請で外食チェーン店の経営をめぐる殺人事件に乗り出す。パズラーとしても優れた一編で、タイトルにこめられた意味合いが余韻を残す。初邦訳となる「ニセモノは殺人のはじまり」は、偽札づくりにまつわる謎。アーチーやウルフまで手玉にとるお婆ちゃんのキャラがとにかく痛快。

 めったなことでは動かぬ探偵と常にやきもきしながらスマートに乗り切るその助手のコンビネーションは、陽気でユーモラス、ウェルメイドなミステリの魅力を発散する。

 ウルフ物の中編は、40編を超え、雑誌で訳されたままになっているものも多い。本中編集編に続く、第二弾も用意されているらしいから、そちらも楽しみに待ちたい。

 第一作『死の扉』は創元推理文庫、『ジャックは絞首台に!』は現代教養文庫、『骨と髪』は原書房、と版元がバラバラになっている、レオ・ブルースの「歴史教師キャロラス・ディーン」シリーズだが、今度は、扶桑社ミステリーが新たな紹介者として名乗りを挙げた。文庫での上梓は大歓迎である。

 そのディーンシリーズ第三作『ミンコット荘に死す』(1956)は、英国本格ミステリらしい興趣溢れる快作。

 イギリスののどかな田舎で、誰からも嫌われている男が銃による死を遂げる。果たして自殺なのか殺人なのか。歴史の授業よりも探偵活動が大好物のキャロラスが乗り出して——と筋運びはきわめてオーソドックス。関係者にインタビューが続けられ、不自然な死の状況が明らかになったところに、第二の殺人が発生。キャロラスによる、どこかのんびりとした捜査が綴られていく。

 終盤に指しかかったところで容疑者を集めたパーティが開かれるが、参加者は14人という異例の多さ。一癖も二癖もある登場人物を描き分け、はんなりしたユーモアを交えてスムーズに進める筆の運びは、さすがである。

 容疑者の数が飛び抜けて多い以外は見慣れた筋ともいえるのだが、そこはブルース、終幕では、豪打一振、作者の胸底に秘めたねらいが明らかになる。

 作者のもう一つのシリーズ、ビーフ巡査物に顕著だが、レオ・ブルースの大きな魅力は、豪快なプロットにあると思う。ここでいう「豪快」とは、例えばクリスティの傑作群のように、作品のねらいをごく短いセンテンスで要約できる、ということなのだが、本書のねらいも、読後、膝を打ちたくなるようなものだ。先例も思い浮かぶとはいえ、本作は、手がかりもミスディレクションも巧妙に埋め込まれており、キャロラスの謎解きによって示される事件の構図は、幾何文様のように美しい、といってしまいたいほど。

 シリーズの紹介が進んできたことで脇役陣もおなじみ感を増しており(常にギャグを飛ばそうと身構えている校長夫人が特に好み)、これまでの読者は作品世界により親しみを感じるのではないだろうか。

事件の関係者に甘味好きが多くスイーツがたっぷり出てくるが、そちらの同好の士には別の意味でも楽しめるのでは。作者がスイーツ好きに寄せる視線は、かなり意地悪なものだとしても。

 ジョルジョ・シェルバネンコ『傷ついた女神』(1966)は、イタリアで「国産ノワールの父」と呼ばれているという作家の代表作で、元医師ドゥーカ・ランベルティ・シリーズの第一作。近年でこそ、イタリア産ミステリは少しずつ紹介されているが、60年代の作品となるときわめて珍しい。同じくドゥーカシリーズの第二作『裏切者』(『世界ミステリ全集12』収録)ほか数えるほどしかない。

 『裏切者』は、68年にフランス推理小説大賞の翻訳作品部門で受賞した作品だが、実際は、本書『傷ついた女神』が選ばれており、作者がパリ行きを断ったため見送られ、改めて二作目の『裏切者』での受賞になったという。

 舞台はミラノ。ある女店員の死にまつわるプロローグの後に続く、滑り出しが出色だ。

 安楽死に関わって医師免許を奪われ、三年間の刑務所暮らしをしたデュカは、出所早々、資産家の息子のアルコール中毒の治療を引き受ける。青年はなにごとにも従順で中毒に陥る理由は見当たらず、なんらかの秘密をもっているようなのだが、頑なに口を閉ざす。治療を放棄する寸前のデュカだったが、ある事件をきっかけに、青年はある女の死にまつわる顛末を語り出す…

 アル中の非公式の治療という奇妙な依頼により心を閉ざす青年から秘密を探り出すというというシチュエーションは、自らの正義を実行したためにすべてを失ってしまった男デュカのよるべなき心情と重ね合わされ、作品の底を流れる冷え冷えとした情感につながっている。

 青年の告白から女の死に関する疑惑が深まり、やがて巨大な組織犯罪が浮上する−という展開は、後の小説やドラマで反復されすぎ、さすがに色褪せた感があるが、デュカの孤独な捜査は、彼自身の正義のため、青年を救うための「怒り」の探索であり、自らの尊厳のための闘いでもある。戦後日本同様、急速に復興を遂げた華やかなミラノ、そしてその裏側の情景も鮮烈だ。協力者のカルア警視やリヴィアらのキャラクターも強い存在感を放ち、すぐに第二作にとりかかりたくなる。

 本書の後に付された作者の短い半生記には、ロシア人の父とイタリア人の母をもつこの作家の苦難の生い立ちと創作の背景が記され、イタリア国産ミステリが勃興した土壌を知るのに役立つものになっている。

 反ミステリ、あるいは反探偵小説。なんとも魅惑的な言葉だ。

 オーストリアの作家、アレクサンダー・レルネット=ホレーニア『両シチリア連隊』(1942)に、「反ミステリの金字塔」「夢と論理が織りなす、世の終わりのための探偵小説」とうたった帯が巻かれているとあっては、これは手にとらずにはいられない。

 反ミステリとは何か。正統的な定義があるわけではない。ここでは、ひとまず、本格ミステリを念頭に置き、「探偵が」「謎を」「世の論理によって」「意外な形で」「解決する」物語に、一つあるいは複数のアンチを突きつけ、ミステリの常識、約束事に揺さぶりをかけるミステリとしておく。本書の解説で挙げられている中井英夫『虚無への供物』を筆頭に、海外作品では、ノックス『陸橋殺人事件』マケイブ『編集室の床に落ちた顔』ビュートル『時間割』ボルヘス『伝奇集』の諸作ホセ・カルロス・ソモサ『イデアの洞窟』など思い浮かべる作品は、人それぞれだろう。

 長々と読まされて「解決がない」などというのは、まずつまらないから、緻密な推理や手がかりの布置、驚きの提供など、ミステリの醍醐味を押さえたものが読者としては望ましい。

 それでは、『両シチリア連隊』とはどんな小説なのか。

 1925年二重帝国後崩壊後のウィーン。かつて両シチリア連隊に所属していた将校が邸宅の一室で首を捻られて殺害された。その六日後には、事件を調べていた元連隊の少尉が行方不明となり、さらに続けざまにかつての将校たちが悲運に見舞われる。事件の背後に秘められた衝撃の真相とは。

 一読不可思議な小説だ。「変な小説」愛好家の中には熱心なファンが出てくるかもしれない。

 本書に関しては、ミステリに非ず、という視点も存在すると思う。

『モナ・リーザ・バッゲ男爵他 ホレーニア短篇集』(創土社)解説の前川道介氏は、幾つかの作者の犯罪小説にも触れたのち、本書にも言及し、「謎めいた発端から、現在と過去を、生と死の関係、運命の不可思議を絵巻物にした」とし、ミステリ的側面には触れていない。

 確かに結末で警部によって謎が解かれ、事件の周囲に出没するドッペルゲンガーのような人物の正体をめぐり、大変に入り組んでいて眩暈のするような真相も明かされる。

 しかし、純粋なミステリとみなすには余剰の部分が多すぎる。かつての連隊の将校ら7人それぞれにスポットが当たり各章の主役として悲運に見舞われていくのだが、生と死、時間をめぐる哲学的思索や議論、夢、幻視、不思議な挿話が挟み込まれ、ストーリーはよどみ、進行は遅延する。暗喩や象徴らしきイメージが張り巡らされ、地球終末のヴィジョンまでが現出する。

 元連隊の将校たちは、死すべき運命を引き延ばされ、一次大戦後の混乱した世界に佇み、無時間の中を生きているようでもある。風変わりな恋愛小説としても読めなくもないが、本書のヒロインというしかない連隊長の娘は奇妙なほどに存在感が欠けている。

 併せて読んでみた同じ作者の代表作『白羊宮の火星』も、ナチス・ドイツのポーランド侵攻を描いた小説ながら、生者と死者の混淆、時間をめぐる思索、幻視体験、うつろな恋人など本作とモチーフは共通するものが多い。 

 本書は、ミステリ仕立ての怪建築、早すぎたマジック・リアリズム小説というところが実相かとも思うが、『虚無への供物』を引き合いに出し本書の歴史的な位置付けをを含め説得力豊かに論じている本書の訳者・垂野創一郎氏の「反ミステリの金字塔」と題する解説を読めば、ミステリ読者としては、俄然面白くなる。「反ミステリ」という見方に与したくなる。

 乱雑な不調和のようでいて、想念や夢、詩的イメージが響き合っているような不思議な世界の中で、「ともかく私はすべての出来事のつながりを確信しています」ゴードン警部はこう断言する。

 ミステリの論理(ある種の強迫観念と言い換えてもいい)は、ときに幻想を産み落とす。

 「すべての出来事のつながり」の説明のために、ミステリの論理が召還されるが、論理はまた途方もない奇譚を呼び起こしてしまう。幻想が論理を要請するが、論理は自ら産んだ夢幻のような奇譚の裡に蒸発してしまう。本書で起こっているとのは、そうした事態ではないだろうか。

 とまあ、これは、「反ミステリ」という魅惑のことばに反応した筆者の一つの幻視にすぎない。

 レルネット=ホレーニアの描き出した謎めいた世界を飛翔しようとするミステリ読者には、「反ミステリ」と小さくつぶやいてみることを推奨する次第。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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