■懐かしい宇野節

 ぼくが初めて宇野先生とお仕事をさせていただいたのは、入社早々、昭和45(1970)年の春でした。上司から宇野先生の担当になれ、と言われ、道順を教わって初めて田園調布のお宅にうかがった時のことをはっきりと覚えています。今は新しい駅舎になってしまって面影がありませんが、かつては瀟洒な造りだった田園調布駅の西口を出ると、いわゆる高級住宅街へと続く道が放射線状に走るロータリーが目の前に開けています。それを駅から直角に進み、声楽家の五十嵐喜芳や作家の石坂洋次郎邸を左手に見ながら進むこと10分ほどで到着するのですが、初めての時には迷って倍くらいの時間をかけて漸くたどり着きました。インタフォンを押すと、腰の低い奥様が応対に出てこられ、玄関の脇からすぐ二階へ上がる階段のとっつきにある先生の仕事部屋に通されました。暫し待つうちに着流し姿の先生が姿を現わされたのです。長い顔と、大きな耳が印象的でした。

 昭和45年9月11日初版のJ・G・バラード『狂風世界』が、ぼくにとって記念すべき宇野先生との初仕事でした。そして翌月には、立て続けにイーデン・フィルポッツの名作『赤毛のレドメイン家』を、さらに同年年末には『カー短編集2』(現在は『カー短編全集2/妖魔の森の家』と改題)という具合に、先生のお仕事が続きます。『赤毛のレドメイン家』は、創元推理文庫創刊時から売り続けていた大岡昇平訳を、大岡先生からお申し出があって絶版としたため、中央公論社の「世界推理名作全集」に収録された宇野訳を頂くことになったのです。またカーの短編集は、ぼくが入社する直前に1巻が刊行されており、すでに3巻本の構想は立てられ、先生への依頼も終わっていました。ぼくは謂わば実務を引き継ぐ形でお付き合いをさせていただいたのです。

 その翌年から、R・E・ハワードのコナン・シリーズがスタートします。数年前から始まっていたヒロイック・ファンタジイものの目玉となる作品がこれで、スペース・オペラ・ブームを引き継ぐ形で、それは始まりました。ハヤカワ文庫でも荒俣宏(団精二)、鏡明両氏を中心にした翻訳が刊行されていて、それと競うような形になり、宇野先生のいつもながらの静かな物言いの中にも密かな闘志が感じられました。昭和46年には、コナンを3冊やっていただいています。それが2年目の47年になると、ややお疲れになったか、コナンは1冊きりで、そのかわり、というわけでもないのですが、ウィリアム・アイリッシュの短編を先生の既訳分で纏める、という形のお仕事を一本挟むことになりました。

 そして、昭和48年にはコナンが2冊、49年にコナン1冊とカー短編集の3巻、50年にはそのカーの新作『死の館の謎』——という具合に続いて、60年の『ホワイトストーンズ荘の怪事件』が宇野先生との最後の仕事となりました。その後も、マイケル・イネスのLament for a Makerや、(何と!)ドゥーセ『スミルノ博士の日記』のスウェーデン語からの原典訳……といったふうに、ご相談した企画はいくつかあったのですが……。

 結局16年間で21点、それに共訳もの5冊のお付き合いでした。

 宇野先生は、藁半紙に青のボールペンで書かれた原稿を奥様が清書されて完成します。できましたというお電話で田園調布にうかがうと、綺麗に清書された東京創元社の二百字詰め原稿用紙(これをペラと言います)の束を渡してくださるのでした。

 先生の翻訳は、よくこなれた大変読み易いものでした。この仕事に就いて以来、よい翻訳ほど平明で、いかにも凝りに凝った、という感じの難しい日本語を駆使するのがいい翻訳ではない、ということを思い知らされました。それは翻訳の極意のようなものでしょう。

 ただし、こちらは編集者一年生で、まだ生意気盛りの頃でしたから、いろいろと鉛筆書きのチェックを入れて著者校正をお願いします。一週間ほどすると、先生から校正が上がったから取りに来なさい、というお電話があり、田園調布のお宅にうかがうと、先生の机の上にはゲラと一緒に何種類もの分厚い辞書が載っていて、君、ここはね、こういうイディオムがあって……と、辞書の該当個所を開きながら説明されるのです。要するに、こちらの浅学非才をやんわりと指摘されたのです。恥ずかしさに頬を赤らめながら、それでも先生のその翻訳に対する姿勢には頭の下がる思いでした。

 それからは翻訳のことでわからないことがあると、先生のお宅に電話をするようになりました。すると先生は、ちょっと待って、今書き取るから、とおっしゃる。現在のようにFAXの普及していない時代でしたので、先生は電話口でぼくが読み上げる英文を書き取ってくださいます。そして、では調べてこちらから連絡しましょうと言って切られました。待つこと暫し、先生からお電話があり、まず訳してみるとこうなります——と訳文を読み上げられてから、英文法の時間を思い出すような、講義が始まります。ここの構文は、こういう意味。これはオクスフォードを引くとこうあるから云々……。それが楽しくて、先生のお仕事ではないのに、何度もお手を煩わせることになりました。

 かくして、この原文は、実はなんという出典の文章を踏まえて、作者はこういうことが言いたかったのだ、という〈読みの学〉を翻訳を通して教えていただいた気がします。若造の編集者を、先生は根気よく鍛え上げてくださったのです。

 宮田昇さんの『戦後翻訳風雲録』(新旧二版あり)には、宇野先生の怪人物ぶりが描かれています。確かに先生は無類の噂好きで、また策士と呼ぶに相応しい面がありました。その辺は師弟関係にあった稲葉明雄さんについて書くときにお話ししたいと思いますが、ここではその先生の性格が多分に訳文にも反映していて、翻訳に誤訳はつきものですが、宇野先生のそれは一拈りも二ひねりもしたものであったと書くにとどめたいと思います。

 ある時、先生のお宅にうかがうと、そこには渡辺剣次氏や松村喜雄氏などが顔を揃えていました。古澤仁さんのお宅で定期的に開かれていた集まりにご一緒したこともあり、阿部主計氏や俳優の佐々木孝丸氏などとお目にかかったのもその席上ででした。江戸川乱歩主催の土曜会のメンバーでもあったという古い交友関係の一端を垣間見る思いでした。

 晩年の十数年は、どちらかというとお仕事以外のことでお話しする機会が多くなりました。ある時お電話をいただき、聞きたいことがあるから、都合のいい時に寄ってくれ、とのこと。数日してうかがうと、君のお母さんが白内障の手術をされた、と聞いたが、どんな具合だったか、詳しく話してくれとおっしゃいます。その後何度となく先生から母の様子を聞かれました。が、結局、先生は白内障の手術をなさらないままだったようです。大変用心深い、というか、少々臆病なところがある方でした。

 また、君も最近はワープロをいじっているそうだが、一度来て家内に教えてやってほしい、と言われたことがあります。うかがうと、一階の居間にデスクトップの立派な器械があり、どうも何かの操作ミスでソフトを壊してしまったようでした。そもそもは早川書房の菅野圀彦さんが、先生これからはワープロの時代ですよ、と無責任に勧めたらしいのですが、先生ご自身は相変わらず藁半紙に下書きをする、というやり方を毫も変えるお気持ちはなく、そんなに便利なものなら家内の清書用に導入しようか、ということになったようで、原稿用紙に印字できる機種を買ってこい、と奥様に指示されたとうかがいました。

 といった具合で最後の十年ほどは、もっぱらお仕事以外の用でお邪魔し、鰻重などをごちそうになって帰ってきたのですが、翻訳の話が全く出なかったわけではありません。その中心は、ジュリアン・シモンズのBloody Murderでした。このヘイクラフトの『娯楽としての殺人』と並ぶ推理小説史の労作を長年に亘って手がけられていた先生は、しばしば電話をかけてこられ、今これこれの章をやっているが、ついては何と何を読んでおきたい、というので該当の本をお届けすると、また暫くしてお電話があり、君、チャンドラーは本格だね、などとおっしゃる。その宇野節が堪りませんでした。

 先生はいつも昼過ぎにお目覚めになり、食事を摂ってから徐に手紙をチェックしたり、本を読んだりされ、お仕事は夕食後に始めて、朝方、朝刊が配達になるとそれに目を通してお休みになる——そういう日課だったようです。

 先生にはほかにいくつかのペンネームがありました。一番重要なお仕事は、本名(太田稔治)に近い太田稔という筆名でしょう。早川では宇野名義でされているソール・ベローの『犠牲者』『宙ぶらりんの男』を新潮社でなさっているほか、『ハックスレー短篇集』などをこの名義で出されています。また多田雄二というペンネームでは、早川書房でナポレオン・ソロ・シリーズの『ソロ対吸血鬼』などがあり、これは一部マニアの間で隠れた傑作(?!)と評判を呼んだ作品です。

戸川安宣(とがわ やすのぶ)

1947年長野県生まれ。立教大学文学部史学科卒。1970年東京創元社入社。2012年定年退職。主な著作『少年探偵団読本』(情報センター出版局 共著)。日本推理作家協会、本格ミステリ作家クラブ、SRの会会員。

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