■菊池光さんの想い出

 フランシスの競馬シリーズや、パーカーのスペンサー・シリーズの翻訳家、菊池光さんが亡くなって(2006年6月16日)、早いものでもう8年になります。

 菊池さんが突然、翻訳家として鮮烈なデビューを飾ったのは、昭和43(1968)年、ギャヴィン・ライアルの『もっとも危険なゲーム』(ハヤカワミステリ)ででした。当時ぼくは大学のミス研と全国的なミステリファンダムSRの会に入っていて、早川書房や東京創元社にちょくちょく顔を出していました。その頃、早川書房のミステリ部門責任者はのちに作家となる常盤新平さんで、たぶん『もっとも危険なゲーム』が出た直後だったと思いますが、これは菊池さんの持ち込み企画だ、ということをうかがった覚えがあります。ライアルはひきつづき『深夜プラス1』が出、さらに菊池さんは競馬シリーズの初紹介作品『興奮』を訳し、当時のミステリファンを熱狂させました。実際、菊池さんの翻訳する作品はどれも面白かったし、そのほとんどの作品は菊池さん自身がセレクトしているらしい、という噂が、菊池光という新進翻訳家に一層の箔を付けることとなったのです。

 そして44年、ぼくはSRの会の機関誌「SRマンスリー」に菊池さんを引っ張り出しました。新橋演舞場前の料亭を予約し、東京近郊の会員数名が菊池さんを囲んでお話をうかがいました。その中で印象的だったのは、菊池さんがイギリス作家の作品の底に流れるunderstatmentということを強調されたことでした。そのお礼に、静岡のお宅までうかがいました。その頃、菊池さんは完全に通訳は辞めていましたが、まだ公務員住宅に住んでいて、勝手にクーラーなど入れられないんですよ、とこぼしていたのを思い出します。

 通訳時代のお話も、断片的にですがうかがいました。経団連会長の土光敏夫さんなどから名指しで通訳を務めていた後輩の河合裕さんを紹介してくださったのも菊池さんです。欧米と日本の一番の違いは匂いだ、と菊池さんはおっしゃっていました。ニューヨークなどでは男の吸う葉巻と女の化粧の匂いが街中に充満している。それが日本にはない、と。

 翌年、ぼくは東京創元社に入社し、今度はいきなり翻訳家と編集者という関係でお会いすることになりました。その当時、翻訳権仲介業の日本ユニ・エイジェンシーが翻訳家のエイジェント業にも手を伸ばし、東京創元社にも何人かの人材を斡旋してきたのです。池央耿、高見浩といった新進翻訳家の中に菊池さんもまじっていて、ぼくが担当することになってお目にかかったとき、菊池さんはほーっ、と意外そうな顔をされました。ただし、東京創元社は早川とは違って、菊池さんのやりたいものではなく、こちらからこれをやってくれますか、という形でお願いする仕事ばかりでした。最初に何を依頼したか覚えていませんが、想い出すままにざっと書名を上げてみましょう。

 フレドリック・ブラウン『殺人プロット』、ハドリー・チェイス『クッキーの崩れるとき』ほか、ロス・マクドナルド『暗いトンネル』、エリック・アンブラー『暗い国境』、ジョン・ブラックバーン『小人たちがこわいので』ほか、テッド・ウィリス『チャーチル・コマンド』、M・D・ポースト『アブナー伯父の事件簿』、エドワード・D・ホウク(ホック)編『風味豊かな犯罪』、ジェームズ・パタースン『モスクワ・オリンピック襲撃』、H・R・ハガード『黄金の守護精霊』、ジョージフ・ディモーナ『核パニックの五日間』……

 菊池さんの訳業の中では、角川で出されたジョン・チーヴァーなどに並んでかなり変わった部類に属すると思います。なんといっても、ハガードからポーストまでやっていただいたのですから。菊池さんは文句一つ言わず引き受けてくださったのですが、ごくたまに作品のプロットに触れ、これは破綻している、と指摘されることがありました。逆に気に入っていただいたのはブラックバーンだったと思います。ぼくは自分が企画したシャーロック・ホームズのライヴァルたちシリーズの一冊、ポーストの訳業が気に入っています。アブナー伯父の西部小説風な雰囲気が、菊池さんの訳文で良く活かされたと思うのですが。

 忘れられないのは1980年に刊行したジェームズ・パタースンの『モスクワ・オリンピック襲撃』です。アメリカでオリンピック開催直前に、ヒットを当て込んで刊行された企画ものの作品でしたが、ソ連(現ロシア)のアフガニスタン侵攻に反対した西側諸国などが参加をボイコットし、この作品は見事に夢物語となってしまったのです。

 もう一つ、菊池さんというと思い出すエピソードは、やはりユニの紹介でお願いすることになった佐和誠さんと組んで、デストロイヤー・シリーズをやっていただくことになっていたのです。当時、先に名を挙げた池・高見コンビでマック・ボラン・シリーズを刊行したように、シリーズ物を二人がかりで交互にやってもらおう、と考えていました。神楽坂でお二人の訳者と厚木、ぼくの四人で酒席を設けたのですが、そこでは和気藹々と佐和さんが先に始めることに決まったのです。ところが、できあがった原稿を見ると、これがまったくの佐和調で、菊池さんにこれに合わせていただくのはちょっと難しいのでは、と思われたのです。菊池さんも第一巻のゲラを読んで逡巡し、佐和さんも自分の色を出し過ぎた、とひたすら平身低頭。結局これは佐和さん独りでやっていただくしかない、ということになりました。そういう裏事情があったのですが、これが菊池さんが先ということになっていたら、菊池版デストロイヤーが見られたわけです。

 そのあと、菊池さんは神戸に引っ越されました。そして大阪で翻訳学校の講師を引き受け、ランキンなどの翻訳で知られる延原泰子さんたちを育てたのです。

 デビュー以来、菊池さんはコンスタントに年4、5冊の翻訳を仕上げていました。多作、多産の作家や翻訳家は、とかく拙速という印象を与えがちですが、菊池さんについて言うと、きちんとした生活管理の上にその仕事は成り立っていました。菊池さんは朝が早い。6時前には起きて、朝食までの間に一仕事されます。昼を食べると、昼寝をして夕方までまた机に向かい、晩酌後はテレビで野球を観戦したりして、仕事はしない——こういうスケジュールで月に20日は仕事をされていました。厚さにもよりますが、1冊を2月から3月で仕上げていたのです。そういう日課を知っていましたから、ぼくは朝一番に連絡を取りました。当時の東京創元社は9時−5時のきちんとした勤務態勢で、ぼくはたいがい8時半には出社していました。編集者としてのぼくが菊池さんにかわいがられたのは、一にぼくが早くから社にいて、朝から連絡が付くからでした。菊池さんは一つ翻訳があがるとそれを持って上京し、それから暫く休みを取る。静岡に住んでおられた頃は伊豆に、関西在住の頃は淡路島に、甥御さんや姪御さんを呼んで遊びに行かれました。菊池さん自身は釣りを愉しんでいたようです。そして帰るとまた次の翻訳に取りかかる——そういうスケジュールのきちんとした翻訳家でした。編集者にとって、一番ありがたい翻訳家は、仕事の期日のきっちりした人です。菊池さんはそういう意味でピカイチでした。

 こうして、ライアル、フランシスに始まり、ロス・マクドナルド、ジャック・ヒギンズ、ロバート・パーカー……単発でも、『シロへの長い道』『ディミトリオスの棺』『生き残った一人』『羊たちの沈黙』『懐かしい殺人』、ヒッチコック最後の映画になるはずだった『短い夜』……と、ちょっと思い出すだけでも大変な数の作品を手がけたのです。

 ぼくが翻訳について一番議論した翻訳家は菊池さんだったかもしれません。菊池さんの翻訳は、端的に言うと原文からなにも足さない、なにも引かない、を原則としていました。原文の会話の間にHe said, ないしShe said,が挿入されていると、菊池さんはこれを「彼は言った、」「彼女は言った、」と読点をつけて訳されました。ぼくにはこれが馴染まず、生意気にもクレームを付けました。日本語で「言った」と言い切るのなら句点で止めるべき。読点にするなら、例えば「と彼は言って、」とすべきでは、と。そうですか、と言って菊池さんは東京創元社の仕事では句点で止めることを赦してくださったのです。

 大阪にお尋ねしたとき、それなら教室を覗きませんか、とお誘いを受けました。そこでサイマル主催の翻訳教室にうかがったのですが、東京の編集者が来てくれたと言って二十分ほど話をさせられました。それをそばでにこにこしながら聞いておられた菊池さんが、終わってからほう、少し考え方が変わられましたね、とおっしゃいました。どんなところを指して菊池さんがそう言われたのか、今もってわかりません。

 仕事のお付き合いがなくなってからも、菊池さんは新茶の季節になると、忘れずにお茶を送ってくださいました。亡くなった2006年にも頂戴し、そう言えば最近、新しいお仕事に接していない気がして、いつものような葉書のお礼ではなく、少し長めの手紙を認めました。新茶の季節だから、5月か6月のことだったと思います。それを読んでいただけたのかどうか。享年81でした。

戸川安宣(とがわ やすのぶ)

1947年長野県生まれ。立教大学文学部史学科卒。1970年東京創元社入社。2012年定年退職。主な著作『少年探偵団読本』(情報センター出版局 共著)。日本推理作家協会、本格ミステリ作家クラブ、SRの会会員。

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