Le chien jaune, Fayard, 1931 [原題:黄色い犬]

『男の首 黄色い犬』宮崎嶺雄訳、創元推理文庫Mシ1-1(139-1)、1969(合本)*

『黄色い犬』永戸俊雄訳、ハヤカワ・ミステリ158、1955

『黄色い犬』宮崎嶺雄訳、創元推理文庫151、1959

『黄色い犬』中島昭和訳、角川文庫503-2、1963

『黄色い犬』木村庄三郎訳、旺文社文庫610-1、1976

Tout Simenon T16, 2003 Tout Maigret T1, 2007

映画『黄色い犬Le chien jaune)』ジャン・タリド監督、アベル・タリド、ロジーヌ・ドレアン出演、1932

TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1968(第3話)

 創元推理文庫のさらなる名物といえば、かつて巻末に掲載されていた「文庫データボックス」の、どこの誰ともわからない女性たちが繰り広げるミステリー放談であった。本編を満足して読み終えたら、ここで彼女たちが作者を思いっきり馬鹿にしていたりして、「これって販売促進には逆効果じゃないの? 東京創元社って大丈夫なの?」と人ごとながら心配したものだ。

 ジョルジュ・シムノンの単発作品『猫』(創元推理文庫Mシ1-4、1985)にも、そんな女性たち三名による恐るべき鼎談が掲載されている。「女子大生はチャターボックス 猫は孤独のお友達」(巻末pp.1-8)である。

みはる それにしても、筆力があるのにどうしてメグレはつまらんのだ。

つかさ 言ってはいけないことをーっ。

みはる あらそうなの? でもつまんなかったわよ、何故か。

けい わたしは『男の首 黄色い犬』を読んでメグレやめたもんね。

みはる シムノンであと面白かったのって、『雪は汚れていた』だけかなあ。とにかくメグレって、ダメなのよね。(中略)あたしは警察小説がとっても好きで、それもアメリカのものより、ヨーロッパもののほうが好きなんだな。(中略)何というか静かで、どかどか走り廻ってない警察小説が──(中略)。

けい そうは見えない、と。

みはる そう。一人一人の人間が魅力的に描かれていなけりゃ困るし、それにヒーローはいらない。

けい 要はメグレに人間的魅力を感じないってことね。流暢に描きすぎてるからかな。(中略)しかしメグレ・ファンてのは知識人に多そうじゃない? それこそあとが怖そう。

みはる つまらんのだからしようがない。だって、あたしがフランス・ミステリ嫌いなのって、メグレとカトリーヌ・アルレーのせいだもの。

つかさ ほっらあ、そうやって敵をふやす。

 この女子大生のお姉さんたちは、いまどこで何をなさっているのだろうか……。そしてこの鼎談から幾星霜、シムノン作品でもっとも有名である創元推理文庫の『男の首 黄色い犬』さえ品切れとなった。

 本作『黄色い犬』は、同じくメグレものの『男の首』とともに、江戸川乱歩が高く賞賛した作品として知られる。乱歩の評価があったためだろうか、いまでもシムノンの代表作といえばこの2作であり、おそらくミステリーのオールタイムベストを選ぶ際にはこの2つのうちのどちらかが入ることになるのだろう。ただ一方で、特に『男の首』は、戦前の映画『モンパルナスの夜』(1933)の人気やそれを受けた乱歩の言葉に引っ張られて過大評価されているとの見方もあるようだ。

 実際のところはどうなのか。私は『黄色い犬』も『男の首』も読んだことはなかった(子供のころにリライト版を読んだかもしれないが忘れた)。だから今回初めて『黄色い犬』を、5冊目のメグレシリーズとして読んでみて驚いた。

 これまで作者のシムノンは一冊ごとにがらりと趣向を変えてきた。『怪盗レトン』は国際謀略ものの雰囲気で始まり、『死んだギャレ氏』では物理トリックが検討されていた。『サン・フォリアン寺院の首吊人』は冒頭の時系列を巧みに操作しつつサスペンスを盛り上げた哀切な青春ものでもあったし、『メグレと運河の殺人』は犯人当ての妙味を捨ててまで市井の人々の悲哀を描くことに力を入れていた。

 そして5冊目の『黄色い犬』はなんと本格推理小説、しかも連続殺人事件の衣をまとった作品だったのである。

    *

「なんて恥知らずなまねをするんだよ……! みんな始末書をとってやるといいんだ、警部さん……! かわいそうに、みんなでその犬をいじめにかかって……。そのわけはちゃんとわかってるよ、あたしにゃ……つまり、その犬がこわいのさ……」

 事件の舞台はコンカルノーという、ブルターニュ半島南岸の漁港である。実際に地図で確かめると、パリからかなり遠く感じられる。西南西へル・マン、レンヌないしナントを抜けて、さらにその先だ。捜査にあたるメグレにとっては、まさに最果ての地のように感じられたかもしれない。またパリに住む読者にとってもそれは同様であったのではないか。

 このコンカルノーで、11月の真っ暗な夜更けに、ひとりの酔っ払いが千鳥足で歩いている。彼は煙草を吸おうと、風をよけてとある玄関口に近づき、マッチを擦ろうとする。そのとたん彼は銃で撃たれてしまったのだ。

 男は直前まで《提督》ホテルで仲間とカードゲームに興じていた。撃たれた男は人々から慕われており、襲われる理由など見当たらない。カードゲーム仲間のひとりに「ドクトル」と呼ばれる男がおり、彼が救急処置を施したが、事件の目撃者である税理士が困惑したのはなぜか大きな黄色い犬がずっとまつわりついてくることだった。誰もその犬の素性を知らない。

 翌日、メグレ警部[訳文は警部に戻っているが、原文はいままでと同じくCommissaire Maigret]が部下のルロア刑事とともに、コンカルノー市長の要請を受けて現地入りする。メグレはホテルのカフェで被害者のカード仲間に聞き取りを始める。ウェイトレスはエンマという24 歳の孤児の女性だ。ところがそのとき通称「ドクトル」のミシューが、皆のグラスに薬が混入していることに気づき、場は一時混乱する。大量のストリキニーネが入っていたのだ。そしてまたしても犬の影が……。

 雨の降るコンカルノー。翌日、町は大騒ぎとなっていた。地元新聞に「恐怖のちまたと化したコンカルノー 連日の怪事件 本紙記者ジャン・セルヴィエール失踪す 自動車内に血痕 次は誰の番か?」なる見出しが踊ったのである。自動車の件などメグレさえ知らなかったことだ。姿を消した記者とは最初の被害者のカード仲間である。急いで新聞社に電話すると、どうやら匿名の通報があったらしい。連続殺人事件に発展しかねないと知った町人たちは、やがて凶事の象徴のように出現する黄色い犬を恐れ、また町外れの小屋にひっそりと暮らす大男に疑惑の目を向け始める。町にはよそから大勢の野次馬記者が詰めかけてくる。メグレを呼び寄せた市長はパニックを恐れ、早く事件を解決してくれと迫るようになった。

 やがて町人たちによって黄色い犬は暴行を受ける。人々の猜疑心が爆発したのだ。そして最初の被害者のカード仲間であったドクトルも、自分が殺されるのではないかと怯え出す。市長に圧力をかけられるメグレはいったんドクトルに逮捕状を出し、彼を監房に隔離することでその場を収めたが、さらなる事件が町で発生した。本当に大男の仕業なのか? メグレはウェイトレスのエンマが事件の鍵を握っていると考え、辛抱強く捜査を続けてゆく……。

 このように本作はまさに王道の連続殺人ものというべき体裁を持っている。いままで5作のメグレものを読んできたが、今回初めて最後の謎解き場面まで犯人がわからなかった。その意味で本作は本格探偵小説の文脈で読まれてきたとしてもまったくおかしくない作品だ。ミステリーというジャンル内の言葉で語りやすい作品であるともいえる。だがそれだけではないということを私はこれから述べていきたい。

 タイトルにもある「黄色い犬」は、まさに英語で書けば the yellow dog だが、実際は黄色ではないらしい。旺文社文庫版・松村喜雄氏の巻末解説から引用する。

(前略)桶谷繁雄氏によると、黄色い犬(シアン・ジョーヌ)とは、赤犬のことだそうである。しかし、この標題は、日本語として黄色い犬の方が面白い。赤犬では、さまにならないからだ。小説の舞台はコンカルノーで、相容らず、「街は寝しずまっている」「風は街から街へと吹きこみ」「ホテルの三つの窓だけが、まだうす明るい」という書き出しで始まる。いわゆる、シムノンぶしといわれる、雰囲気描写である。(中略)

 この書き出しはいかにもシムノンならではのもので、マルセル・カルネの第一作映画、「霧の波止場」はシムノンのこうした雰囲気描写に影響されたといわれ、シムノン自身は、ルネ・クレールのパリの下町描写に影響を受けたといっている。

 上記巻末解説において、村松氏はわずかながら最後の最後で「真の犯罪者(原文傍点)」に言及し、メグレがそれを厳しく裁いていることを指摘している。

 実は本作は、極めて恐ろしい真実を主題としている。それは私たち人間なら誰しも多かれ少なかれ持っている“悪”の心が、他人を殺すことがあるというものだ。

 タイトルの黄色い犬とは、そうした私たち人間のくだらなさ、どうしようもなさの象徴である。黄色い犬はただ犬として生まれたがために、そして大都会パリから遠く離れた漁港コンカルノーで育ったというただそれだけのために殺される。犬に何も責任はない。だが町の人々によってぼろぼろにされて死んでゆくのだ。

 私は本作『黄色い犬』を読了した後、しばらく経ってから次のような想いがわき上がって抑えられなくなった。

 この恐ろしい主題を、もっとシムノンはうまく書けたはずではなかっただろうか。

 TVドラマではジャン・リシャールのシリーズで、モノクロ時代の1968年(第3話)とカラー時代の1988年(第76話)の二度、映像化されているようだ【註1】。1988年版は残念ながら映像ソフトが出ていないが、ジャン・リシャールがメグレを演じ始めたばかりの1968年版は観ることができた。

 物語はシムノンの原作と同じく、やはり全体的に駆け足気味で、推理の過程もあっけなく感じられる。だが地方の港町の風景がしみじみと心に残るドラマになっていた。海岸沿いに幾重にも並ぶ、寂れた掘っ立て小屋の前を黙って歩き続けるメグレ。ラストシーンでは人々や車を呑み込んだ大型フェリーがメグレの前からゆっくりと沖へ去って行く。シムノンが描かなかった遠景を、ドラマ版ではじっくり見せてくれていたのだ。その点で私はこのドラマ版の方が、むしろシムノンの原作より優れていると感じたのだ。たんに連続殺人の趣向を前面に押し出しただけの作品ではないことを、改めて私に伝えてくれたからである。

 また本作は戦前の1932年に映画化されている。原作出版の翌年であり、シムノンにとっては次回で触れる『十字路の夜』(1932)に続いてわずか2ヵ月半後の公開で、2本目の映画化作品であった。3種類のポスターのうち、ふたつで犬の姿が黄色く彩色されているが、これは先ほど引用した松村喜雄氏の意見のように、効果を狙ったものなのだろう。もうひとつのポスターは桶谷氏の指摘通り赤犬として彩色されている。ただし映画自体はモノクロなので犬の色はわからない。【註2】

 メグレ役はアベル・タリドという俳優で、笑顔はとても優しいが、大柄というよりは太っている。エンマ役はなかなかかわいらしいロジーヌ・ドレアン。全体的に少しばかりユーモアを効かせたつくりで、港町でのロケーションが強調されるシーンもあるが、《提督》ホテルの場面とあまり結びつかない。また後半のストーリー展開が大幅に単純化されているので、犯人は誰かという興味を惹かないうちに終わってしまう。残念ながらさほどよい出来だとは思えなかった。【註3】

 本作『黄色い犬』は、なるほど興味深い犯罪トリックが使われた作品である。トリック分類作業でも本作は取り上げやすいものであるし、往年の探偵小説ファンの興味にも合致するところがあっただろう。ただ、それだけの作品ではない。しかし一方で、それ以上の作品としていまどのように感想を書けばよいか、私は迷ってもいる。素直に読みさえすればいまの私たちはこの作品に込められている主題がはっきりとわかるはずだ。しかし必ずしもこれまでの読者がその部分を真正面から受け止めてきたように見えないのはなぜだろう。たとえば、乱歩には本作の主題がどれほど本当に伝わっていたのだろうか。

    *

 ジョルジュ・シムノンのメグレ警視シリーズの読み方や評価は、時代ごとに大きく変わってきたように思える。

 たとえば、たまたま私が国立国会図書館デジタルコレクションで見つけた『探偵小説の歴史と技巧』という書物がある。著者名はフランソア・フォスカ、訳者は長崎八郎、原著の発行年はわからないが翻訳は1938年に育生社から出ており、江戸川乱歩が「感想」という一文を寄せている。1938年といえばシムノンがすさまじいスピードでメグレ警視シリーズの短編を発表していた、いわゆるメグレ第二期にあたる時期だが、原著はもっと早く出ていただろうから、この著者はおそらく第一期までのメグレを知っていたことになる。

 この書物にはモーリス・ルブラン、ガストン・ルルーといったフレンチ・ミステリーの先達と並べてシムノンを論じている一章があるのだが、その記述は当時の本格探偵小説サイドからのものとなっていて興味深い。表記を一部現代風に変更しつつ引用する。[註:シメノンとは当時のシムノンの表記]

 シメノンは有名であるが、その名声は過分のものではない。話の運びを妨げるようなものが一切取り除かれた彼のキビキビした話は、彼の話手としての才能を物語るものであって、こうした作品は稀有な才能の持主のみが成し得るところである。彼がジャーナリストとして犯罪事件を実際に手掛けた経験を持ち、捜査・尾行・逮捕等に就いて実際知識を持っていることは、一度でも彼の小説を読んだことのある者の感ずるところである。彼は緻密で正確な筆力と異常な技巧を以て、しかも至極淡々と特異な環境、所謂『雰囲気』を醸成するのである。一例を挙げれば、『黄色い犬』の新聞記者が安宿を包囲した情景とか、雨に濡れたコンカルノーの情景を見るがよい。また『神を運ぶ者』[註:『メグレと運河の殺人』のことか。原題は『《神の摂理号》の馬曳き』]に例を取れば船頭と水門番の仲間達の描写がそれである。ところで私が不思議に思うのは、これ程の想像力を持った作者が登場する下層階級の人間に使わせる言葉が全然なっていないことである。……(中略)

 要するにメーグレは自己の直観力に信頼を置く男なのである。この点から彼の所属を決すれば、彼はポアロ[註:アガサ・クリスティーの探偵エルキュール・ポアロ]とかアノオ[註:A・E・W・メースンの探偵ガブリエル・アノーであろう]の属する範疇に入るのである。大体シメノンという作家は犯罪捜査を描写するにレアリスティックな態度をとり、決してスリラー的なものを与えようとしないから、この分類は少々意外に思われるであろうが、現実の探偵がそれ程自己の嗅覚を信頼することが出来るであろうか。シメノンにしても私の考に異論はなかろう。……(中略)

 文学的見地からすればメーグレ警部の沈思黙考は、いささか不都合な憾みがないではない。おおよそ探偵小説作家の主なる任務の一は、われわれ読者をして謎の逐次的露出を見守らせることである。(中略)シメノンは全然と言っていい程こうした方法を用いない。彼の作品の中からその一つを選び給え。先ず犯罪が行われて下手人が不明である、そこへメーグレ警部が登場する。彼はのべつパイプをくゆらしながら、部屋を往来する。うるさい程問いかけられる質問に対して、逃げ口上の返事だけで、仮説とか意見とかは一向に述べない。最後にいたって疾風迅雷の早業で犯人を逮捕するのである。読者は恐らくもう少し後味を希望し、このように事件が電光石火的に解決することを望まないであろう。

 どうだろうか。私は最初期の作品と比べると『黄色い犬』には情景描写が足りないと感じたが、このフォスカ氏は本作の描写を賞賛している。シムノンがジャーナリスト出身であるから文章がきびきびしているとフォスカ氏は述べているが、これはメグレシリーズをあまり読んでいない、あるいは後期の作品しか知らない読者にとっては、むしろ驚くべき指摘だということになるはずだ。私自身『怪盗レトン』を読んで、メグレシリーズに対して持っていた文章イメージとあまりに違うことに驚いたくらいなのである。緻密だが淡々と特異な環境を構成する、というフォスカ氏の表現にはなるほどと思わされるところがある。

 一方、フォスカ氏は探偵小説としてのメグレシリーズをまったく評価していないのがわかるだろう。かつて探偵小説の主人公は、○○型、といったように分類研究されつつ読まれていた。私も子供のころにそうした分類をもとにした入門書をよく読んだものだ。江戸川乱歩も分類研究をさかんにおこなった。そうした視点でシムノンの小説、メグレの物語は読まれてきたのである。

 本作『黄色い犬』は、本格探偵小説の基準に沿っていえば、まるでなっていないといわざるを得ないだろう。初期エラリイ・クイーンのようなフェアプレイ小説ではない。疾風迅雷の早業、電光石火的、とはまさに『黄色い犬』に向けられた批判として読める。ただフォスカ氏はメグレの人物像をつかみかねている様子でもある。ポワロやアノーと並べるのはやはり違和感があるものの、そのように既存の探偵像に寄せなければ当時は新しいミステリーを読み解けない時代であったのだ。乱歩も実際はそのようにメグレを読んでいたのではないか。最後まで既存の本格探偵小説の枠組みからシムノンを読み、自己の価値観に照らして『男の首』や『黄色い犬』を評価していたのではないだろうか。そしてフォスカ氏は少なくともこの書物で、シムノンの描いてきた主題にまったく関心を示さず、ひと言もそれらの部分に触れていないのだ。

 いったいシムノンが書いてきた初期のメグレとは何だったのか。決してヒーローものとは思えない。メグレはいわゆるヒーローという役回りではないのだ。群像警察小説でもないだろう。ならば何か。

 ここでひとつ大きな問題に突き当たる。これは今後も本連載を通して考えてゆくことになると思うのだが、ではシムノンの作品ははたしてノワールだったのか、というものだ。

    *

 ジョルジュ・シムノンという作家はそのキャリアにおいて、フレンチ・ノワールの歴史に大きな影響を与えた人物であることは間違いない。彼はノワールの叢書から新刊を出していたし、彼の小説はフレンチ・ノワールの時代をつくり上げた多くの名だたる映画監督によって映像化されてきた。

 私はノワールのよい読者ではない。たぶん私は本当の“悪”というものを知らないのだろう。瀬名秀明は悪が書けない、と批評されたこともあるが、それは真実だと思う。「お前にとって悪とは何だ」と仮に問われて思い浮かべるのは、たとえばプライドばかり高くて他人を思いやることのできない、SFファンのふりをした一部のおたくの人たちだ【註4】。ふだんは仲間づきあいの大切さを強調するのに、誰かが本当に困っているときには絶対に助けてくれない。私が精神的に追い詰められて本当に自殺未遂にまで追い込まれても、自分には関係ないとばかりに無視し、いつまでも他人をゲラゲラと嘲笑している。詳しい経緯は書かないが、2014年7月、仙台に家族が飛んで来なかったら、私は確実に自殺していただろう。

 その後STAP細胞問題で理化学研究所の教授が追い詰められて自殺したとの報道に接したが、その死を本当に悼み、自分たちにも責任があるのだと考えた研究者はこの日本にいったいどれだけいただろうか。研究内容の検証と一個人の死は別だ、とあなたは反論なさるかもしれない。一部のサイエンスコミュニケーターや科学記者は「自分たちは事実究明に努力した」とばかりに英雄気取りでいる。

 だがこの教授の自殺を知ったとき、私は絶対に自殺をしてはならないと感じた。自分が死んでもおたくの人たちが反省することなど決してあり得ないと悟ったからである。この教授の死さえ、私の尊敬するSF作家が馬鹿にしているのを知ったときには本当に絶望した。つまらない自称サイエンスコミュニケーションにも金輪際関わらないと心に誓った。しょせん、私が思う“悪”とはその程度のものだ。コミュニティ内の数の暴力で他人を殺す、ちっぽけでくだらない“悪”しか私は知らない。

 あなたは黄色い犬になったことがあるだろうか。もしあなたが科学好きの人間として生まれてきたなら、あなたは科学が好きだというだけで必ず科学コミュニティの抱えるくだらない部分といずれ直面することになるだろう。もしあなたが科学だけでなく物語も好きな人間として生まれ育ったなら、あなたはたまたま科学と物語が好きな人間であるというだけで、いつか必ずSFファンの仮面を被った一部のおたくと接触を余儀なくされ、精神的に殺されかけることだろう。場合によっては本当に、肉体的にも殺されるかもしれない。なんと理不尽なことだろうか。それはいっても詮なきことだ。しかしあなたがムラの人々に石を投げられ殺されかかったとき【註5】、あなたには涙を流してくれるエンマがいるだろうか。動けないほど傷ついているあなたを見て手押し車を用意させ、静かな場所まで運んでくれるメグレはあなたのそばにいるだろうか? 

 ハードボイルドとは主人公の感情を、内面の直接描写ではなくその人物の行動で表現するものだという説がある。ではメグレシリーズはハードボイルドだろうか。最初に引用した鼎談で、女子大生のお姉さんが述べていることはよくわかる。多くの作品でメグレはおのれの感情をあからさまに出すことはしない。たぶん今後私が読む作品ではさらにその傾向が強まっているだろう。これはいくつもの作品を重ねて、シムノンと読者の間でメグレのキャラクターに共通了解ができあがったからこそ許される書き方だ。

 本書『黄色い犬』でもメグレの内面はほとんど描かれることがない。他の登場人物たちも内面は描かれない。肝心の黄色い犬も物語の後半にはまったく登場しなくなる。それどころかコンカルノーというせっかくの遠い地の情景さえ、読者の目に浮かぶ印象的な言葉ひとつ書き記されることもない! 

 すべての内面が描かれなかったら、それははたしてハードボイルドであろうか。はたしてノワールであり得るのだろうか。もし本書『黄色い犬』があなたにとって初めて手に取るメグレものだったとしたら、なぜ誰も彼も感情がこんなに貧困なのか、なぜ風景が迫ってこないのか、と思っても仕方ないだろう。上記鼎談の「メグレに人間的魅力を感じない」という感想はまったくもっともなものだ。私も以前はメグレに人間的魅力をどうしても感じることができなかった。今回初めて、最初の本から読むことで、メグレを身近に感じられるようになったのである。

 最初期の『怪盗レトン』や『死んだギャレ氏』を思い出してほしい。これらの作品でも前半部ではメグレの感情は描かれなかった。しかし物語の始まりのあたりで、必ずメグレのキャラクターを示唆する短い文章が埋め込まれていた。たとえば『怪盗レトン』冒頭のストーブの場面。『死んだギャレ氏』冒頭の陽射しをしのぐ仕草。この連載でも指摘してきたように、メグレとはこういう人物なのだとわかる場面が必ずあった。

 そして後半に入り、作中で転機となるような出来事が生じると、地の文でメグレの内面が描かれ始める。「!」や「?」が多用され、いつしか読者はメグレの気持ちと一体となって、事件の行方を追っていったはずだ。そして私が『黄色い犬』の前まで読んできた4作は、どれも終盤になって事件の重要人物(犯人やその知人など)とメグレがじっくり会話を交わし、犯罪の背景にあった人間関係を解きほぐしてゆくという構成を取っていた。この部分で一気に読者は心を揺さぶられる。そのためストーリーとしては貧弱な作品でさえ、読後感は充実したものになった。

 しかし本書『黄色い犬』にはそうした構成がない。キャラクターの特徴を示してくれるようなちょっとした描写さえない。メグレはすでに既知の人物として描かれる一方、クライマックスは古典的な「名探偵、皆を集めてさてといい」形式で進んでゆく。確かに登場人物は自らの気持ちを台詞で吐露する。だがそれはどこまで読者の心に刺さってくるだろうか。本作は本格推理小説としてもハードボイルドとしても中途半端な作品になってしまっているのではないか。

 本作は実に興味深い“悪”のあり方を扱っているのに、その“悪”がどうしても私のなかで起ち上がってこない。黄色い犬は本作の主題であるはずなのに、どうしても登場人物たちとうまく重なってこない。だからちょっと心理的なひねりのある探偵小説という程度の見立てで終わってしまう。ノワールとしてもまだ未熟な作品なのではないだろうか。

 たとえそうであっても、本作は水準以上に面白い小説となっている。読んでいる間は確かに面白い。なぜなら逆に、本格推理小説やハードボイルド、ノワールの側面がどれも詰め込まれた先駆的な物語だということもできるからだ。だからこそ江戸川乱歩、都筑道夫、長島良三などの各氏は本作を高く評価したのだろう。ただその高評価の基軸は、裏返せば本作の決定的な弱点でもある。

 私は本連載の「はじめに」で、しょせんメグレ警視シリーズは何となく始まり何となく終わったものであるのだから、どこから読み始めてもよいし、どこで終わってもよいはずだと書いた。しかしそれは誤りだったかもしれない。どの作品から読むにしても、メグレを読むとき私たちは、メグレとシムノンが過ごしてきた時間というものを念頭に置いて読む必要があるのかもしれない。彼らがどのような人生を歩んできたのか、少しは知っておいたほうがよいのかもしれない。

 最近よく思うのだが、「キャラクター」には時間がない。いつ接しても同じ性格で彼らは私たちを迎えてくれる。だから優れた「キャラクター」はいつの時代でも人気がある。だが私たちが現実の人生で本当に持つ友人とは、決して「キャラクター」ではなく生身の人間だ。私たちは本当の友人とともに年齢を重ねるが、私たちは自分の好きな「キャラクター」がいつも同じように夢の国へ誘ってくれることも知っている。

 実際の人間には時間の積み重なりがある。私たちはキャラクターではなく人間である。私たちは分類表などによって容易に判断されるものではない。そして私たちは誰しも暗黒の部分を持っているが、それだけを表紙と裏表紙の間に挟めるほど器用でもない。

 今後シムノンを読み進めるにつれて、「『黄色い犬』が高い評価を受けているのは頷けるが、あれはシムノンの習作に過ぎない。シムノンにはもっとすごいものがたくさんある」といえるようになると嬉しい。そうなるだろうという予感は充分にある。

 だからいつか、かつての女子大生のお姉さんたちに自信を持っていえるようになりたい。メグレシリーズをもう一度最初から読んでみてください、きっと新しい発見があります、今度こそメグレが好きになるでしょう、と。

【註1】

 リメイク版がつくられたのは、『男の首』(第2話, 1967/第59話, 1983)、『黄色い犬』(第3話, 1967/第76話, 1988)、『メグレと深夜の十字路』(第9話, 1969/第65話, 1984)の3作。いずれもリメイク版の映像ソフトは未発売。

【註2】

 Serge Toubiana, Michel Schepens『Simenon cinéma』[原題:シムノン・シネマ](Textuel, 2002)は、1931年4月23日公開の『十字路の夜』から1998年11月25日公開の『天使の肉体』まで、ジョルジュ・シムノン原作の映画ポスターをカラーで紹介したポップなつくりの本である。映画『黄色い犬』のポスターも収録されている。

【註3】

 余談だが岩本憲児・高村倉太郎監修『世界映画大事典』(日本図書センター、2008)によると本作はオデット・ジョワイユーの映画デビュー作で(ウェイトレスのひとりとして登場した女性と思われる)、彼女は後にスター女優となり、後年は脚本家・小説家として活躍したそうだ。小説の邦訳もある。

【註4】

「瀬名の見解は個別の事例に対するものであるはずなのに、SF関係者をひとくくりに批判している」という人もいるが、これは決して無差別の批判ではない。あえて記すなら「SF関係者をひとくくりに批判している」と反発してしまう“あなた”のような一部のおたくに、私は意見を述べているのである。そして、そうした人々にきちんと注意できない社会のあり方を憐れみ悲しんでいる。

【註5】

 黄色い犬に石を投げたとき、彼らは自己アイデンティティすら捨てて、いわば映画における「町人1」という「集団キャラクター」になるのである。

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』で日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書に『デカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。


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