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映画「誘拐の掟」公式サイト

 リーアム・ニーソン主演の映画『誘拐の掟』の公開開始から2週間が経ちました。この映画をご覧になったことがきっかけで、原作『獣たちの墓』をはじめとしたマット・スカダーシリーズを手に取られる方がいらしたら、一ファンとして嬉しい限りです。

『獣たちの墓』は、シリーズ中でも評価の高い「倒錯三部作」の最終作にあたります。この三部作——『墓場への切符』『倒錯の舞踏』『獣たちの墓』——には「肉屋のミサ」という奇妙な言葉が繰り返し登場します。しかし、これまでこの言葉についてはあまり触れられてきませんでした。日本のミステリファンの多くが非キリスト教徒だからなのでしょうが、マット・スカダーシリーズの底流をなすだけでなく「探偵と神」「ミステリとモラル」という古典的命題にも踏み込んだ非常に挑発的なモチーフがスルーされたままなのはもったいない、そう思うのです。

 さて、「肉屋のミサ」というのは、ニューヨークの食肉市場にほど近いとある教会で行われる早朝ミサのことです。早朝ミサそのものは珍しいものではありません(日本でもある程度大きい教会では毎朝行われています)が、「肉屋のミサ」という言葉は一般的ではありません。スカダーの親友ミック・バルーが——市場関係者が誰か必ず出席しているということで——そう呼んでいるだけなのです。このミサに、スカダーとバルーの2人は時おり連れだって参加します(1冊につき1〜2回くらいのペースで)。

「だったら夜っぴて話そうぜ。でもって夜が明けたら肉屋のミサに行くと」

(『獣たちの墓』p.541)

 ミック・バルーは連邦当局からも目を付けられているプロ犯罪者ですが、敬虔なカトリック信者だった父親の影響で現在も信仰心を完全には失っていないことが端々の描写から伺われます。強盗殺人その他凶悪犯罪を重ねてきた彼は言うのです。

「おれは信じてるんだ。地獄にはちゃんとおれの居場所が用意されてるってな。地獄の炎のそばに椅子がひとつ」

(『倒錯の舞踏』p.272)

 一方スカダーは、”I’m not even Catholic, Father.”(『八百万の死にざま』原文)、「子供の頃から教会には行かなかった」と言っています(『倒錯の舞踏』p.277)。アル中時代を通じて「十分の一税」というものを自主的に払う(教会の献金箱に入れる)ことはありますが、特定の宗教を信じているわけではありません。

 三部作第一作『墓場への切符』は、過去のとある事件が発端となっています。一介の警察官だったスカダーが「神の真似」をしたことを恨む犯人から狙われる。そして最終章において、再び「神の真似」をするかどうかを自問せざるを得ない状況に追い込まれるのです。

 第二作『倒錯の舞踏』で、再びスカダーは神を真似ます。しかも事件の解決後、特に理由もなく「神への冒瀆」へ走ります。状況はこうです。

 血なまぐさい一夜のあと、スカダーはバルーに連れられて「肉屋のミサ」に出席します。そこでスカダーはふらふらと聖体拝領(カトリック信者にとっては非常に大事な儀式、と思ってください)の列に並び、「キリストの体」と呼ばれる「聖体(聖餅/ホスチア)」を頂いてしまうのです。わたしが「冒瀆」というのはこの部分です。

 ちなみに『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会2002)において「大罪があると知りながら、聖体拝領をすること」は「大罪 mortal sin」に分類されています。それほど重い罪だということです。スカダーの場合は異教徒なので、どれほどの罪になるかは難しいところですが。

 聖体拝領に与るためには、いくつかルールがあります。

1. 堅信礼を済ませたカトリック信者であること

2. 聖体拝領1時間前からは絶食をすること

3. 告白(告解/懺悔/confession )を済ませて罪の償いをしていること

 カトリック信者として育てられたバルーにとっては自明のことだったでしょう。ミサに出席しても決して聖体拝領の列には並ばなかった(『倒錯の舞踏』p.289)のも当然です。バルーは「おれはもう三十年も懺悔をしていない」(『倒錯の舞踏』p.461)にもかかわらず、この場面ではスカダーの後をついていき、同じく聖体拝領を受けてしまう。その後、教会の外で「おれたちは地獄の炎に焼かれるな」(『倒錯の舞踏』p.461)と「なんとも形容しがたいすさまじい笑み」を浮かべて言うのです。原文では”His smile was fierce.”とありますから笑っていたのかすら疑わしい。

 このシーンは幾つかの点で非常に印象的かつ示唆的です。

 まず、スカダーが「神の真似」をするどころか、「他人の神を踏み越える」領域に入ったこと。カトリックの信者が大切にしているルールを破り、「キリストの体」を飲み下したという行為からもそれは象徴的です。たとえ近しい人間が尊重しているルールでも、理由なく破ることができる——これは後の浮気問題にも通じますよね——それがスカダーという人間だということ。それでも怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ受け入れるのがスカダーと親しい人間のスタンスだということ。

 もう一つ。私立探偵が社会の常識/法律を超え、悪人を陥れようと殺そうと、読者は慣れっこです。殺人や暴力に恐れをなすどころか、それを愉しむのがミステリファンでしょう。しかし、事件と無関係な宗教的タブーはどうでしょうか。返り血で濡れたエプロンを身につけながら「信者でもないのに聖体を!」と驚くバルーの姿は滑稽です。「地獄の炎のそばにはおれの椅子が用意されている」という意識が、「おれたちは地獄の炎で焼かれる」にランクアップする理由が、「聖体拝領のルールを破ったから」だというのも。しかし、それこそがキリスト教的モラルが心身に沁みこんだ読者の姿でもあるのです。まったく敬虔ではないカトリック信者のわたしですら、このシーンを読むたび未だに少し鼓動が速くなります。「ものすごくわるいこと」を目撃したような気持になってしまう。キリスト教的モラルを破ったことについては、犯罪も同じだというのに。

 さてさて、このように非常に古典的な命題に入り込んだ倒錯三部作ですが、掉尾を飾るのが『獣たちの墓』です。スカダーはまたしても神の役目を務めるのか、リーアム・ニーソン演じる映画版スカダーと同じ結末を迎えるのか、それは映画と小説の両方を楽しんだ者だけのお楽しみといたしましょう。


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日向 郁(ひなた かおる)

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“Anything that is not straight.”

翻訳ミステリとロマンスとスポーツ(NFL, NPB, NHL, CFL, RR)を愛するライター。ジゴロな愛犬に振り回される毎日です。

Twitterアカウントは @hina_shella

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