心理ミステリの鬼才、マーガレット・ミラーの名作『まるで天使のような』の新訳(創元推理文庫)を担当させていただきました。原著刊行が一九六二年、菊池光訳『まるで天使のような』(ハヤカワ・ミステリ文庫)の刊行が一九八三年です。

“最後の一撃”という表現がこれほどまでにふさわしい終幕は他にない——

 というのが帯の惹句。カバー裏の紹介文はつぎのとおりです。

 山中で交通手段を無くした青年クインは、〈塔〉と呼ばれる新興宗教の施設に助けを求めた。そこで彼は一人の修道女に頼まれ、オゴーマンという人物を捜すことになる。だが彼は五年前、謎の死を遂げていた。平凡で善良な男に何が起きたのか。なぜ外界と隔絶した修道女が彼を捜すのか。私立探偵小説と心理ミステリをかつてない手法で繋ぎ、著者の最高傑作と称される名品が新訳で復活。

(東京創元社サイト: http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488247096

 興味深いのは、世間から隔絶した共同生活を送るカルト教団が出てくることです。オウム真理教事件を経験した私たちは、以前の翻訳が出た頃よりずっと生々しいリアリティを感じながら読むことができるのです。小説の舞台はカリフォルニア。かの地は二〇世紀に入ると心霊主義、新興宗教、東洋宗教、ニューエイジ思想、疑似科学などの一大中心地となりました。良きにつけ悪しきにつけ伝統にとらわれない新思想に寛容な土地柄のせいだと言われています。一九七八年に南米ガイアナで集団自殺・殺人事件を起こした〈人民寺院〉や、残虐きわまりないシャロン・テート殺害事件を起こしたチャールズ・マンソンの〈ファミリー〉も、カリフォルニアで活動しました。『まるで天使のような』はこうした凶悪なカルトが世界を震撼させる以前の作品ですが、すでにカリフォルニアにはその手の集団がごろごろあったのです。

 カルト教団などというものは、ごく控えめに言ってもうんざりさせられる代物なわけですが、マーガレット・ミラーが偉いのは、それを単なる異物として描き、小説を刺激的なものにするための便利な素材としてのみ扱うということをしていない点です。私立探偵クインは教団を冷ややかに見て、へらず口(ワイズクラック)でからかったりしながらも、ひとりの修道女に共感を覚える。なぜならクイン自身、ギャンブル中毒になるような心の闇を抱えているからです。クインが事件に深入りしていくさまは、一見余計なお世話のようですが、自身の心の闇との戦いと重ね合わせていると考えると、必然性があるように思えます。

 ところでこの〈塔〉というカルト教団の教義はよくわかりませんが、ある若い修道女のホーリーネーム(とは言っていませんが)が〈業の修道女〉で、業(ごう)というのはカルマ、つまり仏教の用語ですから、キリスト教をベースにしつつ、東洋宗教も取り入れているのでしょう。

 カルト信仰というのは、現実逃避の手段だと言っていいと思いますが、この小説は現実逃避への願望に満ち満ちています。クインのギャンブルもそうだし、自分は健康食と運動で永遠の若さを保っている美魔女だという幻想を糧に生きている女性も出てきます。私が好きなのは、マザー・プレーサの郷愁に満ちた奇怪な幻想ですが。ついでに言うと、マーガレット・ミラーは女性作家らしく、さまざまな年齢や立場の女の心の模様と生き方をじつに丁寧に描いています。その視線は冷徹ですが、ものすごく意地悪というわけではなく、温かみがあります。

 現実逃避への願望というのは誰にでもあるでしょうが、とくに小説や映画や演劇といったものを好む人には親しい感情でしょう。それは必ずしも悪いものではないはずです。けれども、一歩だか何歩だかわかりませんが、間違えてしまうと、怖いことになる。この小説で描かれる怖い怖い心の闇は、小説や映画が好きな人には他人事とは思えないのではないでしょうか。

 マーガレット・ミラーはそのことを意識していたのではないかと思うのです。彼女の場合はもちろん、自分が小説を書く人間だということも入ってきます。だからこそ、終盤であの物品を重要な小道具として用いたのではないか。たとえば、その物品が有効に使われていたなら、良い現実逃避の道が開けて——とまあ、これはこじつけかもしれませんが。

黒原敏行 (くろはら としゆき)

 1957年生まれ。翻訳家。最近の訳書:ニック・ハーカウェイ『エンジェルメイカー』(ハヤカワ・ミステリ)、スタインベック『怒りの葡萄』(ハヤカワepi文庫)、フレデリック・フォーサイス『キル・リスト』(角川書店)。好きな歌手:戸川純、松田聖子。

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