北欧勢やドイツ勢に押され気味で、いささか影の薄かったフランスミステリ。その鬱憤をいっきに晴らすかのような爆発的大ヒットを記録したのが、ピエール・ルメートル『その女アレックス』だった。なにしろ「このミス」「文春ミステリーベスト10」「ミステリが読みたい」「IN★POCKET」など、各種ベストテンの1位を独占したのだからただごとではない。並みいる英米の傑作もかつて達成できなかった快挙を、どうしてフランスミステリが?と思った人もいるかもしれない。しかし、これはまさにフランスミステリだからこそなしえたことなのだ。

 フランスミステリはどこか歪んでいる。いや、フランス人にとっては何の違和感もない小説作法が、英米のミステリを読み慣れた読者にはどうも奇異に感じられるということなのだろう。「フランスミステリはよくわからない」という声もしばしば聞く。しかし『その女アレックス』では、フランスミステリ特有の《歪み》が意外性に満ちた物語の展開とあいまって、英米作品からは得られない斬新な読書体験をもたらした。いわばフランスミステリが、日本人読者になかで《大化け》したのである。

 とまあ、前置きはこれくらいにして、今回わたしが訳したのは、そのルメートルがフランスで最高の文学賞であるゴンクール賞を取った『天国でまた会おう』。ミステリではないが、エンタテインメント性と文学性を兼ね備えた大作だ。

 ときは第一次大戦終結直前の1918年11月2日。主要登場人物は3人。いちばんの主人公と言うべき兵士アルベール・マイヤールはもと銀行の経理係で、平凡を絵に描いたような若者だ。優柔不断で意気地なしで、びくつくとすぐズボンのなかにちびってしまいそうになる。おまけに閉所恐怖症の気まであり、恋人とベッドにいるときでさえ、毛布にすっぽりくるまれるとパニックを起こしかけるほどだ。

 そんなアルベールに一生立ち直れないほどの恐怖を味あわせるプラデル中尉は、徹底した悪役である。自分の利益のため、自らの欲望を満たすためならば他人を犠牲にし、どんな汚い手を使うこともいとわない。あまりに憎々しいキャラクターは、滑稽感すら漂わせている。

 そこにもうひとり、アルベールの運命に深く関わっていくのが兵士エドゥアール・ペリクールだ。裕福な実業家の家庭に生まれ、画才に恵まれた天才肌の男で、反俗精神にあふれている。この3人がそれぞれの戦後を生きるドラマには、戦没者追悼墓地をめぐるスキャンダルや慰霊碑詐欺のコンゲーム、虐げられた者たちの友情や父と子の葛藤など、さまざまな物語が詰めこまれているが、どれもが予想外の展開を見せるところはいかにもルメートルらしい。

 ところでピエール・ルメートルはこの10月の末に来日し、東京、名古屋、京都で日本人作家との対談が予定されているほか、東京ではサイン会も催される。詳しくは本サイトのイベント・カレンダーを参照していただきたい。いかにしてあんなとてつもない物語が生み出されたのか、その秘密が明かされるかもしれない。

平岡敦 (ひらおか あつし)

 今年出た訳書は6冊。『ロンと海からきた漁師』(徳間書店)、『モーパッサン—首飾り』(理論社)、『新車のなかの女』(創元推理文庫)、『ルパン対ホームズ』(ハヤカワ文庫)、『彼女のいない飛行機』(集英社文庫)。そしてトリが、今回の『天国でまた会おう』。

 たまたまだけれど、よく働いたなという充実感に浸っている。

■担当編集者よりひとこと■

 早川書房内で一気読みが多発した作品。『その女アレックス』のリーダビリティはそのままに、趣はかなり違う作品なので、その違いをぜひお手に取って確かめていただけるとうれしいです。

 今回は単行本(1巻)と文庫(上下巻)が同時発売されます(内容は同じです)。お好みですが、描写の妙をじっくり味わいたい方にはシックな装幀の単行本を、ついついページをめくってしまう波瀾の展開を堪能したい方には文庫版がおすすめかなと思います。

 そして話題のルメートル氏はなんと今月末に来日! サイン会はじめ、各地の豪華イベントもぜひお見逃しなく。

(早川書房編集部・N)

 

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