帯に「黄金時代最大の怪作!」とあるのも、あながち版元の煽りともいいきれない。

 怪作(にして傑作)本格ミステリというと、セオドア・ロスコー『死の相続』ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ『赤い右手』のようなパルプ風本格が、すぐさま思い浮かぶが、ヴァージル・マーカム『悪夢はめぐる』(1932)は、これらとも違った、実に変てこなミステリだ。こうした風変りで、独創的なミステリに出会えるのは、クラシック・ミステリ渉猟の楽しみでもある。

 マーカムは、30年代半ばまでに10作の長編を残して筆を折ったアメリカの「幻の」ミステリ作家。本書が本邦初紹介となる。

 刑務所長のわたしのところに、全囚人をみせてほしいと女性が不可解な依頼をしてくる。それから間もなく、死刑囚がわたしに謎のメッセージを残し、死刑執行の直前に脱獄騒ぎが発生する。脱獄は防いだものの、わたしのところにある少女が書いた手紙の束が送られてくる。

 ここまでで30ページ。粗筋を書いても、そのめまぐるしさ、脈絡のなさに驚くが、早熟なローティーンの女の子が、まったく年の離れた男にあてたラブレターの内容が実に魅力的で、主人公同様、物語に引きずり込まれていく。

 主人公の「わたし」は、まだ若者といっていい年齢。芸術家を志したが挫折し、コネで刑務所長の地位に就いている。ウィトゲンシュタインの分析哲学に親しんでいるようだから、只者ではない。刑務所のルーティンワークに鬱屈を抱えており、奇妙な依頼に自らの職も地位も投げ打ち、冒険に飛び込んでいく。それは悪夢のような冒険の始まりだったのだが…。

 「わたし」は、秘密の鍵を探すために、ニューヨークの暗黒社会の一員となる。裏社会の秘密めいた雰囲気、組織を牛耳る若者をはじめ正体不明の男女たち、次々と発生する不審な死。筋の面白さや悪夢的な描写に惹かれながら、この小説は何を目指しているのか、という思いに読者は囚われことになるだろう。

 後半部では、一転、それまでの筋が置き去りにされたように、舞台は、オンタリオ湖岸の田舎に飛び、密室状況の小屋での溺死体という極めて魅力的な謎が提示される。やがて、密室問答めいた会話を経て、密室の謎をはじめ、様々な運命が交錯するもつれにもつれた謎が解かれるが、さらに、予想もできなかった結末が待ち受ける。

 「密室での溺死」という謎も、トリック自体はさほど驚くに値しないが、その密室を取り巻く意匠が見事で、その解明には詩的要素すら漂っている。

 ヴァン・ダイン的本格ミステリにしては物語性が豊かすぎ、ハメット的ハードボイルドにしてはロマンティックにすぎ、エドガー・ウォーレス的スリラーにしては巧緻にすぎる。本格ミステリとハードボイルドとスリラーが渾然となった鵺(ぬえ)的というか、キメラ的な作品だが、不思議に全体としての統一は保たれている。作者は、大学で「ミステリの歴史と技巧」をテーマに講座を開設した先駆けでもあるそうで、そうしたバックボーンに基づく意図的な混沌ともいえよう。

 本作を全体としてみれば、古くはスティーヴンソン『宝島』『難破船』、近くではやや突飛な連想だが、村上春樹『羊をめぐる冒険』セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』のような、旅路の果てまでの、一種の聖杯探求譚として受け取るべきか。そのオリジンは、作中でも言及されるアーサー王伝説に求められるのではないだろうか。書かれた年代を考えても、ミステリ史に孤絶したようなとびきり異彩を放つ作品といえよう。

 解説によれば、作者の作品では本作が抜きんでているようだが、この作家の全作品に触れてみたいような磁力を帯びた一編だ。

 『チューリップ』は、ハードボイルド小説の始祖ともいわれるダシール・ハメットの遺作「チューリップ」を中心に、初期の文芸作品風をも集めた中短編集。編訳者は小鷹信光

 赤狩りの渦中、法廷侮辱罪で5か月服役したハメットが釈放後の1952年から書き進め、死の直前まで書き続けようと努力し、未完に終わった100ページ足らずの「チューリップ」は、不思議な小説だ。ハメットの次女ジョーが、いみじくも語っているように、それは「小説を書かないことについての小説」なのだ。

 「私」のところに、軍隊時代の友人チューリップがやってくる。「私」は、赤狩りの標的にされ連邦刑務所から出てきたばかり。州と国が突然巨額の所得税の留置権を通告してきている。チューリップはとっくに小説を書けなくなった「私」に、書く材料を提供しようとやってきたようなのだ。

「私」の経歴は、『影なき男』(1934)以降、書けない作家になっていたハメットそのまま。筋はないに等しく、私とチューリップの間で、軍隊時代やその後の思い出など、とりとめのない会話が続く。書けない作家の心境小説のようなのだが、「私」は容易に感情を見せず、チューリップが「私」の分身(サイド)である可能性を匂わせるところで、この小説は終わっている。とりとめのない思い出話がハメットの作中の登場人物の語りのようで、それはそれで面白いのだが、書くこと/書かないことをめぐる断片的な会話が、「私」の内面を垣間見せる。(数理の本を読むのを好んでいたり、20年代の書評が引用されて衒学趣味の一時期があったことなど、作者にまつわる興味深い事情も明かされる)。それまで寡黙だった「私」が、新たな聴き手となる少女二人を意識して、語り続けようと努力するくだりなど、小説家の本能の発露のようで面白い。

「私」は、チューリップを評していう。

「理性からさえぎられているかぎり、どんな感情も強靭にはなれない。傷ついた小鳥を見て泣くくせに、いつも女房を殴ってる酔いどれだ」

 理性によって強靭に研ぎ澄まされた感情。ハメットが志向し続けたのは、冷徹や非情といったものではなく、むしろこの種の感情だったのかもしれず、その深すぎる探求が書けないことの一因になったとしても不思議ではない。

 本書には、表題作のほか、コンチネンタル・オプ物を含む10編(解説中の小品も含めれば11編)が収録されている。表題作と照応する部分もあり、作家史をたどる上でいずれも興味深いが、トリッキーさも兼ね備えた「裏切りの迷路」、失踪を扱ってとてつもない悪事が露見する「焦げた顔」の二編のオプ物は、オプの造形も良く、脂の乗った充実した出来栄えだ。

 解説で、編訳者・小鷹信光は、「ハメット関連の最後の仕事」になりそうと書いている。本書は、わが国へのハードボイルド紹介の第一人者であり、80年代以降、原点回帰のように、五作の長編の翻訳をはじめ、ハメット関連の仕事をこなしてきた氏の集大成でもある。作家への敬愛のこもった渾身の訳業を改めて味読してみたい。

 クロフツらと並んで、一時は、退屈一派などと悪名を奉られた英国のミステリ作家ジョン・ロードだが、マイルズ・バートン名義と併せて、生涯に140作もの長編を発表し、息の長い作家活動を続けたのだから、根強いファンの支持があったものと推測される。派手な展開や凝った文章、犀利な心理描写などとは無縁だが、ひたすら推理と検証を続けるいぶし銀のようなミステリを好む向きには、退屈な作家とはとてもいえない。

 本書『ラリーレースの惨劇』(1933)は、ジョン・ロードの17作目。ロードの紙上探偵、プリーストリー博士が活躍する。

 イギリスの各都市を結ぶ大規模な自動車ラリーに参加した三人組は、最終ゴールの街に向かうさなかに、道路脇で大破しているラリー出走車を発見。乗車していた二人は前方に投げ出され、死亡していた。無謀なハンドル操作による単純な自動車事故だと検死法廷でも判断されるが、事故車がラリーに参加した時点とは同一車種だが別な車であることが発見され、事件は五里霧中に包まれていく。

 事故を発見した三人組の一人が、プリーストーリー博士の秘書メリフィールドで、スコットランドヤードのハンスリット警視に協力して、博士は捜査に乗り出していく。

 自動車ラリーの殺人という、レース展開の面白さや白熱の勝負などいくらでも派手な展開が考えられる設定だが、開巻そうそうラリーは終わってしまい、純然たる推理と検証の物語に終始するところは、いかにもこの作家らしい。

 自動車のすり替えに関し地道な捜査が続くが、同一車種の盗難、事故車の工作、十分な動機をもつ人物の出現など、局面を展開させる事実が次々と明るみに出て、飽きさせない。  

 博士は自ら仮説の提示には慎重だが、警視の見込み捜査を次々とくつがえしていく。博士が奇手を放って明らかになる犯人設定はかなりの意外性をもたらすもので、実作者にとっても難度が高いものだろう。それが読者にも同様に到達できるものかというと、先に同じ版元から紹介されている『ハーレー街の死』同様、必ずしもフェアともいえないところがあるのは、惜しいところ。

 また、博士の謎解きで、犯人の計画が大変念の入ったものであることが判明するが、ここまで複雑な仕掛けをしなくても、もっとシンプルに所期の目的を達成できたのではないかという、疑問も残る。

 トライアル&エラーで、パズルのピースが嵌っていく快感をゆったりと味わい向きに。なお、「ラリーレース」という耳慣れない言葉には違和感があり、原題どおり、「モーターラリー」で良かったのでは。

『黒い蘭』に続く、論創社ミステリー、ネロ・ウルフ物の中編集、レックス・スタウト『ようこそ、死のパーティへ』は、3編収録。今回は、ウルフの蘭と並ぶ道楽、美食がテーマで、1、2巻に登場する「コンビーフ・ハッシュ」、絶品ソーセージ「ソーシス・ミニョイ」などのレシピつき。

 表題作は、トリックも意外性も持ち合わせた毒殺物だが、物語の要所で、前作のテーマになっていた「黒い蘭」が出てきて、ウルフの思わぬナイーヴさに、しみじみしてしまう。「翼の生えた銃」は、限定状況の中、推理によって銃が飛び回ってしまという論理ゲーム的な面白さを持ち合わせた秀作だし、「『ダズル・ダン』殺害事件」は、人気コミックの作者チーム内の殺人事件を扱った時代風俗的にも興味深い作で、殺人容疑をかけられたアーチーをいかに救出するかも見所、と読み応えは十分。

 事件もさることながら、ウルフとアーチーの掛け合い、ウルフ、アーチーとクレイマー警視のののしりあい、ウルフの不機嫌と優雅な生活ぶり、アーチーの可愛い子好きといったお約束が、生き生きとしたアーチーのナレーションに散りばめられているし、連続ドラマ的にウルフ・ファミリーとでもいうべき名脇役たちを従えているのも、シリーズならでは楽しさ。

 黄金時代の本格派の名探偵を眺めてみると、意外なほど私立探偵が少ないことに気づかされるが(ポアロはビジネスには熱心ではないようだ)、ネロ・ウルフは、ホームズの伝統を継承し、依頼−代行の図式で動き、蘭と美食の生活を維持するためのビジネスとしての探偵業にも余念がない。探偵業における依頼人との様々な駆け引きのヴァリエーションを楽しめるのも、一編一編に工夫が施されていることの証左だろう。

 版元の予告の時点で、おおっと唸ったのが、シャーリイ・ジャクスン『なんでもない一日』。ジャクスンは、ミステリ・プロパーの作家とは言い難いが、早川書房の異色作家短編集に『くじ』が収録されているように、その系列に連なる真正の「魔女」の一人。『丘の屋敷』(旧題『たたり』)『ずっとお城で暮らしてる』という二作の長編恐怖小説が現役だが、古手の読者には、ミステリマガジンに掲載された、抱腹の育児エッセイ『野蛮人との生活』『悪魔は育ち盛り』も懐かしい。この作家の本当に久しぶりの短編集の刊行は、不意打ちとでもいうべき事態だった。

『くじ』『こちらへいらっしゃい』という二つの短編集が邦訳されているが、本短編集は、作者が48歳の若さで亡くなって四半世紀後に発見された未発表原稿や、単行本未収録短編で編まれた作品集(54編収録)から、独自に30編を厳選したものという。

 代表作「くじ」が村人たちの底知れぬ悪意を描いたように、本書も、人間心理の得体の知れなさを描き出す作者の天凛を感じさせる「怖い」短編が多いが、都会小説風の洒落た短編あり、ゴシック小説あり、心温まるスケッチありと、収められた作品は、バラエティに富んでいるし、ただの拾遺集とは思えないような質の高さを示している。

 ジャクスンの短編世界の多くは、夫婦や家族の会話、スーパーマーケットでの買い物、住民たちの噂話といった5、60年アメリカ郊外生活に材をとり、その中で生まれる違和感から人間の悪意を露わにしていく。恐怖は、日常生活と地続きなのだ。日常の中での違和感——時には狂気に至る——は、「逢瀬」「ネズミ」「家」のように、深く掘り下げられることもあし、ブラックな寓話やビターな日常スケッチにまとめられることもある。平易な言葉を積み重ねて、日常の中の違和を自在に操り、肝が冷える恐ろしい話にも、ユーモラスな一編にも仕立てられるところに、ジャクスンの本領があると思うし、現代にも通用する普遍性がある。特に面白かったのを三つ挙げると、「よき妻」「なんでもない日にピーナツを持って」「行方不明の少女」になるだろうか。

 ジャクスンの育児・家事にまつわる、エッセイ5編が収録されているのも嬉しい。繰り返すが、すべてのパパとママに読んでほしい楽しくもほろ苦い、育児エッセイ『野蛮人との生活』の復刊、その続編『悪魔は育ち盛り』の刊行も是非お願いしたい。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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