過去にも書いたことがあったと思うのだけど、音楽オタクなんぞと申しておきながら、わたくし、クラシック音楽にかなり疎いです。
 それでも、さすがに、ウラディミール・ホロヴィッツだとかエフゲニー・キーシンだとかのピアノが凄いと小耳にはさんではいる。知ったかぶりできるように、youTubeなどで聴いてみたこともある。そして、クラシックの花形であるこうした凄腕ピアニストたちの話題になると、この人らと並んでかならず挙がってくる名前に、ロシアのピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルという人がいるということも。
 父親が当時のソビエト連邦当局によってスパイの嫌疑をかけられ銃殺刑とされたリヒテルは、亡命を警戒されて西側へと渡ることを禁じられていたため、西側諸国では長らく幻の名ピアニストという存在だったらしい。そんな伝説のピアニストである彼には、かなり歳の離れた親しい友人がいた。ボリス・パステルナーク。ロシアを代表する高名な詩人にして小説家だ。われわれにとっては、なによりも、デヴィッド・リーン監督による恋愛サーガ映画『ドクトル・ジバゴ(Doctor Zhivago)』(1965年)の原作者として有名だろう。
 じつは、この名作映画が制作されアメリカで公開されるという時点でも、原作である小説『ドクトル・ジバゴ(Doktor Zhivago』は、本国ソ連で刊行されていなかった。国政を批判する内容であるとして、出版前から禁書扱いとされていたのだ。実際にこの本を最初に刊行したのはイタリアの出版社フェルトリネッリで、1957年のこと。ひそかに国外へと原稿が持ち出されて出版に至ったのである。つまり、最初の出版は言語ではなくスペイン語の翻訳版だったということになる。結局、ソ連でこの本が刊行されたのは、なんと1987年のこと。これ、歴史的な事実なのですよ。


 そんな史実を縦糸に、まさにその『ドクトル・ジバゴ』という小説本を武器として敵国に大打撃を与えようという米国CIA(中央情報局)の極秘作戦を横糸に、冷戦下の一時代を切り取ってみせたのが、ラーラ・プレスコットのデビュー作『あの本は読まれているか(The Secrets We Kept』(2019年)である。この小説、刊行前から200万ドルという破格の契約金が話題を呼び、世界30か国に翻訳紹介されることが決定している要注目作。この『ドクトル・ジバゴ』作戦自体も史実だというから、驚きだ。
『ドクトル・ジバゴ』のヒロイン、ラーラのモデルとされ、執筆を陰ひなたと支え続けた愛人オリガ、この極秘作戦に直接たずさわったCIAの若き女性諜報員イリーナ、その教育担当で後に同性愛関係となる先輩諜報員サリー、この3人の女性に加えて、パステルナーク自身と、オリガが属していたCIAのタイピストたち、あわせて5つの視点から綴られていく物語である。

 1949年のある日。詩人・小説家ボリス・パステルナークの愛人であるオリガが、前夫たちとの間に生まれた娘イーラと息子ミーチャ、母親とで暮らす家から、国家保安委員会へと連行される。パステルナークが執筆している反国家的内容の小説『ドクトル・ジバゴ』の内容を問いただすためだ。毎日のように尋問されたあげく、政権を侮辱し反体制的見解を持つ作家を賞賛しているとして5年の懲役という判決を下され、スターリンの死去による特赦で1年縮まったものの、オリガは4年間投獄されることになる。
 一方、1956年のワシントンDC。CIAの建物に、ロシア系アメリカ人の娘イリーナが職を求めて訪ねてくる。そこでなぜだかスパイとしての才能を見込まれ、タイピストとして働きながらある極秘作戦に関わる諜報員に抜擢されるのだが、その極秘作戦というのが、ソ連国内で出版を禁止されている『ドクトル・ジバゴ』を読ませることで、言論統制や抑圧のまかり通っている国政の現状をソ連国民に知らせ、国政批判の精神を植えつけるという啓蒙を目的とした計画だった。彼女の教育係に任命されたのが臨時雇いの受付嬢サリー。じつは彼女、百戦錬磨のCIA女スパイだった。やがて2人は同性ながら道ならぬ関係に。『ドクトル・ジバゴ』は秘密裏にロシア語で印刷、製本され、ソ連の人々の手に取られるよう策略が弄されていく。
 かくして、文学を武器に国家を転覆させようというまさかの作戦は現実に動き出し、オリガやイリーナ、サリーをはじめ、時代に翻弄され抑圧されてきた女性たちを、さらなる過酷な運命へと巻き込んでいくことになる。

 ボリス・パステルナークと、彼の“ミューズ”でありつつ“強制収容された女”で“使者”“代理人”“母親”であり“女郵便局長”となるオリガ・イヴィンスカヤとのエピソードは、ほぼ彼女の回顧録『パステルナーク詩人の愛』に沿ったものだと言っていい。回顧録を読めば済むといっちゃえば確かにそのとおりなのだ。
 いや、だからむしろ、この小説で注目すべきは、オリガもひっくるめて、CIAのこの途方もない作戦に関わることになる女性たちの生きざまなのだろう。小説を出版することもままならず、ノーベル賞という世界的な文学賞の受賞も辞退させようという、国家の言論統制の弾圧から愛する人の立場を解き放そうと足掻くオリガもそうだけど、その姿と対比させるかのように、記録マシンとしてしか存在認識されていないタイピストたちの日常――パワハラ、セクハラ、ひいてはレイプまで横行する――を活写することで、旧弊なCIA内部の構造、男尊女卑、同性愛蔑視といった、この時代の女性たちが強いられていた政治的人種的抑圧から、エスケイプしたいと希求する彼女らの姿を伝えるものだと。ちなみに、先ごろ邦訳紹介されたダン・フェスパーマンの『隠れ家の少女(Safe House』(2018年)では、20年近く経った1970年代後半のCIAの活動が描かれているが、女性諜報員の扱いに関しては、この1950年代とまだまだ大差なかったようだ。
 また、1度目の投獄でのオリガに対する尋問では、同じ訳者・吉澤康子氏が訳書の企画段階から携わったエリザベス・ウェインの『コードネーム・ヴェリティ(Code Name Verity』(2012年)を想起される読者も多いと思う。オリガが捕らえられ、パステルナークが執筆中の小説の内容を書き記せと、尋問官セミョーノフにペンと紙を与えられる前半のシーンは、まさに『コードネーム・ヴェリティ』のヒロインが、英国軍の情報漏洩を強いられる手記と同じ状況だ。
 その吉澤氏のあとがきにあるように、著者のラーラ・プレスコットの名前は本名で、『ドクトル・ジバゴ』のヒロインと同じ名前。この映画の大ファンだった母親がヒロインにちなんで名付けたというのだから、自らの手によって、名作『ドクトル・ジバゴ』が世に出るに至った背景があらためて世界の人々に伝えられることになったのは、何とも嬉しいことにちがいない。彼女が幼少時から聴かされてきた、映画に彩りを添えるあまりに有名な楽曲「ラーラのテーマ(Lara’s Theme)」の構成も、素朴に美しい旋律ながら複雑に展開していくあたり、あたかも、原作の小説が日の目を浴びるまでの苦難を代弁しているかのようである。
 ちなみに、ひとつだけ疑問だったのは、物語をかたる5つの視点のうち、“タイピスト”の章だけ、いったい誰の視点なのかわからないこと。“わたしたち”というからにはタイピストたちの一人のはずなのだけど、一人一人確認していくと、視点となっている人物が特定できない。座敷童子のような……って、たんなる読み逃しだったとしたらどなたかご教示ください。

『あの本は読まれているか』のCIAサイドの記述には、背景となったそんな1950年代を感じさせる、いかにもな音楽が彩りを添えている。
 が、なかでも、急進的な考え方を持つ女性諜報員サリーが好んで聴く音楽が、ジャズやソウル、黒人音楽をルーツとしたものだというのが、ある意味象徴的に思えるのだ。ファッツ・ドミノのレコードをかけながら荷造り。ガイ・ロンバード(白人ですが)のジャズを聴きながら一人で新年を迎えたがり、イリーナの誕生日祝いにタイピストたちを自宅に招いたときのBGMはサム・クック。白人のカントリー音楽が主流の時代、それでもダンスのBGMとしてリトル・リチャードを選ぶテディ(イリーナの婚約者になる)は、男性にしては進歩的なほうだろう。そんなテディも、同僚のCIA男性職員ヘンリーとジャズ・バーで話す場面では、「もしもあなたを失ったなら(If I Should Lose You)」を歌っている黒人女性歌手シャーリー・ホーンを賞賛しつつも、彼らが話しているのは、同性愛好者だとして職場を追われたサリーの話題。ホーンはおそらくヘテロセクシャルで、恋人が客席に来ているということを確認した2人が、どことなく安堵している様がさり気なく書かれている。

 一方、パステルナークのサイドでは、彼自身が音楽家を目指していたこともあり、多分にクラシック音楽や教会音楽のイメージが強い。とくにリヒテルに焦点をあてたのは、じつはラスト近くの印象的なシーンのせい。パステルナークの葬儀の日、ボリスの音楽室でリヒテルが葬送としてピアノを弾いている、という場面のことである。
 パステルナークとリヒテルの、そしてその周辺の関係をあらためて整理してみよう。
 画家である父親とピアニストである母親のあいだに生まれたパステルナークの自宅には、幼少時より、詩人リルケや作曲家スクリャービン、ラフマニノフといった芸術家たちがよく集まっていたという。スクリャービンに師事したパステルナークは音楽学校に進み、音楽家への道を目指し、作曲まで手がけたものの途中で断念。リヒテルのピアノに圧倒されてピアニストになるのを諦めたという説もあるそうだけど、彼らは25歳ほど年齢差があるので当時リヒテルが生まれているわけもなく、デマのようです。
 とはいえちょい解説しますと、リヒテルが師事したのがピアニストのゲンリフ・ネイガウス。パステルナークはネイガウスと親しい間柄だったにもかかわらず、彼の妻を略奪して結婚した。それが、生涯連れ添った妻のジナイダというわけ。かつてパステルナーク家に行き来していたネイガウスの弟子筋のリヒテルも、自然と自宅に通うようになっていたわけだ。
 そしてジナイダは、さらに、オリガが勤めていた〈新世界ノヴィ・ミール〉編集部付の秘書で、夫となるパステルナークを彼女と知り合わせるきっかけを作ったのは、本書では編集長とされているけれど、実際には妻となるジナイダ自身だった。
 さらにオルガの回顧録によれば、葬儀の日には、リヒテルだけでなく、アンドレイ・ヴォルコンスキーとマリヤ・ヴェニヤミノヴナ・ユディナが交代でショパンを弾いていた、とある。とりわけ、ユディナには、朗読会の場でBGMを弾いてもらったりしていたようで、よほど関係性は深かったように思えるのだけど、リヒテルは妻を奪ってしまった友人の愛弟子。何かしらの負い目があったと著者は推測し、リヒテルをフューチャーしてあげたのだろうか。
 できうることならば、ショパンではなく、パステルナークが19歳のときに作曲したピアノ・ソナタをリヒテルには弾いてもらいたかった。『ドクトル・ジバゴ』という名作が生まれたのも、パステルナークが音楽家の道を断念したからにほかならず、その踏み台となったともいえるこのピアノ・ソナタだからこそ、死者を悼む調べとして。

 余談ながら、パステルナークの死後、プレスコットの小説では書かれていないのだけど、書きかけていた未完の戯曲『盲目の美女(The Blind Beauty』(1960年)の原稿をめぐって、オリガたちとKGBとの間にひと悶着があった。パステルナーク自身が、唯一『ドクトル・ジバゴ』に匹敵すると考えていた作品なのだという。このもめごとが原因となったのか、オリガを支え続けた愛娘イーラも、パステルナークの死後に母ともども投獄されてしまう。彼女のイーラという名前、愛称だとイーロチカとかだけど、じつはイリーナの略称にあたる。そう、『この本は読まれているか』のヒロインである女スパイと同名。『ドクトル・ジバゴ』を守り続けたオリガを支えた娘、そして、『ドクトル・ジバゴ』を弾圧する国から世界へと開放する作戦を支えた娘。2人のイリーナ。作者のラーラ・プレスコットの想いは、こんなところにも反映されているのだった。

◆YouTube音源
■”Two Prelude” by Eldar Nebolsin

*ボリス・パステルナークが19歳で作曲した「2つの前奏曲」。スクリャービンの影響が色濃いと言われている。

■”Piano Sonata” by Tom Armitage

*同じく19歳で書かれた「ピアノ・ソナタ」。

■”Lara’s Theme” by Maurice Jarre

*『アラビアのロレンス』をはじめ、デヴィッド・リーン監督作品の音楽を数多く手がけたモーリス・ジャール作曲による、あまりにも有名な「ラーラのテーマ」。

◆関連CD
■『Sofia Recital 1958』Sviatoslav Richter

*1958年に、リヒテルがブルガリアのソフィアで行なったリサイタルの録音。

■『Scriabin』Ludmila Berlinskaya

*リヒテルの愛弟子とも言えるロシア人女性ピアニスト、リュドミラ・ベルリンスカヤによるアレクサンドル・スクリャービン作品集。幼少時にスクリャービンに師事したとされるパステルナーク作曲による「2つの前奏曲」収録。

◆関連DVD・Blu-ray
■『ドクトル・ジバゴ』

*オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティ主演。デヴィッド・リーン監督、1965年発表の代表作。

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。










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