Le port des brumes, Fayard, 1932/5[原題:霧の港]

« La Matin » 1932/2/23号-3/24号(全31回)

『霧の港のメグレ』飯田浩三訳、河出書房新社メグレ警視シリーズ47、1980*

『霧の港』松村喜雄訳、ハヤカワ・ミステリ165、1957

Tout Simenon T17, 2003 Tout Maigret T2, 2007

TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1972(第17話)

TVドラマ『メグレ警視22 霧の港』ブリュノ・クレメール主演、Maigret et le port des brumes, 2004(第20話)

 作家ピエール・アスリーヌの評伝によると、若いころのシムノンは映画をよく観たそうだ。とくにロベルト・ウィーネ『カリガリ博士』(1919)、ヴィクトル・シェストレム『霊魂の不滅』(1920)、ルネ・クレール「幕間」(1924)、ジャン・ルノワール「マッチ売りの少女」(1928)、アルベルト・カヴァルカンティ『Le train sans yeux』(1927)、ジョセフ・フォン・スタンバーグ『暗黒街』(1927)、フリッツ・ラング『メトロポリス』(1927)などがお気に入りで想像力を掻き立てられたらしい。なんともそそられるラインアップではないか。

 一方、フランス映画はシムノンからのフィードバックも受けていたかもしれない。シムノンの小説はたくさん映画化されたということもあるのだが、ごく初期のころからシムノンの小説は「雰囲気小説」と呼ばれることが多く、たとえばマルセル・カルネ監督、ジャン・ギャバン主演の映画『霧の波止場』(1938)などに類似の雰囲気が見受けられると考えた論者もいたようだ。

 作家のトーマ・ナルスジャックは著書『Le cas Simenon[シムノンの場合は](1950、抜粋邦訳あり)で「雰囲気」というタイトルの一章を設け、映画『霧の波止場』に言及しつつも、シムノンの小説を安易に「雰囲気」という言葉で語るのは危険だと論じている。『霧の波止場』はこの世に実在しない詩であって、だから大衆には受けやすいが、「シムノンの雰囲気は詩的 nature poétique ではなく心理的 psychique なものだからだ」と述べている。

 私も本作『霧の港のメグレ』を読み始める前に、題名が似ているこの映画『霧の波止場』を観てみた。ジャン・ギャバン演じる脱走兵ジャンは、北の港町ル・アーヴルへ辿り着く。掘っ建て小屋のような海辺の酒場で彼は画家ミシェルや、陰のある美しい17歳の女性ネリーと出会う。ジャンは兵隊という人生から逃れて別の生き方を探そうとしていたのだが、画家ミシェルも人生を棄てようとしており、そして孤児のネリーも異常な親戚のもとで暮らす日々に希望を見出せずにいた。船に乗って遠い世界へ旅立とうと考えていたジャンだったが、歳の離れたネリーと恋に落ちる。だが同時に彼は、町のけちな用心棒たちの抗争に巻き込まれてゆく……。

 マルセル・カルネ監督は後にシムノン原作の映画、『港のマリー』(1950)と『マンハッタンの哀愁』(1965)を撮っている。もちろん私はいずれそれらも観るつもりだ。こうしてシムノンを読んでゆくと、自然とシムノンが生まれ育ったフランスやベルギーなどの映画・文学の歴史にも触れることになる。それが楽しい。シムノンは誰にも似ていない、唯一無二の作家だったと思うが、シムノンを読むともっと大きなものさえも辿ってゆける気がしてくる。

 さて本作である。『三文酒場』と同時期に書かれながら、『メグレを射った男』の後まで書籍刊行が遅れた作品だ(第1作『怪盗レトン』以来、久々に新聞連載が先行したためであろう)。これまで『怪盗レトン』『男の首』を読んで、執筆時期と刊行時期が大幅にずれた初期作品は力作・意欲作だとの思いを抱いていたが、その感触をいま一度補強してくれる素晴らしい作品だった。本作には『怪盗レトン』『男の首』との共通点がもうひとつある。他の作品はすべて全11章構成だったが、これらの3作はそれより章の数が多いのだ。本作も第13章まである。そして実際、はみ出した最後の2章が本作では他の作品に見られない破調を生み出して、極めて緊迫感のある小説となっている。

 読み始めてすぐは、どこか『三文酒場』で描かれた夢のごとき世界を引きずっていると感じたが、やがてそうした印象も消え、作品が醸し出す力強さに引き込まれた。映画『霧の波止場』ともまったく違う作品だった。

 本作はいままで読んできたシリーズ第一期作品のなかでもベストのひとつだと思う。メグレを読んできて本当によかったと、心から思えた。事前知識なくメグレものを読む人にも本作は自信を持ってお薦めできる。この一作で、シリーズ第一期のメグレはやるべきことをやったと思う。

 10月末。メグレはジョリスという元船長で港務長の男と、その住み込み家政婦ジュリー・ルグランとともに、北へ向かう列車に乗っていた。ジョリスは50がらみの男で、記憶を喪失しパリで彷徨っているところを警察に保護されたのである。新聞で身元を募り、北の港町ウィストルアム(ウイストルアム)に住む若いジュリーが連絡してきたのだった。ウィストルアムとはオルヌ川がイギリス海峡へと流れ込むノルマンディーの町で、カーンに近い。

 ジョリスはウィストリアムで姿を消してから6週間も消息を絶っていたことになる。彼は頭に銃弾を受けた傷跡があり、その傷はうまく治療されていたがどこで手術を受けたのかは不明だった。しかも奇妙なのは彼の銀行口座に大金が振り込まれていたことだ。

 ジョリスとジュリーはウィストリアムの家に戻る。近くには波止場の人々がたむろする《商船酒場》Buvette de la Marine もある。霧は濃く、霧笛が聞こえる。メグレはふたりを残してホテルで一夜を過ごしたが、翌朝になってジョリスが毒を盛られたという知らせに愕然とする。ベッド脇の水差しに毒が入っていたのだという。メグレは急いで駆けつけ、死に際を看取った。ジョリスは死ぬ寸前、不意に生気を顔に漂わせ、大粒の涙を溢れさせて死んだ。

 前夜に水差しを用意したのはジュリーだったが、彼女は何も知らないという。

 メグレは《商船酒場》で現在の港務長デルクールらと酒を酌み交わしながら彼らの懐へ入り、町の事情を聞き出した。ジョリスは遺言状をしたためており、そこには家政婦ジュリーに財産を遺すと書かれていたからだ。海の男たちはジョリスとジュリーが男女の関係だったのではないかと勘ぐっている。またジュリーの兄はグラン=ルイ(のっぽのルイ)と呼ばれる前科者で、いまは《サン=ミシェル号》という遠洋船の船乗りになっていた。《サン=ミシェル号》はジョリスが姿を消した9月16日にこの港町へ来ていたらしい。そしてグラン=ルイは昨夜もこの町へ現れていたようなのである。

 事実、グラン=ルイは前日のうちにジュリーへ置き手紙を残していたのだった。メグレはウィストルアムの村長グランメゾン氏と会う。猟を趣味とする裕福な彼はカーンに商船会社を持っており、夫人はカーンの家で過ごすことが多い。15歳の長男は寄宿舎にいる。

 相変わらず霧は濃く、夜は少し先さえ見えないほどだ。前科者のグラン=ルイが妹のジュリーと共謀して遺産目当てにジョリスを殺したのだろうか? だが、「これで終わりでないとしたら?……」メグレはパイプの灰をはたき落とす。

 ここまでが第3章である。霧の港町、海辺の《商船酒場》……最初のうちこそ映画『霧の波止場』の道具立てと似ているが、翌日《サン=ミシェル号》が港へ到着し、メグレがその船長ラネックや船員グラン=ボブらと相まみえるあたりから本作独自の緊張が高まってくる。

 すでにこの時点で、メグレはこの港町ウィストルアムのさまざまな側面を感じ取っている。実際メグレが宿泊しているホテルは、夏になれば避暑客で賑わうはずの場所なのだ。酒場に集う船乗りたちもいれば、グランメゾン氏のように大きな別荘に住む金持ちもいる。そうしたさまざまな側面を反射させながら、関係者らの思惑が急速に浮き彫りになってくる。人々は何かを知っていながら、誰もが何かを隠しているようなのだ。メグレが《サン=ミシェル号》の船室に乗り込んで彼らと対話するときの描写で、その緊張が最初に爆発する。

 彼らはみんな底意のない雰囲気だ! 朗らかな顔だ! ところが、そうしたすべてがそらぞらしい! しかし、それが実に巧妙だから、なぜそらぞらしいのか、何がそらぞらしいのか、口では言えなかった。

 善良な人たち! 彼らの外見はそうだった。ラネックも、デルクールも、ジョリスも、《商船酒場》の人たちも、グラン=ルイさえ、好感のもてる無頼漢といった印象を与えていはしまいか? 

 こうしたシムノン節は、うまく嵌まったとき絶大な効果をもたらす。正直なところ私はここ数作のメグレが満足できないものだったので本作にもさほど期待していなかったのだが、第4章を読み終えるころにはもう作品世界にのめり込んでいた。文章の生気がこれまでの数作とはまるで違う。作者は確実に物語をつかまえている。

 これで終わりではない、というメグレの直観は当たっていた。《サン=ミシェル号》の停泊中、グラン=ボブは別の浚渫船(しゅんせつせん)を寝床にしていたが、この船に別の何者かが潜んでいることにメグレは気づいたのだった。メグレはパリから腹心のリュカ巡査部長を呼び寄せ、船を見張らせる。《サン=ミシェル号》は誰かに売られる手はずになっていたようで、しかもその売買はグラン=ルイが仲介していた。メグレのもとへ、グランメゾン村長が階段から落ちて怪我をしたという知らせが入った。メグレは村長の別荘へ赴く。夫人はパリへ行っており、事故のとき邸宅には他に誰もいなかったというのだが、会うと村長はまるで誰かに殴られたかのような顔をしていた。村長はそんな顔でありながらも、権威を振りかざし、メグレに成果が出ているのかと詰め寄ってくる。メグレも負けてはいない。なぜ奥さんはいないのか、これから起こることが知られないようにするためではないか、と逆に問い返す。ねじれた人間関係がさらに鮮やかに提示されてゆく。ここでの静かな対決は、説明的な文章も続いてはいるものの、一級の作家にしか書けない鮮やかな場面となっている。

 これは戦いではない。とはいうものの、互いに相手の敵意は察していた。それは多分、二人が属している階級のせいでだけだった。

 メグレは《商船酒場》で水門番や漁師たちとグラスをかわす。

 村長は自宅へ検事局のお歴々を迎え、お茶、リキュール、クッキーをもてなす。

 メグレは、何らかのレッテルをはることは不可能なむきだしの人間だった。

 グランメゾン氏は、はっきり限られた階層の人間だった。村の有力者。金持ちで古い家柄の当主。

 たしかに、彼の態度はこだわりのない民主主義で、ウィストルアムの通りでは村民に声をかける。しかし、その民主主義は人を見下すもの、選挙向けのものだ! 定められた行動の枠組をはみ出すものではない。

 メグレは、相手をほとんどたじろがせるような確固とした印象を与えていた。顔はピンク、腹はぶよぶよのグランメゾン氏はたちまちみせかけの横柄さをなくし、狼狽を見せていた。

 村長は優位に立つため強気に出る。メグレは落ち着き払って次の一手を繰り出す……!

 ここまでが第6章。いつもだとこの章で事態は転換を見せ、終盤へ向けて収束の準備が始まるのだが、本作では第7章に入ってからさらに次の展開が繰り出されて読者を揺さぶる。すなわち起承転結の承と転に厚みがあるのだ。やがてウィストルアムから逃亡を図った浚渫船の男が捕まり、読者の前に現れるに及んで、人間関係はさらに複雑化してゆく。本作の特長は当初前景に出ていた人物たち──家政婦のジュリーやその兄グラン=ボブといった面々の向こうに、さらに入り組んだ別の世界が広がっていたのだと徐々に見えてくるところにある。シムノンはこれまでも終盤になってとつぜんいままで表に出てこなかった人物を登場させて、実は事件の裏にはこんな因果があったのだと披露することがあったのだが、あまり成功していなかった。しかし本作は、人形の腹を切って中身を裏返してゆくような、こうしたひとつひとつの露出が見事に嵌まっている。メグレがグラン=ルイ、ジュール兄妹と話し合う場面もいい。妹は兄に対し、本当のことを話してと懇願する。だが海の男グラン=ルイは黙っている。『港の酒場で』でも見られた光景だが、本作ではこうしたシーンが物語のすべてではなく、数ある葛藤のなかのひとつなのだ。それだけ人々の関係性が豊かだということなのである。

 そして本作は嵐の夜の港という、まさに劇的なクライマックスへと向かってゆく。吹きつける雨。水門の境界さえ見えなくなった夜、メグレは《サン=ミシェル号》に乗り込み、船員たちと言葉で対決する。ここで港町という舞台の効果は最大限に発揮される。次のように書くシムノンの筆は冴え渡っているとしかいいようがない。

(前略)防波堤で保護されているのに外港の海は荒れていて、波がくるたびに、《サン=ミシェル号》はまるで深呼吸でもするようにせり上がった。

 第10章終盤のテンションの高さを見よ。そしてふだんならエピローグとなるはずの第11章の静かな開幕──そこで描かれるあまりに巨大で圧倒的な遠景! こんなシーンはいままでのメグレに登場しなかった。目を瞠るほどの素晴らしさだ。そして驚くべきことに、第11章のラスト一行で、事件はさらなる展開を読者に予感させる! 

 次の第12章へとページをめくるとき、私は本当にどきどきした。まるで自分が未知の世界へ足を踏み入れるようだった。これまで多くのメグレは全11章で終わっていたのに、本作ではさらに続きがある。いったい作者シムノンがこの後どのように筆を進めてゆくのか、まるで想像がつかなかったからだ。現実には私の期待を越えるものと、期待の範疇に留まるものがあった──だが私は満足できた。シリーズ開始作のひとつ『サン・フォリアン寺院の首吊人』での印象が蘇ってきて、本作でシリーズ第一期は大団円を迎えたようにさえ感じた。

 そして読み終えた後、私は本作に将来のシムノンの姿さえ籠められているような気がしたのである。私はシムノンの著作リストをいつもそばに置いているので、シムノンが後に『Le Grand Bob』(1954、未訳)という単発作品を書いたことを知っている。もちろん私はまだそれを読んでいないのだが、ひょっとしたらこのタイトルは『偉大なるボブ』ではなく『のっぽのボブ』と読む方が正しいのかもしれない、と感じたりする。また最終章の副題は「向かいの家」La maison d’en face だが、やはり私はシムノンが近い将来『Les gens d’en face[向かいの人々](1933、未訳)という本を書き、これが心理小説の傑作と賞賛されるようになることも知っている。延長された2章分の大いなる?厚み?が、本作と後のシムノン作品を繋げているようにさえ思えるのだ。

 本作の映像化はうまくいっていない。

 いつものようにジャン・リシャール版とブリュノ・クレメール版のTVドラマを観た。どちらもよいところとだめなところのある作品だったが、「霧の港」といいながら肝心の霧がまったく、ないしほとんど表現されていないのは残念だった。いまではもう霧が立ち籠める港町など存在しないのだろうか。

 ジャン・リシャール版の監督は、『怪盗レトン』(第19話)と同じ Jean-Louis Muller[発音はジャン=ルイ・ムラーか]。助監督として何作かシリーズに関わった後、本作で監督となったようだ。本作ではメグレたちがパリから北へと向かう冒頭の列車のシーンで、運転席の窓越しに線路が映し出されて、すぐに同じ監督だと気がついた。私はジャン・リシャール版のドラマを『怪盗レトン』から観始めたので、まるで原点へと戻ってきたかのような懐かしさを覚えた。本作も『怪盗レトン』のときと同様、いくらか物語の細部が変更されていた。今回はそれがあまり効果的ではなく、しかも肝心の港を背景に持って来ずにエンディングシーンとしてしまったのは失敗だと感じたが、最初に観た監督の作品だからだろうか、あまり憎めずにいる。

 ジャン・リシャール版がクライマックスの“遠景”を描いていなかったのでブリュノ・クレメール版を心配したが、私の想像とは少し異なっていたものの、大きな“遠景”は出てきてほっとした。それでも、原作ではその遠景が用意されていたからこそラスト近くでグラン=ルイの見せる人間らしさは際立っていたのだが、その部分は描かれていなかった。ドラマならではの面白いひねりは、メグレがパリのリュカに応援を頼むもののリュカが出向けず、代わりに素人同然の事務職の男がやってくる点だ。本作でのリュカはたぶんいままでのリュカの人物設定とは違う。背も低く、どこか間抜けだ。このドラマ版ではそうした特徴を別の男に割り振ることで、シリーズのなかでは珍しいユーモアをつくり出している。

 本作はぜひ映画で観たいと思った。シムノンの小説は数多く映画化されているが、後々まで人の心に残り続けたものは意外と少ない。だがいまなら霧の港という舞台を、クライマックスの嵐も、次にやってくる静かな朝も含めて、うまく描き出せるのではないだろうか。映画『霧の波止場』とは違う新しい名作、映画『霧の港』を観てみたい。

 ただジャン・リシャール版もブリュノ・クレメール版も家政婦ジュリー役の女優は素晴らしい。決して美人ではないがじっくり話を聞いているうちに痛切な心の声が届いてくる。内面から優しさとかわいらしさが滲み出てくるのが見て取れる。

 ブリュノ・クレメール版DVDには、いつも翻訳家・長島良三氏による作品解説記事が収録されている。今回、私はそれを読みながら、少しじんときてしまった。高校時代の長島氏は、友人がトルストイを原書で読破しているのを眩しく感じていたという。そうした友人の影響を受けて高校3年からフランス語を学び始め、大学も仏文科へと進学した。その大学一年の夏休みに、初めて丸善で買った原書がシムノンの『黄色い犬』と本作『霧の港のメグレ』だったそうだ。長島氏は『霧の港のメグレ』から読み始めた。夏休みの間ずっと大学の図書館に通い、辞書と首っ引きで一週間で読破したという。

 その4年後に長島氏は出版社へ就職し、やがてメグレシリーズを何冊か出版する。さらに自分でも翻訳することになってゆくのだ──。長島氏の思い出話は、ふしぎなことだがやはり大きな環を形づくっている。『霧の港のメグレ』という作品は、読んだ人になにか来し方へ想いを馳せさせる、奇妙な力を持っているかのようである。

【ジョルジュ・シムノン情報】

▼2015年に作成された、シムノン読者のためのリエージュ観光案内パンフレット。シムノンが生まれ育った町であり、サン・フォリアン寺院などゆかりの地が紹介されている。PDFダウンロードはこちら( http://www.liege.be/telechargements/pdf/tourisme/simenon-2015.pdf )。

▼ペンギン・クラシックスの新英訳メグレシリーズは、全75作のメグレ長篇小説を順番に毎月一冊ずつ刊行してゆく素晴らしい企画で、すでに大戦前の第一期、戦争直前〜戦中期の第二期を順調に刊行し、戦後の第三期のタイトルが始まっている。表紙の写真はベルギーのハリー・グリエール Harry Gruyaert、デザインはブラジルの Alceu Chiesorin Nunesで統一され、なかなかかっこいい。最初の6冊、『怪盗レトン』から『メグレと深夜の十字路』までは『The Maigret Collection 1』として2015年12月にセット販売もなされた。(今後の刊行予定など詳細はペンギンの作家特設ページ https://www.penguin.co.uk/authors/georges-simenon/9482/ を参照されたい)

▼2016年2月、シムノンの回顧録『Quand j’étais vieux[私が老いていたとき](1970)の英訳『When I Was Old』が、ペンギン・モダンクラシックスのレーベルから復刊される。翻訳者は『水平線の男』(創元推理文庫)のヘレン・ユースティス。(《ニューヨークタイムズ》の関連記事 http://www.nytimes.com/2015/02/09/books/helen-eustis-mystery-author-and-translator-dies-at-98.html?_r=0

▼ローワン・アトキンソン主演のTVドラマ製作を受けて、ペンギン・クラシックスから原作『メグレ罠を張る』(1955)のTVタイアップ新訳版『Maigret Sets a Trap』が、早くも2016年3月に刊行されるようだ。ペンギン新英訳シリーズは現時点でオムニバス社版メグレ全集の4巻目に差しかかっているが、『メグレ罠を張る』は6巻なので、ずいぶん前倒しで新訳が出ることになる。シリーズ屈指の人気作であり、何度もドラマ化・映画化された原作だけに、今回のドラマの仕上がりも楽しみだ。(《海外ドラマNAVI》の記事 http://dramanavi.net/news/2015/09/post-3898.php

▼2015年9月より、英米でペンギン・メグレシリーズの朗読MP3ファイルが順次発売されている。日本では現在、iTunes から購入可能。英米の Amazon Audible でも聴けるが、日本の Audible ではまだ配信されていないようだ。CD版は2016年2月からイギリスで『霧の港のメグレ』等4作を皮切りに順次発売される。《T Magazine》2015年9月25日付の記事「The Voice of Maigret — and the Art of the Audiobook」( http://www.nytimes.com/2015/09/25/t-magazine/the-voice-of-maigret-and-the-art-of-the-audiobook.html

▼注意:ペンギンのレーベルはUS版の刊行がUK版より半年ほど遅れるらしく、日本の Amazon.co.jp はUS版のスケジュールに合わせて販売しているようなので、タイムラグが生じている。Amazon.co.uk からであれば早く入手できる。

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。



【毎月更新】シムノンを読む(瀬名秀明)バックナンバー