はじめに

 仏文翻訳の中川潤と申します。

 このたび、拙訳kindle版『モーリス・ルヴェル短篇集』が完結しました。短篇集完結、と申しましても、実はこれ、本編二十六編中の僅々十五編ほどに過ぎないのです(恥ずかしながら!)。まずはこのことについて説明させてください。

 底本とした原書短篇集は1910年に刊行された『地獄の扉 Les Portes de l’Enfer 』というものです。名訳の誉れ高い創元推理文庫版のモーリス・ルヴェル『夜鳥』(田中早苗訳)には、『地獄の扉』から以下の十一編が収録されています。

 或る精神異常者/幻想/碧眼/乞食/青蠅/情状酌量/

 集金掛/父/十時五十分の急行/ピストルの蠱惑/空家

 この十一編を除いた十五編——

 鴉/街道にて/悪い導き/消えた男/対決(以上第一巻)

 雄鶏は鳴いた/赤い光のもとで/執刀の権利/太陽/大時計(以上第二巻)

 古井戸/ひと勝負やるか?/罪人/先生の臨終/接吻/奇蹟(以上第三巻)

 ——を三回に分けて訳出したのが、今回の『モーリス・ルヴェル短篇集』です(実は、おまけの一編を仕込んで十六編となっております)。つまり、創元推理文庫版(現在、残念ながら品切れになっていますが)と拙訳を合わせれば、『地獄の扉』全二十六編を日本語で読んでいただけることになります。

 その創元推理文庫版『夜鳥』が出たのは2003年。この時点ではまだ、日本にいてルヴェルの原書を入手するのは容易でなかったのですが、数年後、フランス国立図書館のサイトや、フランス版「青空文庫」のようなサイトで、ルヴェルの作品がいくつか読めるようになっているのを知りました。その中に『地獄の扉』も含まれていたわけです。

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(Les Portes de l’Enfer 扉ページ。フランス国立図書館のサイトより)

ルヴェルという作家

 さて、ルヴェルの作風についてですが、よく比較されるポーやヴィリエ・ド・リラダンほど高踏的ではないし、モーパッサンほど文学性が高いわけでもない——それもそのはず、ルヴェルの作は当時、全て大衆向けの新聞・雑誌に掲載されていたのです。また作品のいくつかが、当時フランスで流行していた恐怖演劇“グラン・ギニョル”として上演されたため、怪奇・恐怖(ホラー)小説の文脈で語られるのが一般的になっています。米国では、ルヴェルの英訳が怪奇小説専門誌『ウィアード・テールズ』などに掲載され、かのH・P・ラヴクラフトも高く評価していたようです。(参考。英語版ウィキペディア ラヴクラフトの評言が引用されています)

 この場で個々の作品を解説する余裕はないのですが、テーマとしては、〈寝取られ男〉もの(「鴉」「大時計」「古井戸」)と〈失敗した医者〉の話(「消えた男」「執刀の権利」「先生の臨終」)が多いですね(笑)。いわゆる法廷もの(「対決」「罪人」)や、盲人・囚人・浮浪者を主人公としたものもあります。私が気に入っている一編を挙げるとすれば、「太陽」(第二巻所収)という作品です。孤児院から出奔した少年が放浪のすえ軍隊に入るが、息苦しさからまたも脱走・放浪、捕らえられて独房に閉じ込められるも、今度は孤独な想像力を自由に羽ばたかせる悦びを見いだす、という話で、言わば無垢な少年の寄る辺ない魂の彷徨を凝視したような作品です(むろん、ルヴェルらしい結末を迎えるのですが)。

 ルヴェルを好んでいた江戸川乱歩はエッセイ『少年ルヴェル』(昭和三年。『夜鳥』に再録)の中で、こんなことを書いています。

 はてしのない広い広い野原を、小さな子供が一人ぼっちでとぼとぼと歩いている。もう日が暮れかかって来るのに、どちらを向いても一軒の人家も見えない。とか、闇の夜の森の中をやっぱり一人ぼっちの子供が歩いている。森は深く、家路は遠い、その淋しさ、悲しさ、怖さ、という様なものが、ルヴェルの短篇の随所に漂っている。

 世には、少年でなければ感じられぬ、謂わば純粋な悲しみ、純粋な恐れという様なものがある。

 ここに〈少年でなければ感じられぬ、ささやかな悦び〉を加えてもよさそうですね。

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 以上、今回の訳出で対象にしたのは第一短篇集『地獄の扉』でした。第二短篇集の原書版『夜鳥 Les Oiseaux de nuit』(1913)ともう一点、Contes de l’heure présente (1914)という短篇集が存在するのですが、これらは現在、全く入手困難な状況なのです。海外の古書サイトを検索してみても全くヒットしませんね。長篇については、主要なタイトルはどうにか入手できているのですが。

 というわけで、ルヴェルの短篇については訳すべき作品が枯渇してしまったため、作業を終えざるをえない状況でしたが、一昨年の十二月……

ルヴェルとは何者?

 ここらでモーリス・ルヴェル Maurice Level(1875-1926)という作家について紹介しておきましょうか。といっても、これが見事なまでに情報の欠如した作家なのですね。おそらく、本国フランスでも研究者は皆無だと思われます。したがってまともな年譜や書誌もつくられていません。没後にまとめられた作品集もなく、多くの作品が新聞・雑誌に掲載のまま埋もれていると思われます(この件に関しては後に触れます)。

 ルヴェルと同時代の作家で、フランスでは研究と再評価が進み、日本でも昨年全集が出たマルセル・シュオッブなんかとはえらい違いですね。ところで、シュオッブとルヴェルが従兄弟どうしだという説があるのですが、これも今となっては調べようのない、ちょっとした謎のひとつではあります。

 フランス本国での冷遇に比べて、英米では1920年代に、相当数の短篇と、長篇が二本ほど、英訳されていますし、日本でも大正から昭和初期にかけて、雑誌『新青年』などに多くの作品が訳出掲載されたのは周知の事実。また、英米や日本の資料の中には、若干の伝記的情報も出ています。曰く、アルザス地方出身の軍人を父としてパリに生まれる。父の任地であるアルジェリアで幼少期を過ごしたあと、パリに戻って医学を学んだ。勤務医まで進むも、やがて文筆の世界に身を置くようになる——

 ただし、これらを裏付けるフランス側からの資料は今のところ見い出されていません。まあ、作品を読んだ限りでは、医学を学んだのは間違いなさそうだし、意外と素朴なキリスト教徒であったのではないかという気もします。

(参考。フランス語版ウィキペディアのページに、妻の父親が描いたというルヴェルの肖像画が掲載されています)

今後のことなど

 さて、一昨年(2014年)十二月ですが、東京創元社から荒俣宏氏の編纂になる『怪奇文学大山脈 III 西洋近代名作選 諸雑誌氾濫篇』というアンソロジーが刊行されました。その中にフランス作家として、ガストン・ルルーやアンドレ・ド・ロルドとともに“グラン・ギニョル”と関係の深いルヴェルの短篇「赤い光の中で」(藤田真利子訳)が収録され、編纂者の荒俣宏氏による「まえがき」および「作品解説」ではルヴェルについても多くの言及がなされています(これは必読ですよ!)。私が特に注目したのは、ルヴェルの作品が掲載された雑誌・新聞名がいくつか挙げられていたことです。以下の諸誌(紙)です——

『ジュ・セ・トゥ Je sais tout』(月刊誌)

『ル・ジュルナル Le Journal』(日刊紙)

『ル・モンド・イリュストレ Le Monde Illustré』(週刊誌)

 おまけに、何と、『ル・ジュルナル』紙はルヴェルの恐怖コントを「週一本ほどのペースで掲載して」いたという記述(同書43頁)まであるじゃないですか! 何という耳寄りな情報!

 で、蛮勇を振るって(?)埋もれた作品の探索に乗り出してみることにしました! まことにありがたいことですが、フランス国立図書館のウェブサイトでは(若干の欠落があるものの)当時の多くの新聞・雑誌が写真版で公開されているのですね。だから日本に居ながらにしてそれらを渉猟できるわけなのです。これがまた楽しい作業でありまして、肝心の訳出作業をしばしの間中断してまで(!)没頭してしまいました。

 さて、その収穫ですが、『ル・ジュルナル』紙の欠落はごくわずかでしたので、未邦訳作品を45編ほど発掘することができました。さすがに「週一本ほどのペース」というわけではありませんでしたが(笑)。全てが拙訳や『夜鳥』に収録されたような短いコントです。『ジュ・セ・トゥ』は、モーリス・ルブランのルパンものやガストン・ルルーの長篇小説(フイユトン)を挿絵入りで掲載したことで有名な雑誌ですが、ここでもルヴェルはやや長めの短篇や中篇、それに戯曲とルポルタージュも発表していました。こちらでは、それほど深刻でない内容の作品も含まれているようです。『ル・モンド・イリュストレ』ですが、これは『地獄の扉』と同じ版元から出ていた雑誌(というより週刊新聞)なので大いに期待したのですが、ルヴェルが活動していた時期がごっそり欠落していました。残念! そのかわり、たまたま目を通した『ル・プティ・パリジャン Le Petit Parisien』という大衆向きの絵入り週刊誌で、数編の短篇を発見することができました。

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(ルヴェルが作品を発表した紙誌の表紙。フランス国立図書館のサイトより)

 現時点で60編ほどですが、他紙(誌)を含めればまだまだ埋もれている作品があるかと思われます。今後も探索を続けながら、集めた作品を吟味の上、『モーリス・ルヴェル短篇集 拾遺』とでも銘打って、続編を出していきたいと考えております。

【参考資料】

『ルヴェル傑作集』創土社

『フランス怪談集』河出文庫

『怪盗対名探偵 フランス・ミステリーの歴史』(松村喜雄)双葉文庫

『夜鳥』(田中早苗訳)創元推理文庫

『グラン=ギニョル傑作選 ベル・エポックの恐怖演劇』(真野倫平編訳)水声社

『厭な物語』文春文庫

『最初の舞踏会 ホラー短編集 3』(平岡敦編訳)岩波少年文庫

『怪奇文学大山脈 III 西洋近代名作選 諸雑誌氾濫篇』(荒俣宏編纂)東京創元社

『マルセル・シュオッブ全集』国書刊行会

日本語サイト(携帯端末では正しく表示されないサイトがあります)

  • 十九世紀フランス忘却作家メモ モーリス・ルヴェルの項

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/5231/Oubli/level.html

  • ルヴェル礼賛!

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/6168/Maulice-Level.html

  • 東京創元社『夜鳥』の紹介ページ

http://www.tsogen.co.jp/wadai/0302_02.html

  • プヒプヒ日記 モーリス・ルヴェル言及ページ

http://d.hatena.ne.jp/puhipuhi/searchdiary?word=%2a%5bLevel%5d

  • 『地獄の扉』の朗読が聴けるサイト(フランス語)

http://www.litteratureaudio.com/livre-audio-gratuit-mp3/level-maurice-les-portes-de-lenfer-oeuvre-integrale.html

中川 潤(なかがわ じゅん)

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 そろそろ裏稼業を整理し翻訳に専念したいと思っている昨今。(毎年同じ誓いを立てているような気もしますが……)とりあえず、目の前にあるものをどんどん進めていきたい。

 モーリス・ルヴェル関連の情報は、ツイッターからハッシュタグ #モーリス・ルヴェル でご覧いただければ幸いです。

●ツイッター・アカウント: http://twitter.com/Nakagawa_Jun

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