今回は、偶然、英国の小説4冊と評論が並んだ。時代も手法も異なるミステリながら、何らかの意味でサークル内とそれ以外との葛藤が扱われているのが興味深かった。

 第四作『猿来たりなば』を皮切りにトビー・ダイク&ジョージものが創元推理文庫で立て続けに刊行され、トリッキーな謎解きと意外な探偵役の設定などで好評を博したものの、その後、翻訳が途切れてしまった感のあるエリザベス・フェラーズ。2007年には、今は亡き長崎出版から、『嘘は刻む』(1954)の翻訳が出たが、犯人の設定に創意を凝らしてはいても、さほど話題にならなかった記憶がある。

『カクテルパーティー』(1955)は、邦訳された作品の中で、フェラーズの新たなる代表作といっていいできばえ。

 舞台は、ロンドン郊外の小さな村。婚約祝いのために催されたパーティーの席で、女主人の用意したロブスター・パイに誰もが顔をしかめ、食べるのを止める。苦い味がするのだ。一人食べ続けた紳士が帰宅して、ヒ素中毒死したことが判明する。

 冒頭からフェラーズの特徴がよく出ている。女主人公ファニーは、元女優だが、今は動きの緩慢な50代の女性で骨董屋を開いている。その夫で大学講師のバジル、ファニーの年の離れた義弟で婚約したばかりのキット、そして村の友人ら。小さな村で安らかに自足した暮らしをしている人々の間に、キットの婚約がさざなみを立てる。平易な言葉で、巧みに人物像を描き出し、スモールサークルのパーティーの場が見えない葛藤が渦巻く場になっていることをよく伝えている。

 加えて、際立つのが謎づくりのうまさ。パーティーの場に、特異体質の人間が二人いたという「偶然」が判明することで、誰が狙われたかを絞り込むことが難しくなり、単純な事件にもかかわらず、事件の構図は容易に読み解けない。

 物語は、事件の謎解きを主軸に展開するが、誰が謎を解くのかは最後まで伏せられる。物語を駆動するエンジンは、登場人物たちが立てる仮説、推理そのものだ。主要登場人物は、サークル内の人間に一度は犯人として名指されるのだが、典型的な多重解決物ではなく、各人の推理が新たな葛藤を生み、行動を起こさせ、事件に新たな展開を生んでいく。

 名探偵を置かず、登場人物の心理の襞も書き込み、なおかつ、推理が主題であり、意外性も追求したフーダニットである点で、本書は、オーソドックスな本格ミステリの殻を破った発展形ともいえる。

 終盤、二つ目の殺人が起きてからの展開は、適度な緊張をはらみつつゆったりと流れる河が急流に変じたように、異なる真相が次々と視界に浮上しては、覆されていく。最後の最後まで真犯人も真の探偵役も隠され、冒頭からは、予想だにできなかった意外で暗然たる結末が待ち受ける。

 読み終わった方は、ぜひ、読後にもう一度、当たり直してほしい。巧妙な手がかりという域を超えて、表層の物語の下に真犯人の計略や、生々しい息づかいがしっかり書かれているのを見い出すことができるから。特に、ある人物のふるまいには慄然とさせられる。このことは、一見自足しているような人々の中にある不安や孤独、家族や友人でも心の中は判らないという、ある意味当然の真実を再認識させるし、謎解きをメインとしながら、単純な秩序回復のドラマに終わらない本書の真骨頂でもある。

 長編は本邦初公開となる英国のコリン・ワトスン。筆者としては、「待ってました」の掛け声をかけたくなる一冊。作家で評論家のH・R・F・キーティングが『ミステリの書き方』(早川書房)という本で様々なミステリのサブジャンルについて論じているが、「ファルス・ミステリ」の代表作家として、このワトスンを挙げているからだ。キーティングによれば、ファルス・ミステリはユーモア・ミステリより「もっと巧妙な形式」だという。少し長くなるが、該当部分を引用してみる。

「コリン・ワトスンはユーモア作家としてのすぐれた才能を持っている。彼の作品の登場人物は、弱点や欠点があるにしても、当初はきわめて普通の人物たちに見える。そしてワトスンはしだいに彼らを現実離れした世界、途方もないことばかりが起きる冒険と出会いの世界へと投げこんでしまう。彼は、クライム・ストーリーやパズル・ミステリの形をとりながら、人間の愚かしさに対する意見を述べているのだ」(長野きよみ訳)

 『愚者たちの棺』(1958)は、英国の架空の港町、フラックスボローを舞台にしたパーブライト警部ものの第一作目。キーティングの指摘するファルスに関する力量は既に十分に発揮されている。

 新聞社主グウィルの死体が送電用鉄塔の下で発見される。マシュマロを口に入れたまま、真冬だというのにスリッパ履きという不可解な恰好での感電死。現場では幽霊の目撃証言も飛び出す。その七か月前には、隣人の会社経営者も死亡しており、相次ぐ名士の死亡には、なにか関連があるのか-。

 ストレートに笑いを狙うという作風ではない。が、筆致はいかにも英国流で、ビターでぬけぬけとしたユーモアを効かせてある。

 被害者の屋敷は、「赤レンガの壁は、郊外の高級住宅地に臆面もなく居を構えた初代の所有者、成金の靴紐製造業者をいまだ恥じて赤面しているかのようだ」という具合。

 捜査に当たるパーブライト警部は、切れ者だが、無能な署長に憤るほかは取り立てて特徴のない人物。本書での相棒は、童顔でなぜか女性の母性をかきたてるらしいシドニー・ラブ巡査部長。個性派揃いの名探偵の中では印象が薄いほうだが、キーティングのいうように、「きわめて普通の人物」たちであるゆえに突拍子のない事件が冴えるというもの。

 実際、被害者らが関与していた秘密の内容が次第に明らかになると、あっけにとられてしまう。その秘密もさることながら、読み手はとっくにお見通しなのに、現場にいるラブ巡査が一向に気づかない辺りのズレが笑いを呼ぶ。

 では、本書は、笑いだけかというと、謎解きの方もご心配なく。伏線も回収しつつ、大胆で意外性のある謎解き、クライマックスが用意されている。でも、私見では、本書の性格をよく表しているのは、じわじわと笑いが押し寄せる、幕切れの二行。早くも癖になりそうだ。

 森英俊氏の解説によれば、ミステリ的にもファルス的にもシリーズの魅力は巻を追うごとに加速していくようだから、続刊を大いに期待したい。

 『極悪人の肖像』(1938)は、イーデン・フィルポッツの名のみ高かった作品の初邦訳。その理由は(またしても)乱歩だが、倒叙探偵小説の代表作例としてフランシス・アイルズ『殺意』などと並べて挙げたこととに由来している。しかし、本書は、倒叙物とは言い難く、特異な犯人を主人公にしたクライム・ストーリーというのが妥当なところだろう。『赤毛のレドメイン家』『闇からの声』『テンプラー家の惨劇』『医者よ自分を癒せ』、そして昨年完訳されて記憶に新しい『だれがコマドリを殺したのか?』など強烈な悪人像を描いて定評がある作者だが、本書は、そのフィルポッツの悪の探求を極度に推し進めている。先の『カクテルパーティー』『愚者たちの棺』が上流階級なき後の田舎を描いたものだとすれば、本書は、その上流階級がまだ、存在を保っていたころの物語。

 准男爵家の三男で、ケンブリッジ大を首席卒業、医者として名声も高いアーウィンが、先祖伝来の荘園と資産を我が物にすべく、長男、次男その家族の抹殺を企てる。その経緯が誰にも見せない手記として回想される。殺人の大罪に爪の先ほども良心が痛むことがない犯人像は、独自の悪の哲学で理論武装している。

 超人思想の流れを汲むような主人公の人間嫌悪、人類憎悪の思想は徹底している。「あらゆる資本主義国家は人食い人種であ(る)」、「大衆は嫌悪以外の何物でもない。個人として捉えようと、あるいは群れとして捉えようと、人間は地球上における最も不快な生物である」

 悪人像を描いて、ミステリ史的にも重要な地位を占める作品だと思うが、今の眼からみて荘重すぎ、回りくどくもある悪のモノローグは、『太陽がいっぱい』のリプリーほどのインパクトはないともいえる。

 長兄の死を目論んで実行される二件の殺人は冷酷極まりないものだが、冒頭に宣言されるほどの完全犯罪とも言い難い。物語の転回点は、次兄ニコルの死を企てて(心霊術やオカルトの要素を取り入れている点が目を引く)目論見が外れ、予期しない方に話が進んでいく展開だが、ほとんど主人公には動揺は生じない。それだけに、唐突に猿が出てくる終幕には、一抹の感慨を覚える。

「国家による強奪の中に、民主主義なるものがどこにありましょう?社会主義は我が国の相続税を足がかりとして、今やあらゆる方向から我々に牙を向けているんです。荒廃した荘園が空となり、あるいは精神病院になっている」と次兄ニコルは語るが、主人公アーウィンにも共通する思いだろう。

 類い稀なるエゴイストの犯罪は、大戦をはさんで没落していく貴族階級の最後の抵抗のようにもみえるのである。 

 北村みちよ編訳『ウィルキー・コリンズ短編選集』は、『月長石』『白衣の女』で知られる19世紀の文豪、コリンズの短編集。五話収録。コリンズの短編集として手に入りやすいものに、岩波文庫『夢の女・恐怖のベッド』(「恐怖のベッド」はごく初期の密室物)があるが、本書によっても、この作家は大長編のみならず、短編でも名手だったことが窺える。翻訳も平易で読みやすい。

「アン・ロッドウェイの日記」は、同じ下宿に住む女性の不審な死をねばり強く調査する若いお針子の物語。女性探偵が登場する初の英国小説という評もあるそうだ。特段ひねりがあるわけではないが、都市の恵まれない生活の哀歓と凜とした女性像は、時代を変えれば、例えばアイリッシュが「お針子探偵」として書いたとしても不思議ではないようなみすみずしさ。「巡査と料理番」は、若い巡査が殺人事件に遭遇し、迷宮入りとなっても、独力で捜査を続けるうちに、意外な犯人にいきつく話。懺悔の形式をとることで、物語の効果がより高められている。

「運命の揺りかご」は、上等船室と下等船室の客がともに出産して二人の赤ん坊がどちらのものか分からなくなる事件を描いたユーモラスな一編だし、「ミス・モリスと旅の人」は都会小説風のオチもさわやかな恋愛譚。

「ミスター・レペルと家政婦長」は、イタリアの劇場で観た結末を知ることのない悲劇の筋が形を変えて主人公の人生に降りかかってくる運命劇・犯罪劇で、舞台の虚構が現実に模倣される華麗な趣向には幻惑される。

 すべて一人称の小説だが、一話ごとに大きく異なる語り手の性格や魅力を浮き彫りにするナラティブの見事さは、時代を超えている。

『短編選集』と時を同じくして出た、リン・パイケット『ウィルキー・コリンズ』は、19世紀の英国作家を扱った「時代のなかの作家たち」の第7巻。この叢書の特徴は、作品を時代の中にすえ、作家の誕生から今日に至るまでの社会的、文化的、政治的、宗教的側面から考察している点だという。実際この本は、階級、ジェンダーとセクシュアリティ、教育、帝国主義など社会の様々なコンテクストの面からコリンズの数多くの作品を分析している。

 コリンズの伝記的事実が興味深い。彼は上流階級の出身者であるにもかかわらず、パブリックスクールも大学も行っていない。生涯正式な結婚はせず、大工の娘である未亡人と同棲し、その一方で宿屋の使用人の女を妾に迎え、生涯別々の二世帯を養った。知り合って最も楽しかった仲間が浮浪者仲間だったとも書いている。上流社会の「インサイダーでもあり、アウトサイダーでもあった」という特異な立ち位置は、彼の作品に独自の視点をもたらしたようだ。コリンズの大きな関心事の一つが、階級の不平等と社会移動だったそうだが、なるほど、先の『短編選集』では、「運命の揺りかご」に象徴的なように、いずれも階級間の葛藤と階級移動の要素が含まれていた。

 コリンズといえば、『月長石』『白衣の女』が決まり文句のように出てくるが、コリンズ作品のメディア等への影響を論じた章では、本国イギリスにおいても1980年代半ばまでは同様だったようで、『ノー・ネーム』『アーマデイル』その他の小説が広く読まれるようになり、コリンズの批評的地位が増してきたのは今世紀に入ってからだという。現代小説への影響も大きく、自意識的にコリンズ作品に回帰した作家として、サラ・ウォーターズの名が挙げられている。作品が解体され、その諸要素が各コンテクストごとに分析されているため、気楽に楽しめるとはいかないが、新たに発見されるべき作家コリンズを読み解くための鍵はふんだんに盛り込まれている。 

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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