L’écluse n°1, Fayard, 1933/6[原題:第1号水門]

« Paris-Soir » 1933/5/23号-6/16号(全25回)

『13の秘密 第1号水門』大久保輝臣訳、創元推理文庫Mシ1-1(139-6)、1963(合本)*

『13の秘密』大久保輝臣訳、創元推理文庫307、1963(13の秘密/第1号水門)

Tout Simenon T18, 2003 Tout Maigret T3, 2007

TVドラマ『La chiusa』ジーノ・セルヴィ主演、1968(第12話、3回連続)[水門]

TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1970(第10話)

TVドラマ『メグレ警視13 第一号水門』ブリュノ・クレメール主演、Maigret et l’écluse n° 1, 1994(第13話)【註1】

 本作では各章の副題がなくなった。これまで非メグレ作品でも『イトヴィル村の狂女』(1931)、『アルザスの宿』(1931)、『北氷洋逃避行』(1932)には副題があったのだが、『紺碧海岸のメグレ』(1932)の後に書かれた長編『仕立て屋の恋』(1933)から副題は消えている。

 読み始めて、これまでのメグレとは書きぶりが違っていることに気づいた。前作『紺碧海岸のメグレ』と本作の間にシムノンが『仕立て屋の恋』などノンシリーズの作品をいくつか書いたことはすでに述べたが、明らかに作家としての技量が一段階上がっている。“小説”として、より完成度が高くなっている。

 ただその一方で、メグレが“小説の登場人物”へと変貌しているようにも思えたのだ。メグレは娯楽スリラーの探偵役としてこの世に現れたが、シリーズ最初期の数作を経て“キャラクター”から“人間”になろうとしていた時期があったと私は感じている。作者シムノンはいわばメグレの肩を借りるかたちで通俗スリラーのフォーミュラをいくつか試しつつ、作家としての経験を積んでいった。その過程でメグレはときに作者シムノンと同一化し、ときにシムノンの理想像となって、シムノン自身を支えてきたように思う。

 本作でメグレは定年前にしてすでに希望退職が認められ、あと1週間ほどでパリ司法警察を去る人物として読者の前に現れる。アパルトマンも引き払う準備が進み、メグレ夫人は物語の半ばで先に隠居先の田舎へと発つ。すなわちメグレは初老の男となっており、シリーズは大団円へ向けて駒を進めつつある。

 このような物語を書いたシムノンは、当時まだ30歳だった。ティジーという女性と結婚して10年が過ぎ、メグレシリーズの作者として成功を収めつつ、単発作品で次のステージへ向かおうとしていたシムノンは、確かに精神的にはもう充分に大人だっただろう。その成熟が、メグレとの距離感となって現れている。本作ではシムノンが、あくまで物語のなかを生きるひとりの人物としてメグレを描いているように感じられた。メグレはもはや意味もなく癇癪を爆発させることはない。メグレだけでなく登場人物の誰もがきちんと“小説”のなかでその役割をまっとうしている。説明的な地の文でこれ見よがしにテーマが開陳されることもない。

 だが本作で対決を繰り広げる輸送業の成功者エミール・デュクローと退職間近のメグレは、どちらも作者よりはるかに人生経験を積んだ大人なのだ。それほどの大人を、では30歳のシムノンは描き切ることができただろうか。“小説”としてステージが上がった本作には、そうしたさらに一歩踏み込んだ小説としての評価が下されることになる。ほとばしる才能、といったようなことだけで無邪気に評価するのは難しくなる。

 よって、本作は奇妙な寂しさのつきまとう作品だ。小説としては一歩成熟したが、代わりにメグレは私たちから遠ざかってゆこうとしている──そんな感慨を抱かせるのである。

 寂しさの一方で、本作はシリーズ第一期終了間際の、最後の輝きを放つ小説ともなっている。

 本作の舞台を俯瞰するのにちょうどよい文章がある。まずそれを引用する。

「見てごらんなさい、この水は鵞鳥がちょうの脚みたいな形をしてセーヌに流れこんでるでしょう。ここがマルヌの運河。離れて、ほんもののマルヌ川があるけれど、この地点では船が通れない。そのさきがオート・セーヌ(セーヌ川の上流)になる。オート・セーヌをすぎればブルゴーニュになるし、ロワール川、リヨン、マルセーユ、とこうつづく。ル・アーヴルとルーアンにはバス・セーヌ(セーヌ川の下流)を通らなきゃならない。この輸送を分けあってるのが二つの会社で、ひとつは『中部運河』、もひとつは『合同輸送』だ。しかし、この水門からベルギーまで、そのさきのオランダ、ザール、こいつはデュクローの縄ばりですよ!」

 その目は青く、景色をバラ色に染めている朝日がその顔も照らしている。

「わたしんのあるあたりはね、飲み屋も倉庫もダンスホールも、みんなひっくるめてわたしの所有ものですよ! 下に見える三台の起重機、砕石機もそうだし、渡しの向こうの修理工場もそうだ!」

 事件の発端は4月。シャラントンに近いセーヌ河岸で、酔った老船頭のガッサンが、自分の船《金羊毛号》に帰ろうとして運河に落ちた。ガッサンは助け出されたが、それがきっかけとなって同じ場所でもうひとりの男が運河から救出された。刃物で痛手を負い意識を失っていたその男は、その界隈で河川運行を統括する有力者エミール・デュクローだったのである。ガッサンとデュクローは古くからの知り合いであったが、誰がデュクローを襲ったのかわからない。この事件を担当することになったのが、希望退職間際のメグレであった。

 ウェブ上の「Old Maps of Paris」( http://www.oldmapsofparis.com )をご覧いただきたい。1932年のパリとその近郊の地図がある。パリ市内の中央をセーヌ川が横切っている。

 中洲のシテ島にノートルダム大聖堂とパレ・ド・ジュスティス(パリ司法宮)のイラストが見える。パリ警視庁はノートルダム大聖堂の向かいである。地図の右側がセーヌ川の上流、左側が下流だ。上流を正面に見て左手を走るのがセレスタン河岸通り quai des Célestins で、これをずっと川沿いに上流へと遡り、旧城塞の壁を超えて郊外へ出ると、そこがシャラントン Charenton である。

 そこからさらに上流を見ると、セーヌは東からやってきたマルヌ川と合流していることがわかる。1932年の地図ではそのマルヌ川が細いふたつの川として描かれているはずだ。マルヌ川の中央に洲ができているのである。その一方はおそらく運河として使われていたのであり、もう一方が正式なマルヌ川だろう。

 シャラントンの河岸に立って、デュクローやメグレとともに川の両側を見渡してみよう。セーヌ川の上流はブルゴーニュ地方へと続く。フランスにはいくつかの大きな川が流れているが、パリを抜けてルーアン、ル=アーヴルを経て北の英仏海峡へと流れ着くのがセーヌ川、ナントを経て大西洋側へ行くのがロワール川、そしてリヨンからアヴィニョンを経て南の地中海へ流れるのがローヌ川だ。いま私たちが立っているシャラントンはパリの城塞のすぐ外側、つまりセーヌ川とマルヌ川が合流しパリ市内に入り込む直前の場所だ。本作は本文中に「第1号水門」という呼称は登場しないが、パリと外部を繋ぐ地点であることは了解できる。本作でメグレが対決するデュクローなる男はその要所を司り、とくにサン=ルイ島やシテ島あたりでは知らぬ者のいない実力者なのだ。セレスタン河岸通りに事務所も持っている。

 デュクローは『男の首』の医学生ラデックと、『霧の港のメグレ』の村長グランメゾンを混ぜ合わせたような人物である。メグレがシャラントンの家へ出向くと、デュクローはメイドとよろしくやっていた直後であった。彼は権力を誇示するタイプの男で、自宅に住まわせているダンスホールの女主人とも男女関係だったことがある。メグレが退職間際だと知るとなれなれしく口を利き、今後は自分の会社で働かないかと高額の給料まで提示してくるのだった。

 ガッサンの《金羊毛号》にはアリーヌという知能の発達の遅い娘も乗っている。彼女には乳飲み子がいたが、その父親は不明だ。エミール・デュクローはこの娘も手にかけていた可能性がある。だがメグレが《金羊毛号》で娘に尋問すると、娘は怯えて子供さえ放り出してしまった。子供も泣き始めてしまい、メグレは退散する。

 事件は意外な方向へ展開する。デュクローの息子ジャンが、父を襲ったのは自分だと告白する手紙を遺し自殺を遂げたのである。茫然自失するデュクロー。その翌日、さらにベベールなる水夫がシャラントンの水門で縊死死体となって発見された。それぞれの関係はどうなっているのか? メグレはもう引退し、静寂と読書三昧に耽りたいと思っていた。しかし彼にとっておそらく現役最後となるこの事件が、次第に大きく心に迫ってくる。事件の鍵を握るのはデュクローに違いない。この男は明らかにすべてを知りながら、メグレに知と権力の戦いを挑んでいるのだ。デュクローとメグレ、ふたりの静かでかつ熾烈な対決が、メグレ現役最後の日曜日に繰り広げられる。

 クライマックス直前、第8章の書き出しが素晴らしい。

 その日は子供のころの思い出にしかないような日曜日だった。つるにちにちそう・・・・・・・・の青さにそっくりな空から、家々の影がゆらゆらと伸びている川の水にいたるまで、すべてが快適で新鮮だった。タクシーまでふだんの日よりも赤や緑が色あざやかに見え、人気ひとけがなくてよく響く通りと通りがほんのかすかな物音にもおもしろいほど反響しあっている。

 本作ではいくつかの設定が追加される。メグレの名前はジョゼフ Joseph とある(ただし『サン・フィアクル殺人事件』ではジュール・メグレであったはず)。メグレにはかつて娘がひとりいたが亡くなった、という台詞も出てくる。メグレの上司も登場する。訳文では警視総監だが原文は le chef de la P. J. ないし le directeur de la Police Judiciaire、本連載第4回で検討した司法警察局長〈グラン・パトロン〉だろう。ついでにいえば第6章の最初と最後で、メグレ夫妻の住むアパルトマンはなぜかエドガール=キネ街(14区モンパルナスのあたり)にあると訳されているが、シムノン全集の原文は『紺碧海岸のメグレ』の記述と同じで11区のリシャール=ルノワール大通り boulevard Richard-Lenoir だ(どこかのタイミングで原文が変わったのだろうか? 仏初版を確認していないのでわからない)。

 そうした作者の目配りも、シリーズ終了へ向けての布石と思えてくる。

 最後の舞台はセーヌ川とフォンテーヌブローの森の中間、サモワ Samois にあるデュクローの大きな別荘だ(『三文酒場』もこの付近にある)。ここにデュクローとその家族、メグレのみならず老船頭ガッサンも顔を揃え、酒を酌み交わしながら言葉による決闘がおこなわれる。

 デュクローの人物像は『男の首』のラデックや『霧の港のメグレ』のグランメゾンよりずっと深みが増している。シムノンの初期作品では『男の首』におけるメグレとラデックの対決が有名だが、私はじりじりと緊張の高まる本作の対決の方が読み応えを感じた。デュクローは権力者ではあるが、同時におのれの破滅を望んでいる。彼にとって本当に心の通じる他者は酔いどれのガッサンしかいない。デュクローは自分の持ち得た権力──いくらでも周囲の女たちを力でねじ伏せられるおのれを、心のどこかで嘲笑している。その複雑な心情が酔いどれのガッサンの前に出たとき露わになることを怖れてもいるのだ。そのためメグレの裁きを待っている。

 だがメグレは裁こうとしない。だからデュクローは追い詰められる。いつもと同じでメグレは自分の推理を発揮することはない。一般的なミステリー読者からすれば、メグレはいったい何をやっているのかということになる。だが本作ならばその行き着く先が納得できるのだ。このとき読者を納得させるのは、デュクローがガッサンに対していう台詞だ。核心の部分を省いて引用する。

「ガッサン!」ふと彼は気を変えて、悪意に満ちた目をきらりとさせながら叫んだ。

 だが老人はじっと相手を見つめている。

「それだけかい? おれを恨んじゃいないのか? (中略)……」

 泣こうとしたが、泣けなかった。たしかに相棒を抱きしめたい気持もあったのだ。窓に近よって閉め直すと、プチブルらしいきちょうめんな手つきでカーテンを引く。

 そして私が見事だと思ったのは、その納得の後で、さらに大小いくつかのインパクトが読者にもたらされることだ。シムノンの成熟を感じさせる。

 夜の通り雨も止み、軒や木の枝から滴がぽたぽたと落ち、セーヌ川が灰色に見えた朝。このラストのくだりを見よ。『メグレと死者の影』で、メグレは事件の重要人物がパリから逃れて国境を越えようとしているところをジュモン駅で捕らえ、車で連れ戻した。そのくだりも素晴らしかったが、今回はさらに唸らされる。ここで放り出されるあるひと言が、なんと私たちの胸に沁み入ることか。メグレはその言葉さえ裁かない。

 それはメグレの退職まで2日を残し、川を下る曳舟が二度汽笛を鳴らした、いつも通りの月曜日であった。

 ジーノ・セルヴィ版TVドラマはすでにシリーズが始まってから年月も経ち、予算もそれなりに潤沢になっていることが窺える。初期作品に比べてスタジオセットのシーンとロケーション撮影のシーンの繋ぎがより自然になり、また物語の性質上運河や河岸でのロケシーンが多いため全体的に動きが出ている。終盤に出てくるデュクローの別荘のセットも豪華だ。

 デュクロー役の俳優が大物オーラを発散してとても素晴らしい。だが彼だけでなく登場する役者のすべてがいいのだ。《金羊毛号》の娘アリーヌも、デュクローの娘ベルトとその夫も、デュクローの妻ジャンヌも、すべていい。153分をまったく飽きさせない。いままで観たジーノ・セルヴィ版では本作がいちばんいいと思う。

 ジャン・リシャール版TVドラマの監督はクロード・バルマ Claude Barma 。カトリーヌ・ドヌーヴ主演映画『パリジェンヌ』(1962)第3話の監督でもあるようだ。ドラマの第1シーズンから映画『女猫』(1958)の脚本家ジャック・レミーJacques Remyと共同で多く脚色を手がけ、また監督も担当した。本シリーズ最大の功労者だろう。ただし演出はそつがなく、個性が見えにくい。これまで観たなかでは『黄色い犬』(第3話)が監督作。本作ではメグレが退職間際だという設定は省かれており、ラストも原作とは異なる。

 そしてブリュノ・クレメール版である。監督はオリヴィエ・シャッキ Olivier Schatzky という人で、シリーズ中の監督作はこれひとつきりだが、よくできている。注目したいのは脚色で、クリスチャン・リュリエ Christian Rullier という人が担当しており、いままで観たなかでは傑作『男の首』(第21話)もそうだ。

 このドラマではデュクローの息子ジャンや水門助手ベベールがきちんと描かれる。さらに原作では後半から次第に現れる周辺の登場人物たちを、このドラマではごく最初の方で視聴者に紹介し、人物関係を整理させている。

 そう、ふつうに物語を書くならこうなのだ。ミステリードラマという観点でいえばシムノンの小説よりこのドラマの方が完成度は高い。だが各人物を始めから配置につかせたことで、デュクローの描き方は原作と異なったものになっている。彼は確かに会社で成功した実力者だが、決して破滅的ではない。視聴者の哀れみを誘うキャラクターに変更されている。そして本ドラマでのメグレはしっかり探偵役としての機能を果たし、悲劇を最小限に留めている。ラストのもの悲しさとカタルシスは、倒叙ものの代表作であるTVドラマ『刑事コロンボ』シリーズで、すでに犯人とわかっている人物が逮捕されるときのそれに近い。

 つまり共感性の描き方が違うのだ。シムノンの小説では、ジャンはおろか、ベベールに至ってはまったく描写されていない。そのことが小説としての効果を上げている。シムノンは本作でいわゆる“書かないことで書く”手法を実践している。だがその手法を用いると同時に、シムノンは本作でいままで書いてきた“自分自身”さえも書かなかった。そのことが本作においてメグレを“小説の人物”にしたように私には思える。

 先ほど、私は小説におけるラスト間際の描写で、「メグレはその言葉さえ裁かない」と書いた。だが実は違う。正確にいうなら、その言葉にさえメグレは?共感しない?のである。わかっていながら、あえて寄り添わない。ここは重要な点だ。メグレは相手に対していくらでも共感性を披露できるのにそうしないのだ。シムノンのメグレは決して多くの人が考えるところの?共感?の物語ではない。

 だがそれを“共感”の物語に変えたのが本作のブリュノ・クレメール版ドラマではないだろうか。

 物語とは何か。小説とはどのようなものであるのか。そうしたことを考えさせる本作は、やはりシムノンの成熟の過程を映し出す作品なのだろう。

【註1】

 DVD収録の「作品解説」で、翻訳家の長島良三氏が次のように解説を書いている。

『第一号水門』ではセーヌ川に架かるポンヌフ橋が再三再四出てくる(中略)。

 このポンヌフ橋の下のアンリ四世像前にドフィーヌ広場がある。

 この広場はメグレ・シリーズではおなじみで、ここには《ビリヤード・ドフィーヌ》がある。メグレ警視とその部下の刑事たちは、昼食をここで食べたり、尋問が長びくときにはこのビヤホールからサンドイッチと生ビールを取りよせる。広場と目と鼻の先に裁判所の建物があり、司法警察局はこの裁判所のオルフェーブル河岸側の一部分を間借りしているのだ。司法警察局のことをパリの人たちが《オルフェーブル河岸》と呼ぶのは、このためである。

 パリ警視庁のほうは、パレ大通りをはさんで裁判所の正面にある。もっとわかりやすく言うと、ノートル・ダム寺院広場前の建物がそうなのである。昔の翻訳では、よく司法警察局もパリ警視庁のなかにあるものと混同されているが、当時としてはフランスの事情が現在のようにはわからなかったから無理からぬことかもしれない。

 おお、そうだったのか!! シリーズ第一期も終わりに近づいてようやくわかった気がする。確かにシムノンは一貫して司法警察局所属 de la Police Judiciaire と書いてきたのであって、パリ警視庁 Préfecture de Police de Paris とは書いていない。

 本連載第4回で「明らかにメグレは、シテ島のオルフェーヴル河岸にあるパリ警視庁の建物内に事務室を持っている。そこが司法警察本部ということだ」と書いたが、それは私の勘違いだったことになる。謹んでお詫び申し上げる。

 このことは警部や警視の呼称にも影響してくるかもしれない。本連載開始後、翻訳家の高野優さんからご紹介いただいた新倉俊一他編『事典 現代のフランス』(大修館、1977、新版1985、増補版1997)では commissaire に「警視」、commissaire divisionnaire に「警視長」の訳語をそれぞれ当てている。また、この本では私服警察官と制服警察官は互いに他方へ移行することはないと指摘した上で、制服警察官の方に「巡査部長」brigadier、「警部」officier de paix を挙げている。つまりメグレのような私服警察官側に巡査部長や警部なる階級は存在しない(私服警察官のメグレが「警部」から「警視」へ昇進することはあり得ない!)、という訳し分け方だ。さあ、そうなると le brigadier と呼ばれているリュカやトランスはどうなのか、という問題が出てくる。日本の感覚ともいまひとつ合わない……。

 ところで、ジュリアン・シモンズ『知られざる名探偵物語』(イラストレーション=トム・アダムズ、宇野利泰訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1987)は7人の名探偵の活躍を紹介したイラストつきの書物だが、「メグレと盗まれた書類」という一章もある。あるとき、何気なくこの本のページをめくっていて、次のくだりを見つけたときは思わずあっと声を上げてしまった。

あの事件から、すでに数年が経過した。三〇年代に入ったばかりで、メグレはまだ警視に昇進せず、主任警部の身分にあった当時のことだ。(宇野訳)

 おお、「警視」と「主任警部」の違いが書かれているではないか! さすがはジュリアン・シモンズ、この原文を見れば諸々の問題も解決するのではないか? 

 この本でシモンズは『メグレの回想録』あたりの時代設定を想定し、メグレの知られざる物語を書いているのだ。「主任警部」は早川書房が好んで用いる訳語だが、原文はどうなっているのだろう? 

 シモンズの原著『The Great Detectives』(1981)を海外古書店で探した。原著は大判のハードカバーで、もともとトム・アダムズのイラストを存分に堪能できる体裁の本だったことがわかった。フランス語版『Les grands detectives』も出ている。しかも訳者は『殺人四重奏』のミシェル・ルブラン(ちなみに綴りは Michel Lebrun で、モーリス・ルブラン Maurice Lebranc とは別の綴りなのだということも初めて知った)。こちらも購入し、到着を待ちかねて原文とフランス語版を確かめた。それぞれの該当部分はこうなっていた。

It had happened years ago, in the early thirties, while he was still Chief-Inspector.(シモンズ原文)

Ça s’était passé des années plus tôt, dans les annés trene; il était encore inspecteur-chef.(ルブラン訳)

 なんと、「メグレはまだ警視に昇進せず」の部分は原文に存在せず、訳者の宇野氏によって加えられたニュアンスなのだった。これではシモンズ自身が「Chief-Inspector」の階級をどのように考えていたのか、読者としてはわからない。ルブランの仏訳もシムノンの原文に合わせているわけではなく、英語をフランス語に置き換えただけだった。

 ほかにも宇野訳で「メグレ警視」とあるところは原文ではただの「Maigret」で、「主任」と呼びかけるところは「Chief」(原文)、「警察の者で、主任警部のメグレです」(p.238)と名乗るところは「Police. Chief-Inspector Maigret」(原文)、「Police. Inspecteur-chef Maigret」(ルブラン訳)で、なんとも隔靴掻痒の感じである。

 ただ、ここで「おまえたちみんな、警視庁まで来てもらうぞ」(p.244)の台詞が「You will all come to headquarters」(原文)で、仏版が「Vous allez venir vous expliquer à la P.J.」(ルブラン訳)となっていることがわかったのは嬉しかった。やはりメグレが所属しているのは「P.J.」、本来なら司法警察局と訳されるべきところなのだ。

 以前に森英俊編『世界ミステリ作家事典[ハードボイルド・警察小説・サスペンス篇]』(国書刊行会、2003)のシムノンの項目で平岡敦氏が「ジュール・メグレ警視(初めは警部だった)」と書いていることを紹介した。しかし後でわかったのだが、同じく森英俊氏の編著作『海外ミステリー作家事典』(光文社文庫、2000)のシムノンの項目でも「メグレ警部(のちに警視)」とあり(解説記事執筆は小池啓介氏)、早川書房編集部編『天外消失』(ハヤカワ・ミステリ、2008)の作者紹介欄にも「メグレ警部(のちに警視)」という記述があって、「警部、のちに警視」という紹介の仕方は日本のミステリー業界でいっときテンプレートになっていたのだと思われる。だが、この問題を整理し、新しい体系を構築しようとしたのは、実はほかでもない長島良三氏だった。

 これも後で気づいたのだが、河出書房新社メグレ警視シリーズの第1巻『メグレと殺人者たち』(1976)に訳者の長島氏が異例というべき長文のあとがきを寄せており、ここで「メグレは警部か警視か」問題についてかなり詳しい考察を展開しているのだ! 冒頭にこうある。

 フランスの警察について『メグレ警視シリーズ』に関連させながら書いていきたい。

『メグレもの』は日本ではすでに三十冊余り翻訳されているが、たとえばメグレの肩書きCommissaire一つにしても、「警部」とか「警視」とか訳がまちまちなので、この機会にはっきり統一しておきたいと思う。そうしなければ、いたずらにメグレ・ファンを混乱させることになるからだ。

 まさにその通り! 

 ここで長島氏は、パリ警視庁の組織の下に司法警察局があるのだとしている。メグレの上司directeur(グラン・パトロンのこと)はパリ警視庁の局長と書いている。そして Commissaire Divisionaireに「警視長」、Commissaire に「警視」の訳語を当てている。

 長島氏の解釈では、メグレは「警視、のちに警視長」であったわけだ。

 そして長島氏は、ふだんメグレはパリ警視庁にいると書いている。「オルフェーヴル河岸」=パリ警視庁と考えている。パリ警視庁と裁判所は廊下で繋がっており、メグレはこの廊下を通って庁舎から裁判所へ行くのだという解釈である。

 もしこのパリ警視庁が本部庁舎のことを指しているなら、ここは先のDVD解説記事で見たように、長島氏が後年になって考えを改めたところだろう。メグレはパリ警視庁の本部庁舎ではなく、パレ・ド・ジュスティス(パリ司法宮)の建物にいる。メグレは自分の身分を名乗る際、「パリ警視庁」とはいわない。必ず「司法警察局のメグレ」という。

 司法警察局はパリ警視庁の一組織なのだろうが、メグレ自身はノートルダム大聖堂向かいにあるパリ警視庁本部の一員というより、パリ司法宮内の司法警察局の人間だという意識が強いのだと思われる。メグレの上司directeurは、やはり本部庁舎にいる警視総監ではなく、パリ司法宮内で執務に当たる司法警察局長と訳すのが妥当だろう。

 もうひとつ。翻訳ミステリー大賞シンジケートの「必読!ミステリー塾」(いつも楽しみにしている連載のひとつ)を拝読して気がついた。フランスに「パリ警視庁賞」と呼ばれるミステリー新人賞がある。実際の名称は「Prix du Quai des Orfèvres」で、直訳すれば「オルフェーヴル河岸賞」になる。やはりここは一読者としていままで私がうまく理解できなかったところで、「パリ警視庁賞」の名前から私が単純にイメージしていた建物と、フランス人が一般に思い浮かべるイメージは違うようだと気がついたのも最近のことである。

 日本版Wikipediaには「賞名の「Quai des Orfèvres」は「オルフェーヴル河岸」という意味で、これはパリ警視庁の所在地である。」とある。この記述はおそらく英語版Wikipediaからの翻訳だが、英語版を見るともう少しニュアンスがはっきりする。「この賞の名はオルフェーヴル河岸36番地に由来する」と番地が書かれているのだ。この「36 Quai des Orfèvres」をグーグルマップで検索してみよう。該当するのはノートルダム大聖堂と向かい合うパリ警視庁本部庁舎ではない。オルフェーヴル通り沿いのパリ司法宮内司法警察局だ。

 多くの日本のウェブページにパリ警視庁の住所はオルフェーヴル河岸36番地と断定的に書かれているが、これは誤解を招きやすい表現だと思う。私たちがふだん「パリ警視庁」といって思い浮かべる、あのアーチ型の門が聳えるパリ警視庁本部庁舎の住所はパレ通り9番地、9 Boulevard du Parais だからである。もしも「オルフェーヴル河岸36番地」といったなら、それは積極的に別の建物、パリ司法宮内の司法警察局を指していると思うのだ。仏語版Wikipédiaには司法警察局と関係の深い人物がこの賞を起ち上げたと書かれており、これが名称の正しい由来だと思う。

「36 Quai des Orfèvres」という住所をそのままタイトルにした傑作フランス映画がある。『あるいは裏切りという名の犬』(2004)だ。DVDパッケージや字幕で「パリ警視庁」とあるのは、実際にはパリ警視庁本部庁舎ではなく、一貫して司法警察局である。ストーリー上の重要な役職「パリ警視庁長官」も、やはり実際はオルフェーヴル河岸の建物で勤務する司法警察局長のことだ。メグレの物語に出てくるグラン・パトロンの役職である。

 従来「パリ警視庁賞」と表記されてきた Prix du Quai des Orfèvres の公式ウェブページ( http://www.fayard.fr/prix-du-quai-des-orfevres )を見ると、現在の審査委員長は警視総監だが、司法警察局長も別格扱いで、委員には司法警察局の人が目立つ。実際はパリ警視庁本部と司法警察局が協力して選考に当たっているものの、運営を主導しているのはいまも司法警察局ではないだろうか。

 やはりオルフェーヴル河岸という呼び名はシテ島にある司法警察組織の総称なのであって、それがわかった上で「パリ警視庁賞」とするなら問題はないだろうが、本部庁舎への特定的なイメージを掻き立ててしまう弊害を考慮すると、本来は「パリ司法警察賞」とでもするのがふさわしいものだと思う。つまりこの賞を「パリ警視庁賞」と限定的に呼称してしまうのは、メグレの勤務先を「パリ警視庁」とするのと同様のミスリードなのではないか、と私は思うのだが、どうだろう? たぶん多くの日本人は、私と同様に勘違いしている! 

 メグレの所属する司法警察局は、ノートルダム大聖堂向かいのパリ警視庁本部庁舎ではなく、同じシテ島のパレ・ド・ジュスティス(パリ司法宮)内にある。「パリ警視庁のメグレ」と表記するよりは「司法警察局のメグレ」と書いた方がより正確であり、よりメグレらしい。

 この司法警察局をメグレたちは「オルフェーヴル河岸」と呼ぶ。

 メグレは私服警察官。リュカたち部下も、本来なら制服警官であるはずの役職 Brigadier「巡査部長」とシムノンのテキストに記されているが、実際はやはり私服系統で、「警官」というよりは「刑事」。アルセーヌ・ルパンのシリーズに登場する保安部(後の司法警察局)のウェベールやマズルーも私服刑事であった。ウェベールたちはよくデマリオン警視総監(パリ警視庁本部にいるはず)といっしょに行動していたが、それはモーリス・ルブランなりの豊かな筆の遊びだったのかもしれない。

 自分のなかで、ここまで整理することができた。なにぶんフランス事情に疎いので大きな勘違いをしているかもしれないが、私にできることはこれが精一杯だ。『大空のドロテ』執筆時にわからなかったことが、少しずつわかるようになってきたと感じている。

【ジョルジュ・シムノン情報】

▼大きな注目を集めて、ローワン・アトキンソン主演の新作ドラマ『メグレ罠を張る』が3月28日(イースター・マンデー)午後9時にイギリスITVで放送された。1分版予告編はこちら。

▼シムノンの公式vimeoページ「The Simenon.com Channel」( https://vimeo.com/channels/simenon )で歴代の『メグレ罠を張る』が無料視聴できる。映画はジャン・ギャバン主演『殺人鬼に罠をかけろ』(仏)、TVドラマはブリュノ・クレメール版(仏)、マイケル・ガンボン版(英)、セルジオ・カステリット版(伊)。また「Maigret Montage」という短いPR映像には、日本の愛川欽也版ドラマもちらりと紹介されている。

▼神保町シアターでの邦画『その手にのるな』は「プリント状態不良のため」上映中止になってしまった! このためだけに上京しようと思っていたのに残念無念。

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『新生』等多数。


【毎月更新】シムノンを読む(瀬名秀明)バックナンバー