Maigret, Fayard, 1934/3[原題:メグレ]

« Le Jour » 1934/2/20号-3/15号(全24回)

『メグレ再出馬』野中雁訳、河出書房新社メグレ警視シリーズ49、1980*

Tout Simenon T18, 2003 Tout Maigret T3, 2007

TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1970(第12話)

TVドラマ『Maigret in pensione』ジーノ・セルヴィ主演、1972(第16話、2回連続)[引退したメグレ]

 眼を開ける前に、メグレは深い眠りのそこで自分に呼びかけてきたその声をいぶかるかのように眉をひそめた。

「伯父さん!……」

 瞼を相変らず閉じたまま溜息をつき、シーツをまさぐったが、手が当然そこにあるべきメグレ夫人の身体に触れなかったので、夢を見ているのではなく、何かあったのだとわかった。

 とうとう眼を開けた。明るい夜だった。メグレ夫人が、小さい枠組式のガラス窓のそばに発ってカーテンを開けていて、下では誰かが戸口を揺さぶり、その音が家中に響きわたっていた。

 メグレシリーズ第一期最終作は、このように始まる。

 すでにメグレは引退し、夫人とともに田舎へ移り住んで2年ほどが経っているようだ(「ムン Meung の家」と書かれているので、オルレアン近くのムン=シュル=ロワール Meung-sur-Loire かもしれない)。そんな夜更けに夫人の妹の息子、メグレの口利きで司法警察局──オルフェーヴル河岸に就職した甥のフィリップが、泡を食ったように転がり込んでくる。時期は2月。夜空が明るい。

 フィリップは現在の上司でありメグレの後継者であるアマディユー警視に命じられて、コカイン絡みの殺人事件の容疑者としてモンパルナスのキャバレー《ル・フロリア》のマスター、ペピートという男の身柄を拘束するため店に向かったのだが、そこでペピートの死体と遭遇したのである。動転したフィリップは現場の拳銃を手に取ってしまった。自分が殺したと思われかねない状況に気づいたフィリップは慌てて店を飛び出したが、そのとき通行人とぶつかり、不利な証言をされるきっかけまでつくってしまった。進退窮まったフィリップは、引退した伯父を頼って田舎までタクシーを飛ばしてきたのである。

 こうしてメグレは再びパリへ赴き、甥のためにやくざの抗争へ首を突っ込まざるを得なくなる。だがメグレはすでに引退した身だ。捜査権限はもはやない。司法警察局に赴いてかつての同僚や上司と対面するのも気が重いことだ。メグレは複雑な立場のなかでこの事件をどう解決するのか。

 河出書房新社版の訳者あとがきにもあるように、本作は初めて題名に「メグレ」と冠された作品であり、そしてまた「メグレ」としか書かれない作品だ。いまあらすじをざっと書いたが、明らかに本作はメグレシリーズ最後の作品として書かれたものである。そして初めてメグレが勤務していた司法警察局という職場の内部が詳しく書かれた作品でもある。フィリップという甥の存在も本作で初めて書かれたわけだが、このように?最初で最後?という特別な筋立てが、本作の最大の特徴となっている。

 メグレシリーズは全体で三期に分かれるとされている。トーマ・ナルスジャックの評論によって広まった見方のようだが、的確なので本連載でもこの区別を採用している。私なりに整理すればこうだ。

  • 第一期『怪盗レトン』(1931)から『メグレ再出馬』(1934)までの時代。第二次大戦以前。すべて長編作品。出版元はFayard(ファイヤール)。
  • 第二期:長編集『Maigret revient…[メグレ帰還…](1942)、短編集『Les nouvelles enquêtes de Maigret[メグレの新たな事件簿](1944)、長編・短編集『Signé Picpus[メグレと謎のピクピュス](1944)を中心とした時代。大戦直前から戦中期。中短編と長編合本、ただし当時は書籍化されなかった作品もある。執筆時期でいえば、「首吊り船」など1936年10月に書かれた8短編から1941-1942年の中編「死の脅迫状」まで。出版元は Gallimard(ガリマール)[n.r.f.(エヌ・エル・エフ)と書かれる場合もあり]
  • 第三期:書き下ろし中編「メグレのパイプ」と長編『メグレ激怒する』(いずれも執筆は1945)の合本『Maigret se fâche[メグレ激怒する](1947)から『メグレ最後の事件』(1972)までの時代。題名に「メグレ」と冠された書き下ろし長編が主体。戦後。出版元は Presses de la Cité(プレス・デ・ラ・シテ)。

 今回、まず目次でおやっと思ったのは、全10章であったことだ。いままでの定型より1章少ない。Omnibus社のシムノン全集をめくってみると、本作のひとつ前に刊行された『倫敦から来た男』(1934)が初の全10章構成作品であった。その後もぽつぽつと全10章の作品が現れるようになる。

 シリーズ最終作として書かれた作品が凡庸であることは珍しくない。本作はこれまで積み上げてきた設定を活かし、かつ新しい設定を提示し、商業小説としてまとめ上げることを目標につくられた、しかしよくあるタイプの物語である。パリ繁華街のやくざの抗争、というシムノン自身も大して興味のなさそうな題材が、逆に『メグレ』というタイトル以外の焦点を持ち得なかった証拠のようにも感じられる(その意味でもシリーズ第一期のメグレは、後に人気を博すフランス・ノワール小説群とは似て非なる血統であった)。

 メグレは小説のシリーズキャラクターとしてその使命をまっとうしたが、本作で私たちから離れていった。特別な存在ではなくなった。私は『メグレと深夜の十字路』『オランダの犯罪』などで作者シムノンと作中人物メグレとの間に生じていた緊張関係に目を瞠った。だがシリーズ19作を経て、いまメグレは小説のキャラクターとしての居場所を見つけ、そこに引き籠もろうとしている。

 ただ、作家として技量を上げたシムノンの腕が、そうしたメグレにいくらかの花を添えている。

 あらすじに戻ると、パリへ戻ったメグレが目をつけたのは、事件の起こった《ル・フロリア》の経営形態、そして近くの終夜営業のビストロ《ル・タバ・フォンテーヌ》にたむろする客たちだった。《ル・フロリア》はピペートが殺される前に売り払われており、事件後はすぐにマスターが変わって営業も続いていたのである。店の元締めはジェルマン・カジョーという公証人で、《ル・タバ・フォンテーヌ》を含めその界隈の店を治める顔役でもあった。そしてフィリップにぶつかった通行人は、《ル・タバ》にやってくる常連客のひとりジョゼフであった。

 メグレは《ル・フロリア》でフェルナンドという商売女と出会う。彼女と語り、彼女の家まで行ったメグレは、自分の素性を明かした上で、カジョーの周辺の男たちをそれとなく探ってほしいともちかける。このフェルナンドという女性が魅力的に描かれている。フェルナンドはいったんメグレを警戒するものの、その言葉を受けてやはり《ル・タバ》の常連客ウジェーヌから情報を聞き出す。このときフェルナンドはウジェーヌと寝たことで、男に情が移ってしまう。メグレはフェルナンドからの情報を聞きながら、前の晩には自分が行った彼女の家で、今度はカジョーの子分であるウジェーヌが過ごしたのかと思うと複雑な気持ちになる。このあたりの描き方もうまいがカジョーの策略によってフェルナンドらが風紀取締班から摘発されてしまい、戻ってきたときには彼女とメグレの間にもうあのいっときのような心の繋がりが消えてしまったことがわかるなど、本筋とは関係なく面白い。

 メグレは《ル・タバ》にほぼ半日詰め、カジョーと裏で繋がっているはずの男たちにプレッシャーをかける。彼らはすでに引退したメグレを馬鹿にする。だが次の事件はその深夜に起きた。《ル・タバ》に来たジョゼフが店を出た後をメグレが追うと、ジョゼフが何者かに襲われたのである。メグレは傷を負ったジョゼフを手当てしたが、翌日彼を司法警察局へ連れて行ったとき、事態は変化した。ジョゼフはしらを切り始めたのだ。メグレは現役のアマディユー警視を動かしてウジェーヌやカジョーにも事情聴取させるが、彼らは互いのことなど知らないと主張し、メグレを挑発する始末であった。

 メグレは現役のアマディユー警視とぎこちないやりとりを続けなければならない。腹心の部下だったリュカ巡査部長はメグレに深い理解を示してくれるが、それでも現役警官として組織の意向には従わなければならない。決め手をつかめないメグレはついに単身カジョーの家に乗り込み、一発逆転の賭けに出ることになる。

 本作では司法警察局内部の様子が初めて詳しく体系立てて描かれる。メグレの所属する司法警察局が、ノートルダム大聖堂向かいのパリ警視庁ではなくパレ・ド・ジュスティス(パリ司法宮、翻訳では「裁判所」)のオルフェーヴル河岸側にあること、現役時代のメグレはそこからすぐ近くの《ラ・ショップ・デュ・ポン・ヌフ》によく行っていたこと(本作ではメグレがリュカと何度も待ち合わせる)、かつてメグレには〈グラン・パトロン〉と呼ばれる上司がおり、その彼もあと2年で定年であること……。前回紹介した長島良三氏の文章を振り返っていただくとよくわかるだろう。いままでの作品ではこうした俯瞰図が見えなかった。メグレは le commissaire divisionnaire の肩書きで引退したのだということもわかる。

 息子のフィリップを心配したメグレ夫人の妹がパリへ駆けつけてくる。名字はローエル Lauer であるらしい。ローエル夫人はしかしアルザス女なので、事件のあったモンパルナスへ行って無警戒に身上話をしゃべってしまう。そんな彼女をやんわりと誘導するメグレがおかしい。次のやりとりは本作で私がいちばん好きな部分だ。

「これから、こうしようじゃないか。過さなくちゃならん長い夜があるわけだ。明日の朝には、われわれは元気はつらつとして、神経も落ち着き、頭もすっきりしていなくてはならん。もしよかったら、芝居へでも行くことにするか」

「お芝居ですって、フィリップが刑務所に入っているのに?」

「ふん! これが最後の夜さ」

「何か見つけたの?」

「いや、まだだ。任せておきなさい。ホテルはうっとうしい。やることはなにもないし」

「わたしは、この機会にフィリップの部屋をかたづけに行こうと思ってたのよ!」

「奴さん、怒るよ。若い男は、母親に自分の身の回りのものをかき回されるのは好かんもんだよ」

「フィリップに、愛人がいると思ってるの?」

 その言葉には、彼女の田舎のすべてが現れていたので、メグレは彼女の頬にキスしてやった。

「もちろん違うさ、お馬鹿さんだな! あいにくだが、あいつにそんなのはいないよ。フィリップは、親父さんに生き写しなんだ」

「あやしいもんだわ、エミールだって、結婚する前は……」

 彼女は、澄んだ水を張った水槽さながらだったのではないだろうか? (後略)

 こうしたさりげない部分が本作を小説にしている。それはシムノンが腕を上げてきた証拠である。だが先に述べたように、そのことが同時に本作をただのふつうの小説にしてしまった。フェルナンド、そしてこのローエル夫人は小説の登場人物としてとても愛おしい。ただその愛はいっときの暇つぶしのために生きている。

 ジーノ・セルヴィ版のTVドラマは8年間続き、本作が最終エピソードとして採用された。原作通りメグレは夫人とともに田舎へ隠居しており、冒頭では釣りや畑仕事を楽しんでいる様子が描かれる。このシリーズでは原作のリュカ刑事に相当する役柄をしばしば別の若い俳優が担当するのだが、今回はちゃんとリュカと役名を割り振られた人物が出てくる。シムノンの第一期メグレではあまり強調されていないが、後年のリュカは上司メグレを慕ってふだんからその仕草も真似るような小柄の人物として描かれるらしく、ここでもジーノ・セルヴィと同じように口髭を生やした俳優が演じている。【註1】また今回なるほどと感心したのは、やくざの元締めであるカジョー役のキャラクターだ。つねに唇の端に慇懃な笑いを浮かべた面長の眼鏡の男で、肩幅は広く体格もよいが、片足が悪く杖をついている。映画『アンタッチャブル』でロバート・デ・ニーロが演じたアル・カポネを連想させる。メグレは本作の最後に自家菜園のワインを披露する。

 シリーズ通しての監督はマリオ・ランディ Mario Landi。ジャッロ(ジャーロ)と呼ばれる流血描写の多いカルト映画ジャンルの人として後に知られるようになるのだが、このメグレシリーズでは行き過ぎた演出もなく、むしろ家庭的なユーモアとほのかな色気を健全にブレンドさせ、ゲスト俳優の実力を引き出すことに成功していたと思う。また本シリーズはエンドクレジットで情感豊かな歌謡曲が流れるのも魅力のひとつだった。本作のクレジット映像と音楽は第4シーズン『メグレを射った男』(第14話)、『メグレと優雅な泥棒』(第15話)と同じものだが、ここで映るギターを抱えた女性は、なんと本作に登場するバーの歌手なのであった。シリーズ最終回まで観て、彼女が何者なのかわかる仕掛けである。この女性が街角のフォーチュンテラーの人形からカードを買い求めるショットは、本筋とは何の関係もないが印象深い。彼女がエッフェル塔まで歩いてゆくラストはシリーズの掉尾を飾るのにふさわしいものだったと思う。

 ジャン・リシャール版のドラマに第何シーズンという区切りがあったのかよくわからないが、DVD-BOXセットでは本作がBOX1の掉尾を飾っている。監督は『第1号水門』(第10話)と同じクロード・バルマ。彼はBOX1収録作12話のうち、実に6作で監督を担当している。

 バルマ氏はメグレ役にジャン・リシャールを抜擢した人でもあるらしい。彼の演出は個性に乏しいが、その代わりキャスティングに関しては素晴らしい貢献をしていたのではないか。本作でも公証人カジョーと、その彼の店に出入りする娼婦フェルナンドの配役が本当にいい。カジョーはいかにも如才ない男に見えるし、フェルナンド役の女優は決してかわいいわけでもないし若いわけでもないが男心をくすぐる魅力がある。メグレでもつい嫉妬してしまうのがわかるほどだ。

 最後にもう一度、シムノンの小説へ戻ろう。次のようなくだりがある。

 メグレの声には、憎しみも憐れみもなかった。彼は人間的なものすべての研究にかたむける情熱をもって、カジョーを研究していたのだった。

 これは書く必要のないことだ。シリーズ第一期において、中盤ころから作者シムノンはこのように自分の主人公をあえて規定し、枠内に閉じ込める、さもわかったかのような解説を加えることがあった。もちろんこの分析は重要なもので、メグレは単純な共感性のキャラクターでなかったことがわかる。

 私たちは心を持つ人間であるから、ただ周囲を観察する、ということが難しい。見ればその対象につい心を繋げてしまう。知らぬ間に相手と同じ気持ちになっているのが共感(シンパシー)である。だがメグレはただ見て研究するだけなのだと作者は宣言している。メグレが情熱を傾けるのは、相手を研究することにおいてなのだ。これはふつうの共感性ではない。事実、本作においてもメグレはカジョーを追い詰め、彼の心をあえて突き放し、その隙を窺うという大ばくちを仕掛ける。メグレは共感性以上のものを持っている。

 だからこそ登場人物ひとりひとりの心を、読者である私たち自身がしなやかなエンパシーの能力で読み取ってゆく時間が与えられるのだ。作者であるシムノンが作為的な人物配置をおこなったとき、その時間の流れはたちまち乱れ、私たちの呼吸も乱れる。だがシムノンの筆が自然であるとき、私たちの読書体験も自然なものとなってゆく。

 私は本連載の「はじめに」で、シムノンを読むとつい乱れがちな呼吸が本来のものに戻ってゆくような感じがする、と述べた。しかしその効用はすべての読者にもたらされるわけではないかもしれない。主人公に共感することを読書の第一義として求める読者は、メグレシリーズを難しいと感じる可能性がある。自分の知り合いには共感するが仲間でなければ自分のコミュニティから弾き、あれこれ理屈をつけておのれを正当化するような人も、たぶんシムノンは合わないだろう。かつてシムノンは世界中で大いに読まれたが、少なくともいま日本ではほとんどが品切れの状態にある。本来シムノンはかつてアンドレ・ジイドが指摘したように、多くの読者を獲得するような作家ではないのかもしれない。

 これは優劣ではない。「シムノンがわかるかどうかを、その人の小説読みとしての程度をはかる尺度にしていたことが、私にはある……」という都筑道夫氏の文章を以前に紹介した。都筑氏はハヤカワ・ミステリの選書担当だったころ、なんとかシムノンのロマンを出したくて『ベルの死』(1952)というノンシリーズものを滑り込ませたのだそうだ。ところがこの小説は真犯人がつかまらない。「こんなわけのわからない小説を、今後も出すつもりなら、もうハヤカワ・ミステリは、ぜったい買ってやらないぞ」という投書がいくつも寄せられたという。その苦い想い出が、先の都筑氏の言葉をつくったのだ。ハヤカワ・ミステリというからミステリだと思って読んだのに、これはミステリではない、ふざけるな、と憤った読者が実際にいたわけである。そうした人々は自分でミステリの枠を決めて、そこから外れた作品だったといって怒りを示す。だがもっと自由に小説を楽しむことはできないだろうか。シムノン作品を愛する人は、それができる人なのではないだろうか……という想いが、おそらく都筑氏のなかに燻っていた。後年までこのエピソードを繰り返し語っている。

 しかしそうした人々の心は、指摘されたからといって変わるものではない。都筑氏は極めて的確なことを述べていたと思うが、どんなにたくさん本を読む人でも、これはミステリじゃないと声を上げる性格ならば、それは他人から何をいわれようが変わらないものだ。やはり2008年以降に河出書房新社からノンシリーズ作品が「シムノン本格小説選」として刊行されたとき、なぜ“本格小説”などと区別するのか、版元はミステリーを見下しているのか、といった反発が一部の読者にあったのではないかと、ウェブ上の感想文をいろいろ拝見して私には感じられた。そして深く考えさせられた。「本格小説」とはシムノン自身が les romans durs[硬質小説といったような意味の造語]と称したことを受け、この難しい呼称をなんとか日本語に置き換えて提示したに過ぎないのに、ここでもまず枠を決めて、それが自分の感覚と合うかどうかを判断し、刹那的な感情を人にぶつけてしまう、そういった種類の反応があったように思える。ひょっとするとそのような事態はいつの時代でも起こり得るのかもしれない。なぜならそうした心の働きは、生来的に人間に備わったメカニズムだからである。

 よってシムノンがわかるかどうかは、小説読みとしての資質というより、結局は個々人の“心の輪郭”に帰着するものではないか。枠組みから小説を読むタイプかどうか、シンパシーとエンパシーのバランスはどうか。そういった心の輪郭が、シムノンを読むことによって指標化されているだけのことではないのか。

 かつて、なぜシムノンはこんなにも読まれているのか、といった文章がたくさん書かれていた。いまなら、なぜシムノンは日本でこんなにも読まれないのか、という考察が書かれることになるのだろう。読まれるか読まれないかは時代の運なのであって、そうした考察にはあまり意味がない。だがひとついえそうなのは、少なくともここまでのシムノン作品がシンパシー至上主義ではなかったということだ。登場人物と簡単に共感できない小説は欠陥品だと見なされる時代に、シムノンの作品は好まれないだろうし、ジャンル共同体的シンパシーを掻き立てる要素の少ないシムノン作品は、「仲間の作家だから読んでおこう」という幻想がいったん消えたとき、手に取られなくなる可能性が高い。しかし、そのことは作品の善し悪しとは無関係だ。むしろいまシムノン作品は、現代の日本が忘れつつある小説の大切な一面を教えてくれる。【註2】

 以前に書いたように、シムノンは危うい心のバランスを持った男だというのが私のこれまでの印象だ。その危うさが一部の読者に何よりも静かな呼吸をもたらすことは、文芸という芸術の奥深さを教えてくれる。そして幸いなことに、メグレシリーズは本作では終わらず、続いていった。小説とは何か、という問題を、私はまだ考え続けることができる。

    

 本連載を始めるにあたって目標とした霜月蒼さんの「アガサ・クリスティー攻略作戦」では、エルキュール・ポアロやミス・マープルなど、それぞれシリーズ作品を読み終えた時点で星取り表が掲載された。私もそれに倣ってメグレシリーズ第一期の星取り表をつけてみることにした。以下の通りだ。10段階評価で、★5つが満点である。

作品名 原著発行年(記事リンク)
#1 『怪盗レトン』1931 ★★★☆
#2 『死んだギャレ氏』1931 ★★★
#3 『サン・フォリアン寺院の首吊人』1931 ★★★★
#4 『メグレと運河の殺人』1931 ★★
#5 『黄色い犬』1931 ★★★
#6 『メグレと深夜の十字路』1931 ★★★★
#7 『オランダの犯罪』1931 ★★★★☆
#8 『港の酒場で』1931 ★★☆
#9 『男の首』1931 ★★★☆
#10 『ゲー・ムーランの踊子』1931 ★☆
#11 『三文酒場』1931 ★★★★
#12 『メグレと死者の影』1932 ★★★☆
#13 『サン・フィアクル殺人事件』1932
#14 『メグレ警部と国境の町』1932 ★★
#15 『メグレを射った男』1932
#16 『霧の港のメグレ』1932 ★★★★☆
#17 『紺碧海岸のメグレ』1932 ★★
#18 『第1号水門』1933 ★★★★
#19 『メグレ再出馬』1934 ★★☆

 本連載を進めることで、私はメグレシリーズ以外のシムノン作品も順序立てて読んでみたいという気持ちに駆られるようになった。それらの作品も並行して読むことが、メグレを楽しむ最良の方法に思えたのである。そこで翻訳ミステリー大賞シンジケート事務局の皆さまにお願いし、メグレシリーズ以外の単発作品もこの連載で扱うことをご了承いただいた。

 メグレシリーズ第一期の裏で、シムノンはどのような単発作品を書いていたのだろうか。そしてそれらの成果はどのようにメグレシリーズ第二期へと繋がれていったのだろうか。

 私はシムノンのペンネーム時代まで振り返り、ひとつずつそれらのノンシリーズ作品をこれから読んでみたいと思う。メグレシリーズ第二期の執筆が開始されるまでに、シムノンは『仕立て屋の恋』(1933)、『倫敦から来た男』(1934)、『ドナデュの遺書』(1937)といった作品を書いている。映画化された『赤道Le coup de lune)』(1933、未訳)もある。それらを読んだ後に私は再びメグレへと戻っていきたい。

 次回はその準備を兼ねて、シムノンの書誌資料について私なりにまとめた番外編「シムノンを調べる」をお送りする。

【註1】

 もともとはトランス刑事がそのような役目を割り振られていた。「トランスは、まだ三十歳にしかならなかったが、かれのなかには、すでに、なにか確固たるものがあり、メグレの再生、といっても、あまり言いすぎにはならなかった。/かれら[メグレとトランス]は、もう、これまでに一心同体、多くの捜査に従って来たのであった」(『怪盗レトン』第3章、木村庄三郎訳)──トランスは『怪盗レトン』で凶事に見舞われ物語から去るのだが、TVドラマではそうした設定がないのでトランスの役名を持つ刑事はよく出てくる。

 リュカの名前は『怪盗レトン』第3章に登場する。その後『サン・フォリアン寺院の首吊人』で初めて活躍を見せる。やがて「ほとんどいつもメグレと組んで仕事をしているリュカ刑事」(『メグレと運河の殺人』第3章、田中梓訳)と書かれる通り、多くの作品に登場するようになるが、外観や性格はほとんど描写されなかった。その仕事ぶりから、心は優しいがタフで粘り強く、上司のビールにもつき合う理想の部下、という印象だったが、『霧の港のメグレ』第7章で「リュカはおよそ警視と同じほどの横幅、加えて背が低い。彼は塀によじ登った、ため息をつき、街道の左右に目をやって人がこないことを確認しながら」(飯田浩三訳)と、ややコミカルな側面が与えられてキャラクターがぶれたように思える。解説書などを見ると、シリーズ後期には上司であるメグレを尊敬してその動作を真似ている、という人となりが加わっていったようだ。

【註2】

 私は「共感ばかりを重視するのではダメだ」といっているのではない。むしろエンパシーよりもシンパシーに傾いてしまうのは私たち人間の特性であり、それは自然な状態なのである。人類学者クリストファー・ボーム『モラルの起源 道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか』(紀伊國屋書店)のなかで、人間はもともとごく少人数のグループで移動しながら生活する狩猟採集民であったことに着目し、そうした社会では集団の安全のために、仲間として行動できない者を排除するような道徳性が発達し、それが人間の共感性の基盤となっていったのではないか、また仲間内の倫理から外れる者の情報をいち早く皆で共有し排除するために噂話が機能したのではないか、という説を展開している。小コミュニティで形成される道徳観としてはいまでもよく見られる傾向であり、非常に説得力がある、と私は感じる。

 一方、エンパシーの能力は、より複雑な社会のなかで有用なのだ。自分たちと異なる立場の人々をどのように理解するか、本当の他者とどのようにともに生きてゆくか、というときの道徳規範となるからである。近年、道徳哲学と社会心理学、脳神経科学をクロスオーバーさせた学術研究が世界的ブームとなっており、とても面白い成果がいくつも出ている。前述のボームの本や、ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学』(紀伊國屋書店)、それらを踏まえたジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ 共存の道徳哲学へ』(岩波書店)などはとりわけお薦めしたい良書だが、これらの本を読むとシムノンの小説が思い出される。

 シムノンの小説は、これまでも『黄色い犬』『メグレを射った男』の回で見てきたように、こうした人間性の本質に迫るテーマを繰り返し描いているというのが私の印象だ。シムノンはムラ社会の人々を見て、非常に画一的でまるで機械のようだと感じながらも、一方ではそれこそが人間性なのだと思っている節がある。その突き放した視線、その乖離的な危ういバランスが、シムノンを唯一無二の作家にしているように思えるのである。シムノンは他人が見えすぎるために人を傷つける、危険な側面を持っている。

 それが中後期作品でどのように変化してゆくのかを、今後読み取ってゆくことができたらと願っている。それは小説がより小説らしく豊かになってゆくことと、深い関係にあるはずである。

【ジョルジュ・シムノン情報】

▼シムノンの評伝を手掛けた作家ピエール・アスリーヌの脚色によって『離愁』(1961)が舞台化され、2016年4月15日にラジオ・フランス局内の劇場で上演された。コメディ・フランセーズの俳優とミュージシャンらがコラボレートした、公開ラジオドラマのようなスタイルだったらしい。ラジオ・フランスの文化専門チャンネルFrance Cultureで5月8日午後9時に放送予定。( http://maisondelaradio.fr/evenement/concert-fiction/le-train/de-georges-simenon-adapte-par-pierre-assouline

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『新生』等多数。

 雑誌「小説推理」2016年6月号(4月下旬発売)から、新作長篇『この青い空で君をつつもう』の短期集中連載が始まりました。商業誌に小説をまともに掲載していただくのは実に2年8ヵ月ぶり。故郷の静岡を舞台とした青春小説です。連載は8月号(6月下旬発売)までの全3回。どうぞご支援よろしくお願いいたします。




【毎月更新】シムノンを読む(瀬名秀明)バックナンバー