本コラムでもたまに紹介する中国ミステリー小説家の時晨が、5月4日に自身のSNSで「中国のミステリー小説はなぜ駄目なのか」というテーマで見解を発表し、一般的に言われている駄目な理由を挙げながら反論するとともに、次の問題が大きいと述べました。

 個人的に思う鍵となる問題は、中国国内に権威のあるミステリー評論家がいないことにある。もしくは、時間を使って中国ミステリーを読むミステリー評論家が非常に少なく、ほぼいないことだ。
(中略)
 皮肉なことに日本には2人、中国ミステリーの発展を注視し、日本に中国ミステリーを紹介している人間がいる。一人は稲村文吾で、もう一人が阿井幸作だ。

 中国にミステリー関係の評論家がいないこともないし、中国最大のレビューサイト豆瓣では中国ミステリーにも多数のレビューが書き込まれます。ですが紙媒体のミステリー専門雑誌がなくなり、作品が掲載される場所が少なくなれば評論家の活躍の場も当然減ります。また中国ミステリー界隈は結局のところ狭い世界なので、レビューサイトでいくら褒めても身内向けのリップサービスと理解されかねません。だから権威だけではなく責任もある評論家が生まれるような環境が中国に今後できれば良いのですが、個人的な感覚だと今の中国ミステリーで業界を盛り上げることと評論家を育成することが果たして両立するかどうか疑問です。
 今年中国では中編と長編のミステリー小説を対象にした賞が開かれるので、そこで審査員(全員作家)たちがきちんとした評を下せるかどうかが、この流れを占うことになるでしょう。

 

 さて、こういう風に中国人でもやらないことをやっていると珍しがられ、作者から本を贈ってもらうこともしばしばあります。今回は、脚本家であり元記者でもある黄広明からもらった中国社会派ミステリー小説『遺産』(2017年)を紹介します。

 大学生の鄭淇は両親の結婚22年記念パーティの夜、母親が事故死し父親が植物人間状態になるという悲劇に見舞われる。そのパーティは父親の鄭天成が自分の製薬会社の上場を宣言した日でもあり、鄭淇は父親の所有する株式の新たな所持者となり、新たに会社を継いだ叔父の鄭天林から売却を迫られる。だが事件を担当する刑事警察隊長の許飛は、鄭淇の母親である宋卓芳の死体の頭部に傷口が二つあることから、鈍器が偶然頭部に落ちたのではなく何者かによる殴打による可能性が高いと考える。しかし検死書類には傷口が一つしか記載されておらず、警察上層部と犯人の関係性を疑う。そして鄭淇の叔母であり弁護士の宋蘭芳は、姉の死が事故死ではなく殺人と主張し、鄭淇の代理として鄭天林側と裁判を起こすだけではなく、鄭天林を宋卓芳殺害の犯人として告発する。唐突に事件の中心人物になってしまった鄭淇は、これまで仲が良いと思っていた両親の関係、信頼していた人物の過去など、知りたくはない真実を幾度も突き付けられる。

 第1部「春に死す」、第2部「危険な夏」、第3部「罪と償い」、エピローグ「別れ」に分かれる本作には様々なテーマや社会問題が詰まっていて、一言でどういう作品かと言い表すのが非常に難しいです。まずメインテーマの一つとなっているのが女性の権利。それに伴う夫婦の財産分与と法廷闘争。更には警察組織の腐敗、製薬会社の不祥事、最後には文化大革命時期の事件や安楽死の領域にまで踏み込みます。

 第1部「春に死す」では、鄭淇の両親の事件を巡り、彼女や宋蘭芳、そして許飛らがそれぞれ調査を開始。鄭淇は、関係者から自分の両親の夫婦仲が全然良くなかったこと、更には離婚すら考えていたという事実に遭遇します。許飛は宋卓芳の事件を殺人事件として単独かつ秘密裏に捜査を開始し、警察内部の腐敗を疑います。そして宋蘭芳は、鄭天成の財産を継承する権利は娘の鄭淇だけではなく妻の宋卓芳にもあると主張し、表と裏どちらの社会にも太いパイプを持つ鄭天林と法廷で闘うことを決意。

 展開が大きく変わるのが第2部「危険な夏」で、緻密な描写の法廷闘争が展開されます。財産分与の正当性を主張する宋蘭芳に対し、鄭天林側は鄭天成と宋卓芳夫婦がとっくの昔に離婚していたという、娘の鄭淇も妹の宋蘭芳すら知らなかった証拠を突き付け、従来の中国の法律に従って「元妻」宋卓芳の権利を無効と主張。ここで争われるのは、結婚後の夫の財産に妻は無関係なのかという問題であり、これまで女性の権利を勝ち取るために闘ってきた宋蘭芳は負けられません。そして宋蘭芳は、許飛が掴んだ警察による検死結果の捏造の証拠写真を提示し、市の公安局まで巻き込む大騒動に発展させます。しかしその直後、市公安局によって宋蘭芳が提示した証拠写真こそ捏造であると反論され、許飛とは連絡がつかなくなり、宋蘭芳も行方不明になります。
 ここから物語が公安小説(警察小説)的になってきます。姿を隠していた宋蘭芳は、検察院に集まる警察やマスコミの前に、市より上の省の担当者を引き連れて現れ、市公安局のトップを含む汚職を省が摘発するという大捕物をカメラの前で演じます。鄭天林を含む関係者は逮捕され、軟禁されていた許飛は解放され、世間に対して正義を示した結果になりました。しかし良いことばかりではなく、この過程で鄭淇らの味方で、鄭天成・宋卓芳夫婦を昔から知る医者の唐靭が何者かに殺されてしまいます。

 第3部「罪と償い」は主に逮捕された鄭天林の製薬会社の犯罪に焦点が当てられます。捜査によって、唐靭は殺される直前に携帯電話から鄭天林に会社の不祥事を公にするというメールを送っていたことが判明。鄭天林が指揮していた他の悪事が暴かれるとともに、鄭天成・宋卓芳夫婦の事件の真相も明らかになるという展開で、警察と裏社会のどちらにも影響力があった鄭天林に対する追撃が止みません。しかし黒幕だと思われていた鄭天林の行為が徐々に明らかになるにつれて、鄭淇の脳裏には数々の違和感が浮かび、一連の事件のほとんどは黒幕によって操られていたという信じたくない結論に至ります。
 これまで女性の権利、官僚の汚職、企業の不正、反腐敗など様々なテーマを取り扱ってきた本書は、ある人物のこれまでの言動を顧みて、腑に落ちない点から真意を推理するミステリー小説へと着地します。
 しかしミステリー小説として帰結するまでの本書にかけた作者の情熱には頭が下がります。特に第2部「危険な夏」で宋蘭芳の訴えを信じた省の警察官僚が、これ以上市に捜査を任せられないとして、恐怖で震える市の腐敗官僚をいなすシーンなんかは2017年に中国で大ヒットした、汚職官僚の不正を暴くテレビドラマ『人民の名義』(原作小説の日本語訳は『人民の名のもとに』として2018年に出版)を彷彿させます。

 作者の黄広明は1970年代生まれの作家兼脚本家であり、その前は法律分野で活躍した記者でもありまして、この辺りの経歴が中国社会派ミステリーを書いている呼延雲とかぶります。若干くどさすら感じる格式張った作中の法廷描写ももちろん取材に基づくものですし、作品内に散りばめられた他の出来事も記者時代に実際に見聞きした題材をもとにしている可能性が高いです。
 女性の社会的地位の低さ、性暴力被害、DV、官僚による腐敗、製薬会社の犯罪など、一つの家庭で起きた事件に現代中国における様々な問題を詰め込んだ本書は、作者の集大成と言えるかもしれません。

作者は本作を書くに当たって松本清張の『ゼロの焦点』がヒントの一つになったと言っています。中国での再版や日本での再映画化もありますが、約60年前の日本の社会派ミステリーが現代中国の社会派ミステリーに影響を与えており、この分野における日本の影響力はいまだに凄まじいなと感心しました。

 

阿井幸作(あい こうさく)

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/
・Twitter http://twitter.com/ajing25
・マイクロブログ http://weibo.com/u/1937491737








現代華文推理系列 第三集●
(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)


現代華文推理系列 第二集●
(冷言「風に吹かれた死体」、鶏丁「憎悪の鎚」、江離「愚者たちの盛宴」、陳浩基「見えないX」の合本版)

現代華文推理系列 第一集●
(御手洗熊猫「人体博物館殺人事件」、水天一色「おれみたいな奴が」、林斯諺「バドミントンコートの亡霊」、寵物先生「犯罪の赤い糸」の合本版)


【毎月更新】中国ミステリの煮込み(阿井幸作)バックナンバー

◆【不定期連載】ギリシャ・ミステリへの招待(橘 孝司)バックナンバー◆

【不定期連載】K文学をあなたに〜韓国ジャンル小説ノススメ〜 バックナンバー

【毎月更新】非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると(松川良宏)バックナンバー