前回の記事の末尾で予告したとおり、今回は綾辻行人『十角館の殺人』や有栖川有栖『孤島パズル』の英訳版を刊行したアメリカの出版社「Locked Room International」について紹介するが、その前に現在書店に並んでいる講談社『IN☆POCKET』2016年9月号(9月15日発売)の紹介をさせていただきたい。

◆『IN☆POCKET』2016年9月号について

 『IN☆POCKET』2016年9月号の巻頭特集は「東野圭吾は海外でも大人気! 加賀恭一郎、NYへ行く。」と銘打たれており、英語圏での評価を中心に、東野作品の海外での受容について取り上げている。主なコンテンツは以下のとおりである。

  • 東野作品の英訳者であるアレクサンダー・O・スミス氏へのインタビュー
  • アメリカ、韓国、中国、台湾の東野作品担当編集者(あるいは出版責任者)へのQ&A
  • 英米の書評の抜粋紹介
  • 文藝春秋の海外版権担当者に聞く『容疑者Xの献身』エドガー賞ノミネート(2012年)前後のエピソード
  • 各国版の装幀比べ

 アメリカの編集者への質問、「日本の東野圭吾ファンの読者にオススメする、アメリカの作家を教えてください」に対する回答などは、国内ミステリーファンにも翻訳ミステリーファンにも非常に興味深いのではないだろうか。なんと答えているかは、ぜひ現物を入手して確認していただきたい。(あと、実は拙稿も載っております。『IN☆POCKET』公式サイトで冒頭が読めます。)

 『IN☆POCKET』でインタビューに答えている日英翻訳家のアレクサンダー・O・スミス氏は、現在までに英訳されている東野圭吾の6作品のうち、『秘密』を除く5作品を訳した方である(ガリレオシリーズの『容疑者Xの献身』『聖女の救済』『真夏の方程式』/加賀恭一郎シリーズの『悪意』/ノンシリーズ作品の『白夜行』)。インタビューの中では、翻訳の際にどのような工夫を凝らしているかといった話題も面白いが、日本語英訳者になったきっかけなどスミス氏自身のエピソードもなかなか興味深い。

 スミス氏は東野作品のほか、小説では栗本薫《グイン・サーガ》、小野不由美《十二国記》、京極夏彦『姑獲鳥の夏』、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』、宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』(全米図書館協会バチェルダー賞受賞)、伊藤計劃『ハーモニー』(フィリップ・K・ディック賞特別賞受賞)などを英訳している。また、漫画では鳥山明『Dr.スランプ』、西義之『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』、上条明峰『SAMURAI DEEPER KYO』など、ゲームではファイナルファンタジーシリーズ『タクティクスオウガ』『逆転裁判 蘇る逆転』『逆転裁判4』などを英訳(ローカライズ)している。

 スミス氏は2012年、ほかの日英翻訳家らとともに「Bento Books」という出版社を立ち上げている。先月、この出版社からは森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』(第1回アガサ・クリスティー賞受賞作)の英訳版が刊行された(訳者は連載第2回で京極夏彦『巷説百物語』等の英訳者として紹介したイアン・M・マクドナルド氏)。スミス氏自身は現在は皆川博子『開かせていただき光栄です』を英訳中であり、Bento Booksから刊行の予定である。Bento Booksの出版活動については、次回以降の記事で改めて詳しく紹介する。

◆世界中の不可能犯罪物を刊行するアメリカの出版社「Locked Room International」

 さて、そろそろ予告した本題に入ろう。前回の記事では、島田荘司『占星術殺人事件』の英訳改訂版を出版したイギリスのミステリー叢書《プーシキン・ヴァーティゴ》(2015年9月創刊)を紹介した。

 『占星術殺人事件』は2004年に日本の出版社、IBCパブリッシングから最初の英訳版が出ている。そして英訳改訂版は、当初は《プーシキン・ヴァーティゴ》ではなくアメリカの出版社「Locked Room International」(以下、LRI社)から刊行される予定だった。

 LRI社(公式サイト)はアメリカ在住のイギリス人、ジョン・パグマイア(John Pugmire)が立ち上げた出版社で、2010年に出版活動を開始している。ジョン・パグマイアは不可能犯罪物、特に密室物のミステリーの熱烈なマニアで、現代フランスで不可能犯罪物を書き続けているポール・アルテの長編を英訳し、アメリカの出版社に持ち込んだりしていた。しかし刊行を引き受けてくれる出版社は見つからず、それならばと自分で設立したのが、LRI社である。

 そのようなわけで、LRI社は当初は彼が訳したポール・アルテの作品を出版していたが、そのうちフランスのほかの作家の不可能犯罪物も英訳刊行するようになり、今では日本やスウェーデンの不可能犯罪物を翻訳出版したり(これは別の人が英訳している)、忘れられた英語作品を復刊したりと、徐々に出版活動の範囲を広げている。

 ジョン・パグマイアと島田荘司の間に交流が生まれたのは、IBCパブリッシング版『占星術殺人事件』を読んだパグマイアが島田荘司に連絡を取ったのがきっかけだった。その後、LRI社で『占星術殺人事件』の英訳改訂版を出そうという話になり、パグマイアによる改訂作業が進められていた。そんな折にイギリスのプーシキン社から声が掛かり、パグマイアからの勧めと手助けもあり、『占星術殺人事件』英訳改訂版はプーシキン社から刊行されることになったのである。プーシキン版『占星術殺人事件』には、エディターとしてジョン・パグマイアの名が明記されている。この辺りの経緯は、『本格ミステリー・ワールド2016』(南雲堂、2015年12月)の巻頭言、島田荘司「「HONKAKU」船出の時」に詳しい。

 なお、ジョン・パグマイアと島田荘司の2人が組んで、日本の名作短編を米国『エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン』に紹介していく「EQMMプロジェクト」が現在進行中であり、甲賀三郎「蜘蛛」や大阪圭吉「寒の夜晴れ」(かんのよばれ)が英訳掲載されたりしたが、このプロジェクトについては次回以降の記事で改めて紹介する。

 やや脱線するが、『占星術殺人事件』の最初の英訳版を刊行したIBCパブリッシングからは先月末、『英語で読む江戸川乱歩短篇集』という本が刊行されている。「IBC対訳ライブラリー」という英文と和文の両方を収録するシリーズの1冊で、「人間椅子」(トム・クリスティアン訳)、「D坂の殺人事件」(モーガン・ジャイルズ訳)、「心理試験」(マット・トライヴォー訳)の3編を収録。3編ともすでに英訳があったものだが、この本に載っている英訳文は新たに別の訳者により訳し下ろされたものである。

 なお、この本で「D坂の殺人事件」を訳したモーガン・ジャイルズ氏に伺ったところ、英訳にあたっては江戸川乱歩の「声色」を英語で伝えることを最も重視したそうで、日本の英語学習者向けの英訳だからといって、難しい構文やフレーズは使わないようにしよう、という判断はあまりしなかったとのことである。

◆LRI社から刊行された最初の日本作品、綾辻行人『十角館の殺人』

 LRI社から最初に刊行された日本の作品は、綾辻行人『十角館の殺人』の英訳版『The Decagon House Murders』(2015年6月)である。英訳者はオランダ人のウォン・ホーリン氏(「ウォン」が名字/ご本人の希望により日本語文中では「姓-名」の順で記す)。ウォン氏は日本の「初期新本格」をテーマにした修士論文の執筆のために京都大学に留学し、京都大学推理小説研究会(かつて綾辻行人や法月綸太郎が在籍)にも所属した人物であり、法月綸太郎「緑の扉は危険」の英訳「The Lure of the Green Door」(米国『EQMM』2014年11月号掲載)で翻訳家デビュー。『The Decagon House Murders』が最初の英訳書であった。

 英訳版『十角館の殺人』は刊行前に早くも注目され、米国『パブリッシャーズ・ウィークリー』誌により「ベストサマーブックス2015」ミステリー・スリラー部門の9冊のうちの1冊に選ばれる。以下にその9冊の一覧を示す。同誌には発売前に著者インタビューも掲載された(リンク)。

  • 『パブリッシャーズ・ウィークリー』ベストサマーブックス2015、ミステリー・スリラー部門(リンク
    • 綾辻行人『十角館の殺人』
    • ドン・ウィンズロウ『ザ・カルテル』
    • テッド・コズマトカ『The Flicker Men』
    • パトリック・リー『Signal』
    • ジェイソン・マシューズ『Palace of Treason』
    • ジョイス・キャロル・オーツ『Jack of Spades』
    • ローリー・ロイ『Let Me Die in His Footsteps』
    • Jax Miller 『Freedom’s Child』
    • Heda Margolius Kovály(チェコ語からの翻訳)『Innocence, or Murder on Steep Street』

 またその後、同誌が年間を通じての優秀作を選出する「ベストブックス2015」ミステリー・スリラー部門の1冊にも選ばれた。毎年10冊前後が選ばれており、この年は『十角館の殺人』を含めちょうど10冊が選出されている。以下にその一覧を示す。「ベストサマーブックス2015」と共通するのは3冊である。

  • 『パブリッシャーズ・ウィークリー』ベストブックス2015、ミステリー・スリラー部門(リンク
    • 綾辻行人『十角館の殺人』
    • ドン・ウィンズロウ『ザ・カルテル』
    • ポーラ・ホーキンズ 『ガール・オン・ザ・トレイン』
    • ジェイムズ・リー・バーク『House of the Rising Sun』
    • スティーヴン・ドビンズ『Is Fat Bob Dead Yet?』
    • チャールズ・マッキャリー『The Mulberry Bush』
    • ニック・ストーン『The Verdict』
    • Lili Anolik 『Dark Rooms』
    • Jax Miller 『Freedom’s Child』
    • Hester Young 『The Gates of Evangeline』

 時間的に前後するが、英訳版の発売翌月の2015年7月には米国『ワシントン・ポスト』紙で、ピューリッツァー賞も受賞した高名な文芸評論家、マイケル・ディルダが『十角館の殺人』を絶賛(リンク)。記事中で彼は「honkaku」という言葉の意味や歴史を紹介し、「もっと多くの『ホンカク』に出会えることを心待ちにしている」(I myself look forward to discovering more “honkaku”)と書いている。

 英訳版『十角館の殺人』には、日本の本格ミステリーの歴史や、その歴史の中での『十角館の殺人』という作品の意義などを記した島田荘司による巻頭解説「「十角館の殺人」という実験」が収録されている。これは先にも言及した『本格ミステリー・ワールド2016』の巻頭言、島田荘司「「HONKAKU」船出の時」で全文引用されており、日本語で読むことができる。

 また、『本格ミステリー・ワールド2016』には綾辻行人インタビュー「『十角館の殺人』英訳版刊行とその反響」(聞き手・つずみ綾)や、英訳者であるウォン・ホーリン氏が日本語で寄稿したエッセイ「翻訳とHONKAKU」も掲載されており、綾辻ファンなら見逃す手はない。

 綾辻作品の英訳は、『十角館の殺人』以前に短編「心の闇」『Another』があった。「心の闇」は日本の出版社、黒田藩プレスから2012年に出版された日本SF英訳短編集第3弾『Speculative Japan 3』に収録。その後、2013年にアメリカのライトノベル/コミック系の出版社から『Another』の英訳が電子版のみで刊行された(上巻が2013年3月、下巻が同年7月)。電子版の売れ行きがよければ紙版も刊行すると当初から出版社のサイトで告知されていたが、売れ行きは好調だったらしく、2014年10月にめでたく紙版が出版された(こちらは分冊ではなく全1巻)。

 また、今年5月には『Another Episode S / 0』も刊行された。これは綾辻行人の小説『Another エピソードS』の英訳に、清原紘の漫画「Another 0」の英訳も併せて収録したものである。

◆綾辻作品の他言語訳と東アジアでの影響力

 フランスではアメリカより6年早く、2009年に『十角館の殺人』の翻訳版『Meurtres dans le Décagone』が刊行されている。また今年になって『Another』の仏訳も刊行された(2分冊/4月に上巻、6月に下巻)。

 『十角館の殺人』は筆者の知る限りで、英語、フランス語、中国語、韓国語、ベトナム語に翻訳されており、ブルガリア語訳も出る予定である。前回の記事で書いたとおり、ブルガリアでは島田荘司『占星術殺人事件』もつい最近刊行された(8月末発売予定と書いたが、やや遅れて9月12日の発売となったようである)。また、今年4月にはブルガリア語版の岡本綺堂『半七捕物帳』も刊行されている。3冊とも同じ出版社からの刊行だが、ブルガリアにちょっとした日本ミステリーブームが起こりつつあるのだろうか。

 『Another』は(これも筆者の知る限りで)英語、フランス語、中国語、韓国語、ベトナム語、タイ語、ブラジルポルトガル語に翻訳されている。

 また、清原紘による漫画版『Another』は小説版以上に多くの言語に訳されており(たとえばドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポーランド語)、スペイン語版は2014年10月、バルセロナマンガフェア最優秀青年漫画(Mejor Seinen Manga)賞を受賞している。このときの対象は2013年9月1日〜2014年8月31日にスペインで出版された漫画で、ファンの投票により受賞作が決定した(情報源[スペイン語])。受賞者(漫画版の作画を担当した清原紘)には「?」と「!」をあしらったこのようなトロフィー(?)が贈られた。

 台湾で実施されている島田荘司推理小説賞の第1回(2009年)受賞者である寵物先生(ミスターペッツ)(1980年生)は、ミステリーを書くきっかけになった作品は『十角館の殺人』だと島田荘司との対談で語っている(リンク)。また、中国の推理作家・御手洗熊猫(みたらい ぱんだ)(1988年生——ということは、1987年に刊行された『十角館の殺人』より若い!——)は『十角館の殺人』の影響下に、短編「二十角館の首なし死体」を執筆している。韓国でもソン・ソニョン(1974年生)という推理作家が『十角館の殺人』へのオマージュとして2015年に『十字館の殺人』を発表している(韓国のネット書店)。十角館→十字館というもじりが可能なのは漢字文化圏ならではである。これらはみな東アジアの作家だが、今後、東南アジアや欧米からも、『十角館の殺人』に影響を受けた推理作家が登場してきたりするのだろうか。『占星術殺人事件』の影響を受けて本格ミステリーを書いたアイルランド人ノワール作家が実在するのだから、起こりえないことではないだろう。

 なお、御手洗熊猫の短編「二十角館の首なし死体」は中日翻訳家の稲村文吾氏がすでに日本語に訳しているそうなのだが、今のところは公開の予定がたっていないようである。読みたい方は、ぜひ稲村文吾氏に要望・応援のお便りを! 中国ミステリー界の鬼才・御手洗熊猫の作品は短編「人体博物館殺人事件」が稲村文吾氏により翻訳され、Kindleで販売されている。

◆LRI社の日本作品第2弾、有栖川有栖『孤島パズル』

 今年(2016年)5月にはLRI社より有栖川有栖『孤島パズル』が英訳出版された。英題は『The Moai Island Puzzle』で、著者名の表記は「Alice Arisugawa」となっている。訳者はウォン・ホーリン氏。『十角館の殺人』以前にも英訳があった綾辻行人とは違い、有栖川有栖はこれが初の英訳作品である。英訳版『十角館の殺人』と同じくこちらも島田荘司が巻頭解説を書いており、その原文は本年末に刊行される『本格ミステリー・ワールド2017』に掲載される予定。

 先ほども登場した文芸評論家、マイケル・ディルダは米国『ワシントン・ポスト』紙に寄稿した「夏の隠れた名作11選」(2016年7月27日)で『孤島パズル』を挙げている。これはミステリーに限らず、また小説にも限らず、ディルダが新刊から11冊を選出したものである。ほかの選出作で邦訳のあるもの、気になるものをいくつか挙げておく。

  • パトリック・クェンティン『The Puzzles of Peter Duluth』
    • ダルース夫妻シリーズの中短編4編「死はスキーにのって」「Murder with Flowers」「ポピーにまつわる謎」「ニュー・フェイス殺人事件」を収録。
  • アン&ジェフ・ヴァンダミア編『The Big Book of Science Fiction』
    • 1200ページ超のSFアンソロジー。日本の作品では荒巻義雄「柔らかい時計」(Soft Clocks)、筒井康隆「佇むひと」(Standing Woman)、梶尾真治「玲子の箱宇宙」(Reiko’s Universe Box)を収録。
  • ジュール・ヴェルヌ『1835年の司祭』(未邦訳/英題『A Priest in 1835』、仏原題『Un prêtre en 1835』)
    • ヴェルヌが19〜20歳のとき(1847年〜1848年)に書いた最初の長編。ポーの強い影響下に書かれたロマンティック・スリラー小説。「推理」についてのポストモダン的な考えも示されているという。今年初めて英訳が出た。
  • イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義—新たな千年紀のための六つのメモ』
    • 邦訳あり。今年、新たな英訳が出た。
  • Con Lehane 『Murder at the 42nd Street Library』(ミステリー小説)

 LRI社からは今後も日本作品の英訳出版が続くのか、続くとしたら誰のどの作品が刊行されるのか、新しい情報がもたらされるのが楽しみである。

◆Locked Room Internationalの現代フランス作品

 LRI社から、ポール・アルテ(1955- )の作品は現在までに12冊(11長編と短編集1冊)が刊行されている。細かく紹介していくとそれだけで連載1回分ぐらいの分量になってしまいそうなので、その12冊の一覧はTogetterにまとめておく(リンク)。このうちの6長編と短編集収録作の半数ほどは未邦訳である。逆に、邦訳があって英訳がない作品としては、『カーテンの陰の死』『狂人の部屋』『殺す手紙』および中編「赤髯王の呪い」がある。

 現代フランスで唯一の不可能犯罪専門作家、ポール・アルテは綾辻行人と同じ1987年にデビューしている。黄金時代の探偵小説復興という同じ志を持った作家が同年に日本とフランスでデビューしているとはなんという偶然だろうか。

 LRI社から英訳出版された現代フランス作品はアルテ以外に、ジャン=ポール・テレック(Jean-Paul Török、1936- )『モンテ・ヴェリタの謎』(未邦訳/仏原題『L’énigme du Monte Verita』、2007年)がある。ビル・プロンジーニ激賞の密室物である。Webサイト「風読人(ふーだにっと)」のかつろう氏がLRI社版を読んでレビューを書いている(リンク)。

◆Locked Room Internationalのフランス古典作品

 フランスの古典作品では、1930年代に密室・不可能犯罪物の長編を1ダースほど発表したというノエル・ヴァンドリー(Noël Vindry、1896-1954)の作品が2作刊行されている。どちらもアルー判事シリーズの作品。

 ノエル・ヴァンドリー(「ノエル・ヴァンドリ」とも表記)は2013年11月に「ROM叢書」で、同じくアルー判事シリーズの『逃げ出した死体』(小林晋訳/仏原題『La Fuite des morts』、1932年)が翻訳出版されたが、サイトを見るとすでに完売だそうである。

  • The House That Kills (未邦訳/仏原題『La Maison qui tue』、1931年)
  • The Howling Beast (未邦訳/仏原題『La Bête hurlante』、1934年)

 また、さらに時代を遡った1871年の作品、アンリ・コーヴァン(Henry Cauvain、1847-1899)『マクシミリアン・エレール』(未邦訳/仏原題『Maximilien Heller』)の英訳版もLRI社から刊行されている。この作品は作者の死後に『L’Aiguille qui tue』と改題されて出版されており、LRI社の英訳版のタイトルはそれに基づく。変わり物の青年マクシミリアン・エレールと医師の「私」が密室内の毒殺事件の謎を解くという物語で、コナン・ドイルのホームズ&ワトソンの造形に影響を与えたのではないかともいわれる作品である。松村喜雄『怪盗対名探偵 フランス・ミステリーの歴史』(晶文社、1985年6月 / 双葉文庫、2000年11月)の第1部第9章「密室について」にこの作品のあらすじ紹介がある。ミステリー研究同人誌『ROM』117号(2003年)には小林晋氏によるレビューが載っている。

 LRI社から英訳出版されたフランス作品は基本的にすべてジョン・パグマイアが訳したものだが、ポール・アルテの短編集『The Night of the Wolf』のみRobert Adeyとの共訳である。フランスの古典作品では、1930年代に密室物を含む長編探偵小説を数作発表したガストン・ボカ(Gaston Boca、1903-2000)の作品の英訳出版も予告されている。

◆Locked Room Internationalのスウェーデン作品

 スウェーデン作品は、ウルフ・デュアリング(Ulf Durling、1940- )が1971年に発表した密室物、『Hard Cheese』(未邦訳/スウェーデン語原題『Gammal ost』)が刊行されている。この作品も『ROM』117号(2003年)に小林晋氏によるレビューが載っている(仏訳版の『Pour un bout de fromage』に基づくレビュー)。ひょんなことから知り合った探偵小説マニア3人は毎週探偵小説談義のための会合を開いていたが、そんなとき近隣で実際に密室殺人事件が発生。探偵小説マニア3人が密室について語り尽くす、という作品だそうだ。

 かなりマニアックな内容のようだが、1971年のスウェーデン推理作家アカデミー最優秀新人賞の受賞作でもある。なおこの作家は2010年にはスウェーデン推理作家アカデミーより巨匠賞を授与されている。

◆Locked Room Internationalの台湾作品

 台湾からは林斯諺(りん しげん、Szu-Yen Lin、1983- )の2006年の長編『雨夜莊謀殺案』が翻訳出版される予定である。この作品は2015年に改稿版が『雨夜送葬曲』のタイトルで刊行されている(台湾のネット書店)。邦訳はない。

 筆者は未読なので、中日翻訳家の稲村文吾氏に許可を取ってレビューを引用掲載させていただく。

林斯諺『雨夜送葬曲』(稲村文吾氏のブログ「浩澄亭日乗」、2016年7月24日

台湾の山奥に建つ、上空から見ると「雨」の字の形をした館「雨夜莊」(見取り図)へ、一年前にそこで起きた一家殺害事件を再調査するため哲学者でもある名探偵・林若平が招かれる。しかしその晩、同時に館を訪れていた大学生グループの一人が視線と鍵による二重の密室から首なし死体となって発見される。その後も、豪雨によって交通が途絶した館の中で、学生たちが次々と密室状況で命を落としていく。

2006年に『雨夜莊謀殺案』のタイトルで刊行された第二長篇が再刊行されたもの。館ものの定型を真正面から受け止めた作品だが、それぞれの思惑を秘めた登場人物たちの視点を頻繁に切り替えていくことで、密室殺人と事情聴取が続くシンプルな展開に変化が付けられている。続発する密室殺人の一つ一つが相当に不可能性が高く、一体どうやって解決するのかと思ったら——なるほど。解決編には一つの事実でバラバラだった謎の大部分が氷解する妙味があって、発想のスケール自体はそれほど大きくないが、細かい伏線を重ねていくことでそれがむしろ現実味を演出するものとして立ち上がってくる。

(中略)

「コード型」から台湾で生まれた成果(意外と例は少ないのだ)としては出色のものの一つだと思う。

 この作家は、米国『EQMM』2014年8月号に短編「羽球場的亡靈」の英訳版「The Ghost of the Badminton Court」が掲載されており、2016年5月号にも短編が掲載されている。米国『EQMM』に作品が載った、中国語圏の最初の(そして現在のところただ一人の)作家である。「羽球場的亡靈」は稲村文吾氏により邦訳され、「バドミントンコートの亡霊」としてKindleで販売されている。

◆LRI社による忘れられた英語作品の復刊

 LRI社から刊行された英語作品は、今のところデレック・スミス(1926-2002)の作品集成『The Derek Smith Omnibus』(2014年刊)のみである。長編の『悪魔を呼び起こせ』『パディントン・フェアへようこそ』『Model for Murder』(未邦訳)およびショートショート「The Imperfect Crime」(未邦訳)を収録。このうち『悪魔を呼び起こせ』以外の作品は英米では未出版であった。3長編はどれも不可能犯罪物だが、「The Imperfect Crime」はそうではないとのこと。

 翌2015年には、『悪魔を呼び起こせ』(Whistle Up the Devil)『パディントン・フェアへようこそ』(Come to Paddington Fair)はそれぞれ別個でも購入できるようになった。

 『悪魔を呼び起こせ』は日本では1999年に国書刊行会《世界探偵小説全集》の1冊として森英俊氏の翻訳で刊行されている。また『パディントン・フェアへようこそ』は2014年8月に「ROM叢書」の1冊として宇佐美崇之氏の翻訳で出版されたが、すでに完売とのことである。今後の商業出版物としての再刊を期待したい。

◆前回の記事の補足と、『群像』2016年9月号について

 前回の記事の補足を1つしておく。イギリスで昨年創刊されたミステリー叢書《プーシキン・ヴァーティゴ》は表紙デザインが凝りすぎているためどうにも文字が読みづらく、一部で不評の声があがっていた。そして2016年5月以降の刊行作品ではデザインが一新されている、ということを書いた。そのときは知らなかったのだが、それ以前の刊行作品(2015年9月の創刊から2016年4月までに刊行されたもの)も新デザインの表紙が作られているようである。増刷時などに順次入れ替わっていくのだろう。島田荘司先生ご本人が、今年5月にプーシキン版『占星術殺人事件』新表紙の画像をツイートしていたのだが、すっかり見逃していたのである。

 なお同ツイートによれば、『占星術殺人事件』はイタリア語版の出版のオファーも来ているとのことである。

 さて、記事の冒頭で講談社『IN☆POCKET』2016年9月号の紹介をしたが、最後に講談社の出版物をもう1点紹介したい。すでに「次号」が発売されてしまっているのでバックナンバーまで揃えている大型書店以外には置かれていないが、文芸誌『群像』2016年9月号(8月6日発売)である。この号に載録されているシンポジウム「作家と翻訳家」(2016年3月11日実施)は、湊かなえ『告白』や桐野夏生『OUT』、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』等の英訳者であるスティーヴン・スナイダー氏も参加しており、ミステリーの話こそ出ないものの、日本の小説の英語(やフランス語)への翻訳事情に興味のある方は必読である。

『群像』公式サイトより(リンク

シンポジウム「作家と翻訳家」

小川洋子、堀江敏幸、松浦寿輝と、それぞれの作品を翻訳しているスティーブン・スナイダー、アンヌ・バヤール=坂井、辛島デイヴィッドが、沼野充義の司会で、創作と翻訳の楽しさ、苦しさを語り合います。

 辛島デイヴィッド氏は日本で「形而上学的推理小説」という売り文句で刊行された松浦寿輝『巴』(ともえ)の英訳者。この作品はフランスの作家、A・D・G(アー・デー・ジェー)の『おれは暗黒小説だ』などを思わせるノワール小説で、フランスでこそ受けるのではないかと個人的には思うが(そして実際、日本の文化庁の事業でフランス語に翻訳はされたようなのだが)、残念ながら出版にまではいたっていない。

 辛島氏はほかに筒井康隆『時をかける少女』なども英訳している。島田荘司の短編「発狂する重役」の英訳者でもある(米国『EQMM』2015年8月号掲載)。

 アンヌ・バヤール=坂井氏はフランスで第3巻まで出ている石田衣良《池袋ウエストゲートパーク》シリーズの仏訳者である。このシリーズは英訳書は出ていないが、第1巻の第1話「池袋ウエストゲートパーク」のみ、日本文学英訳アンソロジー『Digital Geishas and Talking Frogs』に収録されている。

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。論創ミステリ叢書『金来成探偵小説選』(2014年6月)解題執筆。ほかに「日本作家の英米進出の夢と『EQMM』誌」(『本格ミステリー・ワールド2015』)、「日本作家の英米進出の現状と「HONKAKU」」(『同2016』)。マイナーな国・地域の推理小説をよりメジャーな世界へと広めていくのが当面の目標。

 

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