ある日、忽然と人が消える——ミステリにとっては魅惑的な状況だ。かつて、人が消えるミステリを500編以上扱い、失踪のパターンを26に分類しているブックガイドまであった(三國隆三『消えるミステリ』青弓社) 。

 我が道を行く論創海外ミステリの今回の3冊は、また、マニアックなセレクションだが、この「消えるミステリ」が並んでいて興味深い。

 オースティン・フリーマン『アンジェリーナ・フルードの謎』(1924)が扱うのは、美しい元女優の失踪にまつわる謎だ。戦前に翻訳があるが、極端な抄訳といわれており、完訳は今回が初めて。

 こんなことを書くと失格かもしれないが、どうもフリーマンという作家、あまり読む意欲をかき立てられなかった作家だった。『赤い拇指紋』(1907)と短編を読んだくらい。ホームズのライヴァルたちの筆頭に挙げられるソーンダイク博士が、科学者探偵とされていることがまたそそらない。ホームズ譚と黄金期の間に位置する、当時の科学知識によって解決されるいささか古めかしい本格物、くらいの認識だったのだが、本書でその蒙を啓かれた思い。

 語り手は医師のストレンジウェイズ。新米の医師だった彼はある夜、見知らぬ男に乞われ眉目秀麗な婦人を往診する。彼女には首を絞められた痕跡があり、ショック状態に陥っている。周囲の男たちも怪しげで部屋ではコカインの包みらしきものも目にする。医師は婦人と一度だけの出逢いが忘れられない。しばらく経って、ストレンジウェイズ医師が独立開業することにした町ロチェスターに、かつて往診した婦人アンジェリーナが夫から逃げ、隠れ住んでいることを知る。

 つまりこの小説で扱われているのは、コカイン中毒のDV夫が起こす、逃げた妻へのストーキング。1920代の小説としては、何とも先鋭的で現代に通じる素材だ。アンジェリーナのかかりつけ医となったストレンジウェイズ医師は、彼女への思いを募らせるが、彼女はある日忽然と姿を消してしまう。そして、彼女を探し、つけまわしていた夫も時を同じくして失踪する。

 アンジェリーナの行方は杳として知れないが、やがて次々と彼女の遺留品らしきものが発見されていく。彼女を失った医師は、ソーンダイク博士と知遇を得て、博士に捜査を依頼する。 

 本書の眼目は、謎多き失踪事件の真相だが、もう一つの売りは、ディケンズ『エドウィン・ドルードの謎』をモチーフにしている点だ。文豪の遺作で結末が明らかになっていないこの小説は、多くの人の関心を集め、チェスタトンをはじめ、真相に迫ろうとする人たちを生んだ。最近紹介されたブルース・グレイム『エドウィン・ドルードのエピローグ』もそのような小説だったし、我が国でも、観客の投票制で結末を変えるミュージカル版が上演されたのも、記憶に新しいところ。といっても、本書は『エドウィン・ドルードの謎』を小説に即して解明しようとするものではなく、舞台となる町ロチェスターや、失踪というプロット、小説の小道具である生石灰やアヘンといったモチーフを使って再構築したというところだろうか。

 古い歴史と独特の地勢をもつ町の風情や、医師と、友人となる若者やソーンダイク博士とのおっとりとした交情を挟みつつ、物語は進行する。ソーンダイク博士は、多数の手がかりを緻密に組み上げて、検死尋問の場で、鮮やかに謎を解いてみせる。

 真相が明らかにされて「えっ」となるか「えーっ」となるかは人によって分かれるだろう。この時代だからこそのプロット、といえるかもしれない。しかし、個人的には作中のところどころに感じていた、かすかな違和感がすっと腑に落ち、大いに堪能した。真相を知って読むと、密やかな手がかりが作中にばらまかれていたことを知らされる。

 右に落ちれば不自然のそしりを受け、左に落ちればネタが割れる、危険な綱渡りだが、作者は、犯人同様、細いロープを最後まで渡りきったといえるのではないか。現代にも通じるテーマに加えて、趣向を凝らした充実の一作で、遅まきながらフリーマン作品に大いに興味をかきたてられた作品。まもなく、初期の代表作『オシリスの眼』も新訳で提供されるのも楽しみだ。

 次は、断崖絶壁から飛び降りた男が虚空にかき消えてしまうミステリ。

 ノーマン・ベロウは、イギリス出身ながらオーストラリアやニュージーランドに永らく在住した作家で、不可能犯罪ファンには、唯一の紹介作『魔王の足跡』(1950)に続く邦訳が待望されていた。オカルティズムに彩られた不可能興味満載の『魔王の足跡』は、カーの衣鉢を継ぐ作品を求める読者は喜ばせても、ややごたごたしたような印象があったが、モードを切り替えたのか『消えたボランド氏』(1954) は非常にすっきりしている。その中核をなすのは、やはり不可能興味。 

 霧深いシドニーの郊外の岬。その断崖絶壁から、三人の男が見守る中、ボランド氏は飛び降りた。男たちは直ちに崖下に駆けつけるが、釣り人たちは何も起こらなかったという。ボランド氏は虚空に消えてしまったのか……。

 ホックの短編「長い墜落」を思わせる飛び切り魅力的な謎の設定。

 ボランド氏は、謎の隠遁者。闇取引で委員会の調査が及ぶ寸前であり、失踪する理由はあったのだが、どのように消えたのかは皆目見当がつかない。さらに、事件の背景には、“ジーニアス”なる謎の人物がいて、彼の正体を警察に告発しようとしていた小悪党も時を前後して殺害されていることが発見される。

 消失事件が起きるのは、70ページを過ぎてからだが、それ以前も短い章割りで、人物紹介や事件に至る事情を積み重ねていて小気味いい。

 探偵役を務めるラジオドラマの老優J・モンタギュー・ベルモアは大変存在感がある人物。仕事に入れ込むあまり日常生活でもドラマ上の配役を演じる、いわば成りきり人間であり、彼の役柄の一つには、名探偵というのもある。この老優が色々なキャラを演じ分けながら、謎の核心に迫っていくというのが何ともユニークで、友人のタイソン警部らサブキャラクターとのやりとりも、物語に花を添えている。訛のきついチェコ移民らの造型も面白く、彼が消失事件のときに発した「ヤンプ・・・しないで、ミスター・ボランド!」(本書の原題: Don’t Jump Mr. Boland!) は、なかなかの名セリフだろう。

 探偵のキャラクター設定からも分かるように、全体にユーモラスな筆致で綴られている。特に、後半、会社社長の自宅のパーティ場面で繰り広げられる莫迦騒ぎは圧巻で、謎解きの筋を逸脱したかと思わせるほど。しかし、この場面でも新たな殺人が起こり、その状況にも創意をみせ、しっかり手がかりも仕込んでいるのはさすが。 

 肝心の消失トリックは、状況が限定的にすぎ、読者の想像の範囲に収まるものかもしれないが、少なからぬ殺人事件を織り込みながら後味が良く、読者にレッドへリングを掴ませて真相を巧みに隠す手腕は大いに買える。

 こじつければ、「消える人たち」ということになるだろうか。

 かつては、幻の作家であったフィリップ・マクドナルドの紹介も進んできて、この作家についての見通しもだいぶん良くなってきた。本書『生ける死者に眠りを』(1933)は、本格ミステリからスリラー、サスペンスに軸足を移していく時期の長編。本書も、探偵役ゲスリン大佐は登場せず、本格ミステリとも言い難いが、映画を意識した場面運びの妙、シャープな筆さばきは十分味わえる。

 英国片田舎の岬に立つ屋敷に、女主人ヴェリティからの手紙で、かつての陸軍少将と大佐が呼び寄せられる。三人は、かつて七百名の兵士の命が失われた事件に関わりがあり、女主人はパスティオンを名乗る男に殺害を予告されていた。どこからともなく最終通告が寄せられたその夜、猛烈な嵐が押し寄せる中、少将は、親戚らの客三名を呼び、周囲を固めるが、屋敷にいる男女の中で第一の凶行が発生する。 

 典型的な嵐(雪)の山荘物、クローズド・サークル物といえるだろう。クリスティー『そして誰もいなくなった』(39)が有名だが、閉ざされた屋敷での殺人を扱ったパウル・レニ監督の映画『猫とカナリヤ』(1927) 辺りが淵源となるのだろうか。ほかに有名なところでは、クイーン『シャム双子の謎』(1933)、最近紹介されたものではP・ワイルド『ミステリ・ウィークエンド』(1938)  などがある。注目すべきなのは、クローズド・サークル物のフォーマットが既に本書で確立されていることだ。

 次々と起こる殺人の恐怖、見えない犯人、周囲からの孤立と公的捜査の非介入、生き残った者の主導権争いと疑心暗鬼、錯乱などクローズド・サークル物の諸要素が網羅的に盛り込まれている。場所を限定した一夜の物語としての完成度は、作者の先見性を示すものだろう。

 犯人を隠蔽する仕掛けとして面白いものを用意してあるし、その正体も最後まで隠されている。本格ミステリにしなかったのは、作者の志向は既に映画的なサスペンスの追求に向いており、検証-推論を繰り返す探偵小説的形式を欲しなかったのかもしれない。

 読んでいる間に思い浮かべたのは、マクドナルドの戦争小説 Patrol を映画化したジョン・フォード監督の『肉弾鬼中隊』(34)だ。英軍の中尉が率いる騎兵偵察隊がアラビア兵の銃弾に殲滅されていく。銃弾は四方から飛んでくるのに、敵の姿が見えない恐怖は、この作品にも通底しているように思われる(法月綸太郎氏の本書解説でも、この映画との関連が詳しく論じられている。この解説は作品史を踏まえた上で「大量死論」までを射程に入れた深い考察がなされており、マクドナルドのこれまで見えなかった像を浮かび上がらせて必読だ) 。

 正体を隠して跳梁する犯人がいささか超人的すぎるなど、俗に流れるところもあるが、そこも、また作者らしいといえばいえるだろうか。

 グラン・ギニョル風、ということばは知っていても、それが実際どんな恐怖演劇だったのかは一ミステリファンには判然としなかったのだが、2010年に真野倫平編・訳『グラン=ギニョル傑作選』(水声社)が出て、ベル・エポックのパリに生まれた恐怖演劇のおおよそが掴めるようになった。アンドレ・ド・ロルド『ロルドの恐怖劇場』は、そのグラン・ギニョル座の座付き作者で恐怖演劇の創始者でもあるロルドの短編小説を22編収録した日本オリジナル短編集。

 当然のことながら、蝋人形の恐怖、手術台での惨劇、恐るべき復讐譚などグラン・ギニョル劇と同様のモチーフを扱っている。『グラン=ギニョル傑作選』掲載の主要作品紹介を眺めると、同工のものが多くみられ、自身による演劇台本を小説化したものも多いようだ。

 運命の皮肉を描いたモーパッサン的な短編もないではないが、一編が短いだけに、わびもさびも抜きにして、簡素な物語に様々な恐怖が剥き出しに投げ込まれている。血が噴出し、眼が抉り取られる、直截に感覚に訴える部分は、こどもの頃に接した怪奇漫画や風説めいてもいて、郷愁すら感じさせる。

 超自然的な要素が入ったゴーストストーリーめいたものはない。グラン・ギニョル的な恐怖の培養器となるのは、人間の精神、とりわけ狂気や強迫観念といった人間内部に潜むものだ。それゆえ医者や病院を描いたものが多く、特に、この時代の、科学と神秘のあわいにあるような精神医学の領域からは、多くの恐怖を汲み上げている。これらの短編は、サイコホラーやサイコサスペンスのルーツともいえ、「無罪になった女」などは、ルース・レンデルの長編のプロットのようでもある。

 作中、ほぼ扱われるのは悲劇で、復讐譚の形が多く取られるが、その悲劇には多くの場合、嫉妬や傲慢、自然の摂理に逆らうなどの原因がある。

 それゆえ、むしろ復讐に何ら説明のない「精神病院の殺人」「ヒステリー患者」、迷妄を糺すことで逆に復讐される「大いなる謎」といった短編には、ヴィヴィッドな恐怖の肌触りがある。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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