こんにちは。早いもので今年ももう十一月。空気がひんやりしてきたら、翻訳ミステリー大賞予備投票は目前です。翻訳者のみなさま、投票作品の選出作業は順調に進んでますか? わたしはギリギリまで読みつづけることになりそうです。悪あがきと言われたって、一作でも多く読みたいじゃないですか。もしかしたら傑作を読み逃しているかもしれないし。というわけで、月末までバタバタしてしまいそうですが、今年はどんな作品が候補にあがってくるのか、今から楽しみです。

 でもそのまえに、十月の読書日記いってみましょう。

■10月×日

 サンドリーヌ・コレットの『ささやかな手記』は、タイトルの印象とはかけはなれた過酷な監禁記だ。

 訳者あとがきにあるとおり、冒頭の精神科医の語りで、主人公がどんなめにあったにせよ、生き延びて今では手記を書けるほどになっているのがわかっているし、謎解きやどんでん返しがあるわけではない。それでも読者は心をつかまれ、手に汗握ってしまう。静かな力が感じられる作品だ。そして、現代の話であるだけに、怖すぎる物語だ。

 妻リルを寝盗った兄マックスへの傷害で十九カ月間の刑期を務めあげたテオ・ベランジェは、接近禁止命令が出ていたにもかかわらず出所早々兄に近づいて、早くも追われる身となる。南仏の片田舎の民宿に潜伏するうちに、山歩きの楽しみに目覚めたテオは、民宿のおかみマダム・ミニョンが用意してくれる軽食を持って、毎日ハイキングに出かけるようになる。このあたりはやけにのんきで、ハイキング小説(?)のような雰囲気だったが、山歩き中に見つけた廃屋に誘いこまれてから状況は一転。テオは地下室に監禁され、ふたりの老兄弟の奴隷としてこき使われることになる。

 あまりにも過酷すぎる労働。しだいに失われていく人間性。テオは麻薬組織や売春組織の担い手にさせられる子どもに自分をなぞらえる。希望を失い、ゆっくりと忘れ去られていく子供に。この世に正義はあるのか? あの世にだってないのではないか?

 テオってそんなめちゃくちゃ悪い人じゃないのに、刑務所から出てすぐこれって気の毒すぎ。しかも、もうすでに充分ひどいだろというところで、事態はこれからもっと悪くなるぞ、という煽りがそこかしこにあって、「もうやめて〜」と思ってしまう。

 テオを監禁するふたりの老人「バジルとジョシュアの関係は、マックスと俺との恐ろしい破滅的な関係に似ている」という。子供のころから三十年だから、マックスへの恨みは根が深い。「マックスはいつでも俺を殺すことができる」と思いながら子供時代を過ごすなんて過酷すぎるよ。妻を寝取られたことで積年の怒りが爆発したんだろうなあ。そう思うとすごく同情してしまう。わりといいうちの子たちみたいなのに。

 カエルの歌に耳を傾け、星屑の光を体に取りこみ、自分のささやきを物質の基本的な構成要素のクォークになぞらえるテオ。こんな状況でも詩情を忘れないテオってすごい。だんだんと獣のようになっていくのを自分でも感じながら、必死に人間性を失うまいとしているテオのギリギリ感と詩情豊かな自然描写が溶け合って、何このせつなさ!

 失ってわかるささやかな幸せ。あたりまえのことができていた日々への追憶。テオは監禁されたことで人間として深みが増したように思う。学びすぎるくらい多くのことを学んでいると思う。まちがってもお勧めできる精神修養法ではないけど。

 この事件の恐怖を体験できる〈戦慄のハイキングコース〉が観光客に人気、と物語の冒頭にあるけど、ハイキング好きなわたしでも絶対参加したくないわ。

■10月×日

 エリザベス・フェラーズといえば、一九九八年の『猿来たりなば』から紹介がはじまったトビー・ダイク&ジョン・シリーズのイメージが強く、ユーモア・ミステリの書き手という印象を持っていたが、ノンシリーズの『カクテルパーティ』はガチな本格ミステリ。これがまたべらぼうにおもしろくて、フェラーズの代表作と言いたくなるのもわかる。

 ロンドン郊外に住む元女優のファニー・ライナム(50)は、年の離れた弟のキット(30)が婚約したことを祝うため、ご近所さんや友人を招いてカクテルパーティを開く。隣家の堅実な娘スーザンをキットの嫁にしたかったファニーには、キットが結婚を決めた相手、ロンドンのジャーナリストで絶世の美女だが子持ちの未亡人というローラがどんな女性なのか、観察しようという腹もあった。ファニーは得意料理のロブスター・パイを作るが、テーブルで取り分けられたそれはなぜかひどく苦く、みんなが閉口するなか、ただひとり旺盛な食欲を見せた人物がいた。

 とここまで書けば、その人物の行く末は言わずもがな。そう、死んでしまうわけだが、なぜその人物が死ぬことになったのか、そもそもなんでみんながひと口も食べられないほど苦いパイをおいしそうに食べたのか、犯人のねらいはなんなのか、魅力的な謎が目白押しで、ページをめくる手が止まらない。

 あらたな推理が披露され、あらたな事実が明らかになるたびに、事情がガラリと変わって推理がひっくり返される。この翻弄されてる感がたまらない。シンプルですっきりとした印象なのに、すてきに饒舌で、プロットに過不足がない。キャラクターの人数がちょうどよく、性格づけも絶妙だし、カクテルパーティを中心として、その前後で人間関係が大きく変化するのもドラマチック。食えない人ばかりだが、なかでもスーザンの父親のトム・モーデュの毒舌頑固親父ぶりがとくに強烈で、その姿が目に浮かぶようだ。ラストは意表をつく落とし方で、最後の最後まで油断できないところも読後の満足感につながる。舞台にしてもおもしろそう。トム・モーデュはぜひ笹野高史で見てみたい。

■10月×日

『ゴーン・ガール』を購入して以来、ずーっとAmazonさんにオススメされ続けてきたギリアン・フリンの『冥闇』。ようやく重い腰を上げて読んでみたら、『ゴーン・ガール』とはまったくちがうタイプとはいえ、これがまたぶっ飛びなストーリーで、どうしてもっと早く読まなかったのかと自問したくなるおもしろさだった。ごめんね、Amazonさん。

 一九八五年に起きたデイ家惨殺事件。母パティとふたりの姉ミシェルとデビーが殺され、当時七歳だった末っ子のリビーだけが生き残った事件は、リビーの証言で当時十五歳だった兄ベンが殺人犯とされた。それから二十四年後の二〇〇九年。仕事もせず善意の人びとから寄せられた寄付金で暮らすリビーは三十一歳になっていた。寄付金も底をつき、生活が困窮していたリビーは、過去の殺人事件のマニア集団・殺人クラブの存在を知り、家族の遺品やエピソード、自分の話が金になると聞かされる。デイ家殺人事件の真相を知りたがっている殺人クラブのライルに背中を押され、リビーは当時の関係者に話をききにいく。

 とにかく謎解きがおもしろい。ベンはほんとうに犯人なのか? 事件当時ほんとうは何があったのか? 当時を知る人びとは二十四年後のいま何を語るのか? それによりよみがえっていくリビーの記憶。真相はとてつもなくつらく、悲しく、やるせない。でも、心をぎゅっとつかまれると同時に、不思議な温かさも感じた。なんだろう、これ。今までにないカタルシスの形だ。

「あの頃は、精神科医も、警察も、検察も、誰も彼もが、人を見たら悪魔崇拝者だと思っていたの」というリビーのセリフからもわかるように、悪魔崇拝が関係していることや、年代的に、キャシー・アンズワースの『埋葬された夏』とかぶるところがあるなあと思いながら読んだ。最初は、いくら事件の被害者だからってあまりにも無気力な大人になってしまい、誇れるものといえば万引きのテクニックだけというリビーに憤りを覚えたが、事件までのデイ家の事情や事件後の状況を考えると、無理もないのかなあと思ってしまう。とくに事件当時の状況は読んでいて冷静ではいられないほど悲惨で、幼い三人娘の無邪気さがよけいに悲しい。でも、殺人事件マニアの面々(とくにライル)のオタクぶりなどはどこかオフビートで、ある意味ほっとできる部分だったりする。こういうものにもマニアっているんですね。

■10月×日

 帯に?高純度謎解き本格?の文字が燦然と輝くヘレン・マクロイの『ささやく真実』は、ベイジル・ウィリング・シリーズ初期の作品。オカルトとか社会情勢が関係してくるわけでもなく、純粋に謎解きだけを楽しめるという点で高純度なのだろうが、なんかわくわくする宣伝文句だ。

 資産家の美女クローディアは、知人の研究室から開発中の新薬?真実の血清?を盗み出し、自宅でパーティーを開いて飲み物に混入する。それは、投与されると知っていることや考えていることをぺらぺらと話してしまうという薬だった。パーティーに出席したのはクローディアのほか、彼女の夫でイケメン脚本家のマイク、マイクの元妻フィリス、クローディアが経営する繊維会社の総支配人チャールズ、クローディアの若い友人ペギー、そして、新薬を盗まれたと知って、結構を変えて乗りこんできた生化学者ロジャー。パーティーはとんだ暴露大会となるが、その夜クローディアは何者かに殺害されてしまう。死体を発見したのはウィリングだった。

 やっぱりマクロイはおもしろいな〜。自白剤を手に入れて、パーティーで暴露大会をしちゃおうなんて、現実にはもちろんありえないけど、ミステリの設定としてもけっこうありそうでないかも。殺され方も凝っている。夫の元妻をパーティーに呼んだりして、わかりやすく一悶着フラグが立ってるし、チャールズもペギーも何か秘密を抱えているようで、全員があやしすぎる行動をとるし、いろんなところに目くらましや伏線がちりばめられているから、読んでいて楽しくて楽しくて。伏線の回収のしかたがまたすっきりと気持ちいいんだ、これが。

 これまで読んだマクロイ作品のなかでいちばん好きなのは『幽霊の2/3』だけど、『ささやく真実』もかなり好き。端正ということばが似合う、完成度の高い作品だと思う。

 本書はシリーズ三作目で、精神科医ベイジル・ウィリングは四十三歳。この夏はロングアイランドのハイ・ハンプトンで浜辺の小屋を借りて、数人のグループと共同ではあるが、ニューヨークまで水上飛行機で通勤している。なんかゴージャス。ギゼラとはまだ結婚していないけど、彼女とのデートも伏線として使われていたりしてぬかりない。

 それにしてもクローディア、性格悪すぎない?

上條ひろみ(かみじょう ひろみ)

英米文学翻訳者。おもな訳書にフルーク〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、サンズ〈新ハイランド〉シリーズなど。趣味は読書と宝塚観劇。近刊訳書はバックレイ『そのお鍋、押収します!』フルーク『ブラックベリー・パイは潜んでいる』

■お気楽読書日記・バックナンバーはこちら